第1話 あの、助けてください
「――加藤さん! 加藤さん! いるんでしょう? 電気メーター、動いてますよ!! いるのはわかってるんですよ!」
ドン、ドン、ドンと何度も扉を叩く音と、大家さんのものと思われる声が聞こえてくる。
それは俺の部屋ではなく、隣の部屋で繰り広げられているようで、無関係な俺からすると、うるせーな。以外の何者でもなかった。
たしか、隣に住んでいたのは新卒で上京したばかりの男の子だった筈だ。
何度かエレベーターで鉢合わせしたが、物腰も柔らかそうな、良い子に見えたんだけどな。
「家賃! 払ってくださいよ! 3か月も音沙汰なしじゃこまりますよ!!」
家賃滞納か……。コロナ禍で色々大変なのもわかるが。
まだ若いとはいえ払うべきものは払うべきだし、せめて連絡くらいはしたほうが……。いや、やめておこう。俺も決して人に講釈垂れるほど出来た社会人じゃないしな。
さすがに、これだけ呼んでも出てこないんだったら、出てこないだろう。
そういえば、最近は見かけてないから。てっきりテレワークかと思ってたけど、仕事にも行ってないんじゃないか?
「あ。やっとでてき……あなた誰ですか!? 加藤さんは?」
「……えっと、加藤です」
あ、出てきたのか。
やめておこうと、思いつつも会話に耳を傾けてしまう。完全な野次馬だな俺。
「彼女さん? 妹さん? もしかして、同居? 困りますよ1DKなんですから、先に言っておいてくれないと」
「……いえ、あの、違うんです。僕が、加藤なんです。加藤いつきです」
「あのね、あなた。加藤さんに言わされてるのかもしれないけどね、そんなこと言っても、払うもの払わなきゃ出てってもらいますからね! で、ほんとの加藤さんは中にいるの?」
聞こえてくるのは大家さんのいつも通りの大きなおばさん声と、可愛らしいちょっとおとなしい感じの女の子の声だった。
加藤という新卒リーマンのことを俺は詳しくは知らないが、女の子を連れ込んで家賃滞納して、女の子に対応させるってどういうことだよ。
うらやま――じゃない、なんか無性に腹立ってくる。
「なか、入らせてもらいますからね!」
「……あっ! あの、ほんとにっ。ほんとに誰もいませんから!」
「……いないわね」
どうやら部屋の中に無理やり大家さんが入ったようだ。
というか、ドアを少しだけ開けて聞き耳たてているとはいえ……ここまで隣の騒動が丸聞こえな建物構造ってやばいよな――。
安物件だから、文句は言えないけど。
家賃2.8万。
それがこの1DKのアパートの価値だ。
3か月分ってなると……。8万5千円でおつりがくるくらいか。
そこそこ溜めてるな。加藤。
「今日のところは帰りますけど、加藤さんにちゃんと連絡に出るように言っといてくださいね! あと、あなたは家に帰りなさいっ! あんまり、だめな男に引っかかっちゃだめよ!? せめて自分の家のお金くらいちゃんと払うひとを選びなさいよ……まったく、契約のときは真面目そうにみえたってのに……」
「……やっぱり、気になるな」
他人事、とは思いつつも。好奇心もあった。
だからせめてその加藤の彼女さんだけでも一目見てやろうと思った。
可愛かったら癪だけどな。
俺は自室の扉を開き、いまにも隣の502号室を出ようとする大家さんに声をかけた。ちなみに俺の部屋は501号室になる。
「ども……っす」
「あ、斎藤さん。ごめんなさいねぇうるさくしちゃって」
「いえ、いいんです。なんとなく、状況は察してますんで。大家さんにとりあえず挨拶だけでもと――」
それらしいことを言いつつ、俺は大家さんの隣に立ち尽くす女の子の顔をちらっと覗き込んだ。
目があった瞬間、その女の子の可愛さに思わずドキッとしてしまう。
黒髪のセミロングの髪。ぱっちりとした瞳。
ノーメイクなのか、やけにナチュラルな感じの肌も、若さゆえのきめ細かさを感じさせる。たぶん、年齢はあの新卒リーマンである加藤と同じくらいだろう。
俺の視線に気づいて、びくりと怖がったような反応を見せる。
申し訳なさをそのまま表したような表情だが、悪いのはキミじゃなくて、加藤だと、言ってやりたい。
「斎藤さんはしっかり毎月入れていただいているので助かってるわー。あ、もうこんな時間! 私はこれで失礼しますわね」
大家さんもまた、声を荒げていたことに対して俺に気まずさがあったのだろう。
そそくさと退散していった。
そのやり取りの間も、彼女はなぜか部屋に戻らずにずっと黙ったまま立ち尽くしていた。
「あー……なにか?」
「えっと、うるさくして。ごめんなさい」
「いや、いいよあの大家さん、いつも何かと声でかいし。それにこれは……あー、こういうのなんだけど。キミのカレシの加藤さんの問題でしょ? キミがそんな申し訳なさそうにする必要なくないか」
「あの……さっき大家さんには信じてもらえなかったんですけど――」
申し訳なさそうな表情が、さらにバツが悪そうなものに変わる。
遠慮がちに開かれた唇からは俺の想像するところとは全く別の言葉が飛び出してきた。
「僕が、加藤いつきです……。3か月前パワハラにあってて、会社行きたくないっておもいながら寝て、起きたら。こうなってました」
「……こうなってたっていうのは」
いや、もうなんとなく理解してる。わかってしまってる。
理解には苦しむが……。
「――見た通り、女の子になってまして。あの、助けてください」
問題はそれをどうして、俺に言うのかというところだったりもする。