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この話は拙作『セーブ&ロードのできる宿屋さん』のスピンオフかつ最終話になります。
コミックを読むか商業小説書籍4巻までは読んでいないと話がわからない可能性があります。
本編全部とおまけまで全部読んでるとわかるネタが随所にあります。
その宿屋はいわゆる『新区画』にあって、区画整備をする肉体労働者たちによって繁盛していた。
とはいえ最近の王都は本当に人の出入りが激しいから、街を囲う壁の外に造られた宿屋はたいてい繁盛していて、その中にあっては目立たない程度の売り上げ、というところだろう。
ここ最近は本当に激動の時代があった。というかたぶん、まだその渦中にある。
きっかけは王制撤廃で、それによってどうなったかといえば、ますます王都だけが栄え、地方からの人がどんどん流入してきている。
なにせ王都で行われる新しい国王……『代表』を決める選挙で選ばれさえすれば、誰でも次の王になれるのだ。
それを目当てに有力な者が支持者を連れて王都に来る。すると人口が増えて住処を拡張する必要性が出る。
住処を拡張すれば居住区の周辺に日用品やら嗜好品やらを扱う店がほしくなり、ますます面積が足りなくなって、ついには初代大王が手に入れた当初からあったとされる、街を囲う壁の周辺に新しい街が形成されていくありさまだった。
『新区画』というのはその『壁の外』であり、どうにか街の体裁も整い始めてきたとはいえ、まだまだ古びたテントや急拵えの木造家屋なんかが大部分を占めている。
おまけに『壁の中』に入るには通行税というものが生じるようになった。
人の大規模流入をとどめたいがための施策だったが、このせいで『儲け話がたくさんあるから王都あたりには行きたい。けれど通行税は支払えない』という者が主な『新区画』の住人となり、ようするに街をぐるりと囲むようにスラム街ができてしまった、というわけなのだった。
その困った区画において『安全』は宿を判断する際の一つの指標であり……
ニキータが『その宿』を選んだのも、ぱっと見て、ここが一番安全そうに感じられたからだ。
というのも、他の宿屋はいかにも荒っぽそうな、治安の悪いこの地域になじむ人が受付に態度悪そうに座っていて、内装もどこか汚らしく、木造の壁からは宿泊客と思しき者たちの、昼から酒の入った下卑た笑い声が響いてくるというありさまだったのだが……
この宿は、きれいだった。
なにより不思議と存在感の薄い宿屋、という感じが気に入った。
……とある風聞巷説に『本当に必要とする者の前にだけ現れる宿屋』というものがある。
それはきっとこのような穴場なのだろう、とニキータは思ったし……
なんだか『呼ばれている』ような感じに、運命を感じたのだ。
引き開ける扉の感触も奇妙に軽い気がして……まあ木の一枚板の扉なので、そりゃあ軽いのだけれど……ふらふらと足を踏み入れる。
すると目の前にあるカウンターには美しい白髪の少女が座っていた。
その少女は冷たそうな切れ長の目からちょっと瞳を動かしてニキータの存在を確認すると、読んでいた本……日記? をカウンターの上に置いて、静かに語った。
「いらっしゃいませ。『銀の狐亭』へようこそ」
愛想のない応対だったが、この『新区画』において、過剰に愛想がある応対は詐欺かなにかを警戒してしまうだろう。
乱暴でもなく、雑と断じるほどそっけなくもない。
ただ静かに当たり前に、落ち着いた声で『いらっしゃいませ』と言われるだけのことが、新区画においてなによりこちらの緊張を解きほぐすもてなしなのだということを思い知らされる。
その受付の少女はニキータがいつまでも入り口で固まっているからだろう、首をかしげた。
無表情で首をかしげるその動作は、どこか幼い。
背が高く、すらりとした、長く美しい白髪のミステリアスな少女がふと見せた子供のような動作に、ニキータは同性なのに思わずどきりとした。
「あの」
「あ、ああ、失礼した。宿泊なのだけれど……料金……は、ああ、はい。そこにある通りなのだね?」
新区画の宿代は基本的に口約束であり、質の悪い宿などでは話がまとまって荷物を置いたあとに水増しされることも少なくない。
なにせ口約束なものだから、『お客さんの聞き間違いじゃあないですか?』と言われると強く出ることもできず、うまい宿屋はこっちが強く出られないギリギリの水増しをしてくる。
ところがその宿屋にはカウンターのところに料金表がある。
……なんでピンク色を基調とした色合いで書かれているのかわからないし、色合いがちょっと淫靡で怪しい感じなのだが、ともあれハッキリ書いてあるというのは安心できる要素だ。
でもちょっと気になったので聞く。
「……すまないが、ここはその、『普通の宿屋』で合っているか?」
すると少女は無感情に「ああ」となにかに納得して、
「『連れ込み宿』ではありませんよ」
慣れきった対応だった。
たぶんいつも聞かれるのだろう。
……言わずと知れたことではあるが、『連れ込み宿』というのは、行きずりの男女が連れあって入って個室で性的に仲を深め合う宿屋のことだ。 王都暮らしが長い者はその手の性的な話題が苦手らしいと聞いたこともあるのだが、この宿屋の受付少女は田舎育ちか、さんざん聞かれて慣れてしまったのか……後者のような気がする。
「料金に納得していただけたなら、宿帳へお名前をいただきたいのですが」
