4. 鈴蘭
バータルは雨に打たれながらその場に蹲ったまま時を過ごした。
見るがいい、自分の殺した躯を。
僕の最初の狩りだ。皮をはいで焼いて食べたら父さんは僕を許すのかな。干し肉にすればいいのかな。
いや、やめろ。僕は頭がおかしくなりかけてる。多分肩から血と命のかけらがこぼれていっているからだ。あまり時間はない。
手紙を書かなきゃ。
やがてここに訪れるであろう父と、残された母に残す手紙だ。
どれだけ経ったのか、雨はいつのまにか止んでいた。地平線に広がる雨雲の下に一線、夕焼けの赤い帯が見える。
バータルはそこらから適当な枝を探し、折った先をぬかるんだ地面につけ、夕闇迫る中、男の周りを人形のようにかたどった。やがてその外側に文字を書き始めた。
石や草に邪魔されながらようよう文字を書き終わると、思った。
……ああ、鈴蘭の香りがかぎたい。
こんなところで死にたくない。
少年を遠巻きに囲んでいた動物たちが、はっと上を向いた。
あの霧が、またゆっくり降りてきていた。
バータルにとっては初めて見る不思議な物体だった。
なんだ? ……丸い霧の塊?
やがて霧の色は濃くなってミルク色になり、ある動物の形にまとまっていった。
ふわふわと揺れながら、乳白色の牝鹿が、今、幻のように眼前に現れた。
「……マラル! ……お前、マラル……なのか?」
少年は呆然と声をかけた。
バータルの知るマラルよりも、一回り大きい、それはまさに神の鹿と言える大きさと神々しさだった。
「君がマラルなら、頼みがある。鈴蘭の群咲いているところに僕を連れて行ってくれないか。そこで最期を迎えたい」
バータルは肩を押さえながら言った。白い巨大な鹿は、ゆっくりとお辞儀をするように頭を下げた。
人から見れば、自分は何もない夕やみに向かって話しかけているのかもしれない。それでもいいと、バータルは思った。
僕の目の前には、マラルがいる。これは、僕だけの真実だ。
「連れて行ってくれるのかい。じゃ、少し待って」
バータルは輝く白い鹿にそう言うと、小屋に入り、上着と服を脱いで、ぱっくりあいた肩の傷を布でギリギリと縛り上げた。それから服を着なおし、大きな竹筒を手に小屋から出ると、川の水を汲み、栓をした。そして、血塗られた剣を川の水で洗うと、鞘におさめ、腰にぶら下げた。
「お前が鈴蘭の群れのある場所に連れて行ってくれるなら、そこまでは生きていないとな。まだ敵も来るかもわからないし」
静かに体から生気が失われてゆく。最後の陽の光が地の果てに沈むと、あたりは暗闇に包まれた。がさりがさりと音を立てて、動物たちがついてくる気配がある。僕は今、仲間たちと一緒だ。辺りは真っ暗だけど、空は満点の星々だ。天空に半月が青白く輝いている。星座にだって自分は独自の名前を付けた。本当は星座の位置さえ読めば、家に帰れないでもない。でもあそこはもう、自分の帰るべき場所じゃない。
目の前を、白く光るマラルの姿が先導する。自分はもう死んでいて、魂だけで歩いているのかもしれない。だとしても、流れていく血の感覚はリアルだ。心臓の音が耳の中で聞こえる。肩の傷から力が抜けていく。
ああ、ここからは上り坂なのか。足が前に出ないよ、マラル。僕はもう、ここまでかもしれない……
がくりと膝を落としたバータルを振り向くと、白く光る鹿は、近寄ってきて首を下げ、バータルの脇の下に鼻面を突っ込んだ。
……乗れというのか。お前は幽体じゃないのか。
バータルはふらふらと立ち上がると、鹿の体にしがみついた。体には実体があった。どさりと抱き着くようにその背に身を投げ出すと、両手で首にしがみつく。揺られながら、少年は自分を乗せた鹿がどんどん上へ上へと道をたどっているのを感じた。山を登っている。だんだん歩みが早くなる。ああ、もう、まるで風を切って走っているようだ。待って、マラル。これじゃ動物たちがついてこられない……
目を閉じてしばらく揺られていると、やがて鹿の歩みが止まった。瞼をこじあけてあたりを見ると、ただ闇、風にざわめく木々の気配と香り、そして開けた視界には満点の星々。眼下に、群青の闇になお黒々と、広い原野が横たわっていた。
……はるか彼方にちらちらと見えるいくつかの灯。あれは多分、サンジャー村だ。
母は今ごろ夕餉の片づけをしている事だろうか……
(お母さん……。帰れなくてごめん。親不幸な僕でごめん。さようなら)
そう胸の中で呟くと、バータルは鹿の背中からよろよろと下りた。
白い鹿は今やそれ自体が灯のように輝いて、あたりを照らし出しさえしていた。自分が背にしている一本の木の下に、群生している可憐な白い花をバータルは見た。
……ああ。鈴蘭だ。マラル、ちゃんと連れて来てくれたんだね!
