其の228 石室の中
……これは……眼鏡が曇っていたからではありませんね……。
眼鏡を外して拭いてから掛け直しましたが視界は特に変わりません。
……辺り一面が真っ白……。
ここには何度も足を踏み入れていますが、いつ来てても違和感というか不思議な感じがしていたものです。何せ何百年も前に作られている古い部屋ですし、常に状態保存やら色々な魔術が施されていますからそう感じるのは仕方がないと考えていました。それに大陸中から魔力が集まっているのですから尚更でしょう。しかし今日は肌で感じるどころか目に見えておかしな点がありました。部屋全体に無味無臭の乳白色の霧が掛かっているのです。
……集まっている魔力が膨大ですから、それが可視化されてしまっているのですかね? しかしこれはまた……。
良く見ればただ白いだけでなく薄い虹色にも見えました。その幻想的な光景に思わず立ちすくみます。
「ワー! ナニコレ! まるでミリーの中みたい!」
アリシアの声が聞こえて来るまでそのまま見惚れていました。
「え? そうなのですか?」
「うん。でもミリーの中の方が居心地がいいよ!」
「……そ、そうですか……」
その様なことをいわれましても返答に困ってしまいますが、何れにしても褒められれば悪い気はしません。少しばかり頬が熱くなって来たのを感じたのでしたが、しかしそれは長くは続きませんでした。
───ッ!
突如、霧が揺らぎ影が見えたからです。
───な、何かがいる!?
しかしそんなことはあり得ないのです。
ここはアンナの魔力を帯びている者しか入れない場所。現状その資格がある者はわたしだけになります。比喩でなく、例えネズミ一匹ですら入ることは出来ません。弾かれます。しかし確実に何かがいます。しかも見えたのは小さなものではなく明らかに人影。
例え何かの見間違えだとしてもここは警戒した方が良いでしょう。何せここにいるのはわたし一人っきり。
急いで頭の中に声を掛けました。
(アリシア! 警戒して下さい。何かいるみたいです! いつでも魔法を使える準備を!)
(……)
更にイザベラとオババにも注意を促したのでしたが、アリシア同様、いつまで経っても返答が返って来ませんでした。ついでに声を掛けてみたアンナも同じです。
……むう……つい先程までアリシアとは話していましたのに……。
この霧が影響しているのでしょうか。
しかしその原因をゆっくり考えている暇はありません。緊急事態。この場は自分一人の力で乗り越えなければならない様です。
手に持つ杖に力が入りました。
……しかしこれは失敗しましたね……。
現状わたしの持つ得物らしい物はこの杖しかありません。丸腰です。以前レニーから貰った杖は折れてしまっていますので、今は取り敢えず適当な杖を使っていました。本当でしたら折角ですので術式を判断に盛り込んだ物騒な杖を作ろうと思っていましたが当然そんな時間はなく、またエルハルト達に「陛下にはちゃんとしたふさわしい物を!」と、あれやこれや豪奢な杖を候補に挙げられている最中になります。そこには色々と思惑も絡んでいるのでしょう。面倒くさいことです。
こんなことになるのなら城内であっても完全武装でいるべきでした。常在戦場の心掛けを忘れているとは、わたしも焼きが回ったものです。これは精進せねばなりませんね。
今は色々と嘆いていても仕方がありません。行動あるのみ。敵でなかったのなら後で謝りましょう。こんな所にいるのが悪いのです。先手必勝。兵は拙速を尊びます。
そう決心すると勢い踏み込みました。何度もは駄目ですが一、二度と位ならば脚の痛いのを我慢して素早く動けます。そしてそのまま杖を霧の中に見えた人影目掛けて振るいました。
───むっ!
しかし手応えがありません。
一瞬、実体がないのかとも思いましたがそうでもない様です。すんでのところで躱されるのが見えました。近付いたことでわかりましたが、相手は上半身裸の厳つい男。当然そんな者に見覚えはありません。不審者確定です。これは放ってはおけません。
しかしそれに気が付いた時にはもう既に手遅れでした。避けられた相手が放つ手刀が下腹部に向かて来るのが見えます。
───ッ!
それは確実にわたしのお腹を穿つ勢いと鋭さでした。
……こんな所で……。
瞬時に死を理解し、頭から血の気が引き身体が強張ります。
下腹部が圧迫されて一瞬息が止まりました。この後は熱く激しい痛みが来るのと共に、このまま息をすることはなくなるのでしょう。
……思えば短い人生でした。道半ばというよりも勝利を確信した矢先にこの始末。相手が誰であるかはこの際関係ありません。呪い続けてやりますからね……。
そんな恨み言を走馬灯の代わりに頭をよぎらせていると、身体が後ろに飛ばされました。
……?
痛いは痛いのですが思った程ではありません。確実にアザが出来てしまうでしょうが、お腹を貫かれている感覚はないのです。それを不思議に思ったのは相手も同じ様でした。その男は一瞬躊躇した様子を見せるとすぐに後ろに飛び去り、霧の中に紛れます。
その様子を警戒しながら視線は外さずに尻餅をついたままお腹の辺りを弄ってみると、服に穴が空いているのがわかりました。今の攻撃によるものでしょう。ゾクっとしました。そしてそのまままさぐっているとその奥にあった物に指が触れて、その瞬間に今の状況を理解出来ました。
……あ! コレのお陰でしたか……。
以前この石室で見つけたアンナの恋文。イザベラがどうしてもとせがむものでしたから肌身離さず持ち歩いていた物です。状態保存の魔術が施されていますから、ただ持っているだけでも魔力を消費しまう厄介な物。わたしにとってはこれくらいでしたら対した問題にならないとはいえ、正直邪魔でしょうがなかったのですが今は考えを改めます。
───助かりましたよ! 感謝します!
これはオババでもなければ破壊不可能な代物。これ以上に堅牢な物をわたしは知りません。こんな物でも使い様によっては有用な武器になります。そのまま鈍器として使うのも良いですが、術を解いてばらけさし、一枚一枚に術を施し直して短刀を投げる様にしても使えます。または辺り一体にばら撒いて目眩しにして一旦ここから逃げ出す手助けにもなるかも知れません。
例えそれでアンナが騒いでもで知りません。何を置いても我が身が大事。意思の疎通が取れない今は丁度良いともいえますね。
……地獄に仏とは正にこのこと! この一本の蜘蛛の糸を有効活用しましょう!
早速恋文を取り出して身構えようとしたのでしたが、視線の端にまた人影が見え、驚いて手が止まりました。
───ッ!
今度は明らかに先程の厳つい男性とは異なる細身な者の気配です。それが男が消えた方へ走り抜けて行きました。これはただごとではありません。
……わたしの大嫌いな例のアレも、一匹見つければその何倍もいるのだと聞きますが、もしや……。
ここに入り込んでいる曲者は一人や二人等ではないかも知れません。
途端、背筋に冷たいものを感じます。
───ま、不味いです!
最悪の状況です。あの男だけでも厄介ですのに、これ以上は完全に無理です。ここにおいての取るべき行動は逃げの一手しかないでしょう。三十六計逃げるに如かず。下手に対処しようなどと考えている場合ではありません。
ゆっくりと立ち上がると、二つの人影が消えた方を睨みつつ後ろに下り始めました。するとすぐに何かが背中に当たる感触が。
……? 壁にしては柔らかいですね……。
入って来た所や周りの壁までにはまだ距離があるはずです。仮に中央にある石で出来ているアンナの玉座だとしても明らかに感触が違います。一瞬困惑しましたが、それが何かなのかはすぐにわかりました。突然両肩を何者かに掴まれたからです。
───ほら出たー!




