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名付ける少年  作者: pinkmint
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3. 封印していた記憶

 招かれざる、とはいえ、お客だ。遠方からの客にはお茶を出し、御馳走してもてなすのが一族の習わしだった。僕もその真似事ぐらいはしなくては。ジャガイモが埋まっていた荒れ地に行っていくつか掘って来よう、スモモもとって来よう。バータルは篭を背負って草原に向かい、食べられそうな木の実やイモ、香りのいい草を見つけると篭に放り込んだ。

 帰り道には、アイシャが待っていた。所在なさげに、うろうろしながらバータルを見ている。


「どうした。一緒に家に入ろう、そら、雨も降ってきた」

 

 暮れなずむ草原を黒猫と一緒に家に向かうと、突然、差し込むような痛みが胸を襲った。


〈イタイ…… イタイ……〉


 これは、このかすかな声は……

 小屋だ、小屋の方から聞こえる。


 バータルが乱暴に小屋の戸を開けると、あの男‐確かボルド‐が、座ったまま白い歯を見せて振り向いた。


「お帰り。今日はご馳走だぞ。どうだい、立派な鹿を射止めてきたよ。これは祝い酒だ」

 ボルドはサジーのワインをあおりながら言った。


 床には、真っ白な鹿が、足を投げ出して、二つの矢傷から血を流しながら横たわっていた。

 半眼を開いて、バータルを見ている。虫の息だが、まだ生きている。


「マラル!」


 バータルは絶叫して、男を突きのけるようにして鹿のそばに跪いた。


「マラル、マラル。ああ、死んじゃだめだ!」


「何を言ってるんだい。そいつにも名前を付けてたのか」ボルドはワインを飲みながら呆れたように言った。

「いちいち動物に名前を付けて友達ごっこして、それで狩り小屋の番かい」


 マラルは何度か瞬ききした後、


(モウ、ダメ…… アナタガ、スキダッタ…… サヨナラ……)


 とささやいて、ふっと半眼を開けたまま魂をその身から放した。


「マラル。マ……」


 今はもう一つの躯となった愛しい鹿の体を撫でながら、バータルは絶句した。

 まだ温かい、まだ。それでもマラルの魂は、もうここにはない……

 滝のように、涙が後から後からバータルの頬を濡らした。


「おいおい坊や。お弔いがすんだら、次はお勉強の時間だ。まずは皮の剥ぎ方から教えてやるよ」


 ぽんと肩に手を置かれて、はじけるようにバータルは立ち上がり、怒鳴った。


「なんて……、なんてことをしたんだ!」


 震える喉からは、上手く次の言葉が出て来ない。


「なんてことをした? 鹿を狩っただけだよ。お前を養ってくれた一族の者たちがしてきたことだ。お前さんはその現場に立ち会うことはなかったようだが、こうしてお前は見えないところで他人に肉をさばいてもらって養われてきたんだ」


「お前に、養ってくれと頼んだ覚えはない! それに、彼女は、ただの鹿じゃない。この世でたった一つの魂、僕の親友、マラルなんだ。取り返しがつかない! ああ、なんてことを!」


 あまりの勢いに二の句が継げない男の前で、量の拳を震わせると、バータルはきっぱりと言った。


「僕は、あんたが、憎い。肉親を殺されたものの気持ちがわかるか。この世でたった一つの宝を失ったものの気持ちがわかるか。僕はあんたが許せない、許さない!」


「許さないとね。それでどうするつもりだい」ボルドは馬鹿にしたように髭の生えた顎を上げて言った。


「外に出て、僕と戦え」


「戦え? 剣を交えるってことか?」


「そうだ。僕と勝負しろ。真剣勝負だ!」


 男は笑った。


「子どもと交える剣は持っていないよ。こう見えてもおれは腕自慢の百戦錬磨でね。鹿を殺されて泣きわめく子どもと真剣勝負しちゃ名が廃るってもんだ。そうだな、そこまで火がついてるなら、このさい本当のことを教えてやろう」


 男はぐいとバータルの手首をつかむと、その身を自分の方に引き寄せた。


「小指の彫り物。これはサンジャー一族の跡継ぎのあかしだな。俺の推測に間違いはなかったようだ」


 何を言い出すのかと、バータルは頬に涙をこぼしたまま、男の彫りの深い顔を見つめた。


「サンジャー族の族長の息子が、笛を吹いては動物と遊んでばかりいる役立たずで、十五の儀式の前に辺境の小屋に放逐されたって噂を聞きつけたんだ。それ、市場の女どもは口が軽いからな、噂は村から村へ伝わる。そこで、ひとつおれが小屋を探し出して、できそこないの小僧を手懐けたところで拉致して、小指の一本も切り落として、お前の父親の所へ送ろうかと思っていたんだよ。もちろん身代金目当てでな」


「……」


「実際に会ってみれば噂以上だ。動物は仲間扱い、魂の友。小魚を干しては、墓を作る。果物や木の実以外は小屋にない。鹿を殺されただけで泣き叫ぶ。これじゃ族長が跡継ぎにできんと思うわけだ。そのお前と、俺が真剣勝負か。このさい、相手してやろうか。お前が負けたら、ふん縛って小指を一本頂くだけだ」