少年は這うようにして鈴蘭の花々の中に顔を突っ込んだ。
ああなんて……なんて、いい香りだ。
これだ、この香りに会いたかった。
でも、このままでは、どうやら肉の痛みに負けてしまいそうだ。命が飛び去るのはまだ時間があるだろう。それまで、この痛みに耐えられそうにない……
「ごめんね」
バータルは花々に謝ると、下を向いて鈴なりになっている鈴蘭の花に口づけ、次々と根から抜いた。そして、持ってきた竹筒に花束を活けた。
木にもたれかかり、膝に花束を抱える少年を、白く輝く鹿は黙ってみていた。
「マラル。きみがマラルなら、何か僕の心に話しかけてくれ。誰かと最後に、話がしたい」
(オハナヲドウスルノ)
「死出の旅路に付き合ってもらうんだ。あの野で寝ころんでいた時みたいに、僕が僕自身に戻るために」
(イマ、ツライ?)
「見えるものはきらめく夜の星空と、うつくしい君だけだ。……やっと自由になれる。辛いなんて言ったら罰が当たる。ちょっと、痛いけどね」
(スグ、ラクニナル。ワタシガ、ソバニイル)
お互い黙ったまましばらくの時が過ぎた。やがてがさごそと音を立てて、遅れて動物たちが追いついた。猫、狐、りす、猿、うさぎ、犬たちに見守られながら、乾杯するようにバータルは鈴蘭を活けた竹筒を持ち上げた。
「ついてきてくれたんだね。最後までありがとう、僕の友だち。そこで見届けてくれ。そうだな、せっかくここまで来てくれたんだから名前を付けよう。名前を付ければ、君たちはこの世でたった一つの魂、僕の友達だ。
猫のお前はアイシャ、猿二匹は……チャゴラにアゴラだったね。じゃあ、りすのお前はターニャ、綺麗な狐、君は男かな女かな、ユリアンでどうだい。ふわふわのうさぎ、お前はツェレンだ。おや、犬もいるのか。アルスラン……はどうかな」
動物たちは互いに顔を見合って嬉しそうにしっぽを揺らした。
肩の痛みに耐えかねて言葉を切ると、しばらくしてバータルは鈴蘭の花々に囁きかけた。
「さあ、うまく連れて行ってくれよ……」
バータルは竹筒に口をつけ、少しずつ少しずつ、甘い香りが移った水を飲んだ。
やがてその手がかすかに震えだし、全身をひくつかせたと思うと、少年は竹筒を取り落とし、体はゆっくりと横に倒れた。
マラルはその体に幾度も鼻をこすりつけた。
少年はもう動かなかった。
動物たちが寄ってきて、体のあちこちの匂いを嗅いだ。そして、その顔じゅうを次々に舐めた。
マラルは木の前の崖っぷちから夜空に向かい、クルーンと突き抜けるような鳴き声を上げた。と同時に、その体は光の塊となって宙に高く高く飛び上がり、そのまま崖の下にふわりふわりと落ちていった。
集まった動物たちは、静かに横たわる少年の体の周りで、黙したまま輪になっていた。
半月が、冴え冴えと天空からバータルと動物たちを照らしていた。
その朝、族長ワジラとお付きの者二名、猟犬二匹が小屋に到着したとき、あたりはしんとして人の気配がなかった。
魚でも干していたと思われる屋外の網は何物かに食い破られ、小屋のドアにも鍵はかかっていない。
がらんとした屋内を見回して息子がいないことを確かめると、ワジラは、使われた形跡のない弓の数々、燃えカスのほとんどない囲炉裏を見てため息をついた。
そのとき、外から叫び声がした。
「何者かが、ここで死んでいます!」
ワジラは大股で屋外に出ると、川に面した地面の上の、ボロボロになった男の遺体を見た。
獣に食い荒らされたのか、腕はちぎれ顔は噛みちぎられ、正視に耐えないありさまだった。だが背中に深い刀傷を負っているのはわかった。
死んでいるのが息子でないことは体つきですぐに判断できた。ワジラは座り込んで指の刺青や装束の刺繍を見ると、
「ムタクの者か」と呟き、立ち上がった。
ムタクはいわゆる流れ者たちの集まりでできている村で、長は盗賊、まわりの村々を襲ったり盗みを繰り返したりしながら暮らしているならず者の集団だ。
離れたところには男のものと思われる剣が転がっている。刃には変色した血がべっとりと付いている。
息子のものなら、相当の深手を負っているはずだ。
「息子は、バータルはどこだ。バータル!」
「何か書いてありますね。地面に」