「……新区画の宿屋なのに宿帳まであるのか」
「うちは本店が壁の中にありまして。そこのマニュアルに準じた経営をしています」
「ふむ……」
初代大王の時代から神殿が無償で子供たちに教育を施しているので、自分の名前ぐらいは書ける者がほとんどだ。
ただし『民が自分で自分の名前を書く機会』が田舎だとほぼないので、これは『誰もが字を習っているし読めるのだが、それ以上の文字習熟をする熱意があるのは、将来都会に出てのしあがろうという情熱ある者しかいない。つまりほとんどいない』という意味になる。
よくも悪くも食糧にさほど困らないので、今のままでいいやと思う者が少なくない。
その『少なくないうち』に入らない熱意ある者たちはこうして王都に集まってしまっているので、地方の人手、特に『人々をまとめあげる熱意と能力双方を持つ者』や『これまでにない問題に直面した時にそれを解決できる責任感と力がある者』がなくなっていた。
ルクレチア女王陛下……元女王陛下といえばよくも悪くも後世に名を遺しそうなお方ではあるのだが、今回の王制撤廃政策は、彼女の性質をよくあらわす『よくも悪くも』案件だと言えよう。
「滞在は何日ほどのご予定ですか?」
「……料金後払いなのか」
「それも本店のマニュアルでして」
「この新区画でそのやり方では踏み倒しも多く発生するだろうに……問題はないのか?」
「この宿屋の料金を踏み倒すことは不可能です」
「そ、そうか」
触れない方がいい、剣呑な気配を感じる。
まあ新区画でやっているのだ。清濁併せ飲まねばならないだろう。
こんな儚げで美しい少女が受付にぼんやり座っていても、酔漢が冷やかしにこないのだ。
もしかしたら裏のつながりがかなりヤバイ宿屋なのかもしれない……
「ま、まあ、そうだな、踏み倒す気はない……が、一日ごとの更新にしていただけるかな? 実はその、どのぐらいかかるかわからないのだが」
「月極の賃貸契約もありますが」
「なんだその画期的なシステムは……いや、本当にいつまでかかるかわからないのだ。人を訪ねに来たのだが、お忙しいお方だというし、私は事前に連絡が適う関係性でもないので……いったいいつ、お会いできるかわからないのでな……」
「捜し人でしたら、お力になれると思いますが」
「……ここは普通の宿屋なのだよな?」
「連れ込み宿ではないですね」
「そ、そうか……いや、その、とにかく、うん、有名な人だし、所在ははっきりしている。ただ、有名な方だけに、お会いできるかはわからないというか……」
「語りたくないなら立ち話もなんなので、お部屋にご案内いたしますが」
「なにかすまない。急に興味なくなってしまったか? ここまで言ったんだし、せっかくだから名前だけでも聞いていってくれ」
「そうおっしゃるなら」
「なかなかペースのつかみ難い御仁だな……あのな、なんと……オルブライト様なのだ」
「はあ」
「オルブライト様なのだが? ご存じないか? かつて家督を奪われかけながらも見事に取り返し、今や元女王陛下の覚えもめでたく、さまざまな貴族からの支持を受け、代表選出選挙において最有力候補の一人と言われる、あの若き才媛のロレッタ・オルブライト卿だぞ?」
「存じ上げてますよ」
「ああ、そうか。なるほど」
「なにに納得したのかわかりませんけど、たぶん勘違いです」
「たしかに有名人の知り合いを吹聴する者は少なくないだろう。けれどな、私はたしかにあのお方の遠い親戚だという証明もできるのだ。詳しいことは言えないが、ご本人と話すことができればわかっていただける」
「いえ、そこは疑ってないですよ」
「もうちょっとこう……! ないか? いいリアクション。私はだんだん自信がなくなってきたのだが……あれ、オルブライト様っていうのは、オルブライト様で合っているよな? 『ええ!? あのオルブライト様の血縁!?』というおどろきが、普通起こらないか? それかもっと疑うとか……」
「お望みのリアクションをとれずに申し訳ありません。昔から妹にも『感動が薄い』と言われていまして。あと、オルブライト様ご本人を見たこともあります。というか……まあ、なんていうか」
「有名人だものな。王都暮らしなら遠目に見る機会もあるか」
「…………そうですね。よく似ていらっしゃいますよ。髪の色とか、話し方とか」
「そうか! そうだろうとも!」
「事情によってはお力になれそうです。オルブライト様になんのご用で?」
「いや、それは……」
「じゃあお部屋にご案内します」
「興味! 持ってくれよ! 正直に言うよ! 誰かに語りたいんだ!」
ニキータがそう言うと受付の少女の顔が一瞬『マジでめんどくせえ』みたいに歪んだ気がしたのだが、まばたきのあいだにもとのミステリアスで儚げな様子に戻っていたので、気のせいだろうと思うことにした。
もはや『愛想がない』と断じてしまってもいいほど無愛想にあごをしゃくって続きを促す少女に、ニキータはちょっと『急に接客態度がぞんざいになった……』とショックを受けた。
しかし誰かに言いたかった気持ちがいよいよこらえきれなかったのもあって、ニキータは口を開く。
「このたび育ての父と結婚をしたいと思ったのだが、そのために『血の証明』が必要で、オルブライト様に発言を求めに来たのだ」
「お力になりましょう」
急に身を乗り出してきた。
態度が変わりすぎてちょっと怖い。
しかしニキータは事情を話すことにした。
すると興味を失ったからではなく、内緒話をするために部屋に通してもらえることになった。