お付きの者にそういわれ、離れてみると、多少引きずられた後のある遺体から離れたところに人型が線で描かれ、まわりには棒でひっかいて書いたと思しき文字があった。
ワジラはしゃがみこんで、読みにくい一文字一文字を追った。
『父さん。この男を殺したのは僕、バータルです。正式に打ち合って、勝利しました。喜んでくださいますか。
彼は僕をさらって小指を切って父さんの所に送り付け、身代金を要求するつもりでした。
僕にそんな価値はないのに。
でも、動物は殺せなかった。土産にできるような干し肉も魚も残せなかった。僕には跡を継ぐ資格はありません。後継ぎは弟に任せてください。
僕自身も深手を負っています。
母さんに謝っておいてください。駄目な息子でごめんなさいと。
誰にも知られないところで最後の時を迎えます。探さないでください』
六月の風の中、男の体からはすでに異臭が漂っていた。
実は迎えに来るのはあと三日先だったが、妻のトーヤが昨晩、取り乱して叫んだのだ。
夢を見たと。はるか南、イーリーの丘の上から、バータルが自分を呼んだと。
(お母さん、帰れなくてごめん。親不幸な僕でごめん。さようなら)
白い鹿にしがみつくようにまたがるその姿を、夢の中ではっきりと見たというのだ。
いや、夢ではない、夢ではなくあの子は死んだ、あなたに殺されたと、それはもう酷い取り乱しようだった。
妻は今、薬師の処方した眠り薬を飲んで呻きながら寝ている。
あの遺体の周りに書かれていた言葉を考えれば、ワジラにはそれが夢だと一概に言えない思いがあった。
「イーリーの丘に登って確かめよう。一応、犬どもに小屋の藁床のバータルの匂いをかがせておけ。奴らが追うのが行く道と同じなら、間違いはないだろう」
一行は小屋を出て、草原を進んだ。岩が増え、道が登り道になる。目の前には小高い丘がそびえている。
犬たちの歩みに迷いはなかった。時々点々と、地面に血の跡が見える。ワジラは暗い予感を胸に抱きながら、丘の頂への道をひたすら登って行った。
本当にあの大柄な男をバータルが殺ったのか。本当なら息子を祝福しなければならない。だが、彼自身も相当の傷を負っているはず……
やがて丘の頂上に着くと、一本の大きな木があった。その根元に、動物たちが集まっている。
これは、と思い足早に近づくと、動物たちは怯えたようにその場から離れ、四散した。
そこには間違いなくワジラの息子、バータルが体をくの字型に曲げて、横たわっていた。
肩の傷からはおびただしい血が地面に血だまりを作っている。
手元には鈴蘭の花が散乱している。そして、空の竹筒が転がっている。
眼下はるか、広がる草原の果てに、サンジャー村がぽつんと見えた。
見回してみると、木の根元に鈴蘭が群生していた。
息子の好きな花だ。
猟犬二匹はバータルの遺体に鼻をつけ、クーンクーンと悲しそうな声を出した。
ワジラはしゃがんで、息子の首に手を当て、絶命していることを確かめた。
小屋の外で死んでいたあの男の体からはもう死臭がしていたのに、息子の体からは鈴蘭の香り以外、何も匂っていなかった。
鈴蘭には毒があると、自分でよく知っていたはずだ。わかっていて鈴蘭を活けた水を飲んだな。
父の傍が、この世が、そんなに嫌だったか……
女のようだ、と幾度か理不尽に罵倒したその優しい顔つきは、この世の憂いを離れて、うっとりと夢見ているようだった。細い鼻線の先に長い睫毛が揃っている。美しい、とワジラは素直に思った。ああ、なんと妻に似ている事か。
そして自分の口元に握りこぶしを当てると、奥歯をかみしめ、少年の頬にそっと触れた。散らばっている鈴蘭の花々を拾い集め、手に握った。
やがてワジラは立ち上がり、口を開いた。
「お前は戦士として、自分の命を奪いに来たものと正々堂々と戦い、勝った。
よくぞ戦った。さすがわしの息子だ。
だがバータル。
お前は人としてこの世に生まれてくるべきではなかったのだ。
もう二度と、この父の息子などとして生まれてくるのではないぞ。狩る側よりも狩られる側、可憐な鹿や鳩に生まれ変わって、野を撥ね、大空を飛んで生きるのだ。そうして狼や、鷹の餌食になるがいい、お前の望み通りにな。
わしは祈る。お前の魂のために、お前の来世が人間でないことを、心から祈ってやる」
父は手を伸ばすと、横たわる息子の体に、ぱらぱらと鈴蘭の花と、一粒の涙を落とした。