「どうせ、死ぬのを期待されてたんだ。こっちも命を捨てて戦うだけだ」

 バータルは怒りに燃える目で、怒鳴り返した。


「だがなあ。たしかに、その体たらくじゃ死ぬのを期待されてなかったとも言えない。これじゃ指を送っても、身代金どころか厄介払いができたと喜ばれるだけかもな」


「剣を交える前に、することがある」


「なんだ?」


「マラルを、川に流す。そうしないと、お前は皮をはいで焼いて食うんだろう。埋めたって掘り出しかねない。そこだけ、承知しろ」


 男はぼりぼりと頭をかくと、言った。

「まあ、いいよ。好きにしろ」


 上天より命ありて生まれたる蒼き狼ボルテ・チノありき。その妻なる真白き牝鹿コアイ・マラルありき。大海を渡りて来ぬ。オノン河の源にブルカン・カルドゥンに営盤して生まれたるバタチカンありき……


 母が糸を紡ぎながら歌うように語っていた一族の始祖の唄を思い出しながら、バータルは半分開いていた白鹿マラルの瞳を閉じさせ、その鼻先に口づけると、全身を抱いてかなしみに身を震わせた。

 蒼き狼と真白き牝鹿の子どもたちは、なぜ狼と鹿のままでいなかったのだろう。なぜ人間なんかになってしまったのか……


 マラル、お前が死んだのは僕のせいだ。僕についてこんな辺境の小屋に来たせいで、僕を養おうと食べ物のありかを教えて付き従ってくれたせいで賊に殺された。

 ああ、あの世というものがあるのなら、じきに会えるよ。その足元に額を擦り付けて謝るよ。どうか天の果てでお前に合えますように。マラル、僕たちはいつまでも一緒だ……


 小雨の蕭蕭と降り注ぐ川に、マラルを抱いてそっと入ってゆく。腰を水面が越したあたりで、バータルは手を離した。横倒しになったマラルの白い姿は、浮きつ沈みつ、川の流れに持ち去られていった。


「おい、そろそろいいか」


 川岸では大ぶりの剣をだらりと垂らしたボルドが退屈そうに待っていた。


「御覧の通りの雨空だ。さっさと済ませようぜ」


 バータルはひたと男を睨みつけると、川から上がり、岸に置いておいた剣に手を付けた。

 一族のつながりを示す蔦模様の彫られたさやから剣を抜くと、男はほう、と声を上げた。


「なかなか立派な造りの剣だな。臆病ガキが持つにはもったいない」


 バータルは剣を縦に構えると、目を細め、静かな声で言った。

 

「殺すつもりで来い。こっちも容赦はしない」


「人質に死なれちゃ困るんだよなあ。まあ、容赦しないのは望むところだ」


 いきなりざっと間合いを詰めると、ボルドはずっしりと重そうな剣をいきなりバータルの頭上に振り下ろした。

 高い音を立てて剣を斜めに受けたバータルと、力の押し合いが始まる。


「お、これは……?」


 一太刀で薙ぎ払えると思った剣が、びくともしない。少年の体からは今や、鬼神のようなすさまじいオーラが放たれていた。一声甲高い叫びをあげると、バータルは真横に剣を渾身の力で振り払った。その勢いで男の体は剣ごと横によろけ、片手を地につける格好になった。すかさずそこにバータルの剣が打ちおろされる。ようよう片手で受けた男は、自分が立ち上がれないことに気が付いた。


(なんだ、この湧き出るような力は。ホントにこの小僧の体から出ているのか?)


 男が地面を払うようにして少年の足首を蹴ろうとすると、少年は鹿のように飛び上がり、後ろに飛び退った。と思うと、また横っ飛びに飛び、はっと気が付くと男の背後に近いところにいる。肩の上に、剣が振り下ろされる。男はきりきりと舞い、力任せに自分の身の回りを一周するように剣を振り回した。そのとき、背中にずん、と衝撃があった。気が付くと、少年の剣が背を貫いていた。


「き、さま……」


 背中から剣が抜かれる。よろめく。傷口が熱く、全身の温度がさあっと下がってゆく。

 男は渾身の力を振り絞り、

「この餓鬼があああ!」と叫ぶと、バータルの首目指して剣を突き出した。咄嗟に横によけたバータルだったが、剣先は肩を深めにかすめて血しぶきを辺りに散らした。

 咄嗟に地を蹴って宙に飛び上がると、バータルは男の肩目指して斜めに剣を振り下ろした。

 手ごたえがあった。

 男の体は茶色の服ごと斜めに切り裂かれ、どうとその場に倒れた。


 肩で息をしながら、バータルは倒れた男をただ見下ろしていた。


(なんだ、今のは。本当に僕がやった事なのか……?)


 今まで父の従者の戦士たちと打ち合ったそのどの時よりも、自分の体は素早かった。腕には鬼神のような力が宿っていた。

 奇跡が、運命がこの僕を生かした。

 お父さん、満足してくれる? 僕はやっと、人を殺せたよ。……けれど。


 この胸の高鳴り、高揚する残酷な快感。僕はこれを知っている。そうだ、知っている。

 弟と兎狩りに出た時。矢の一つも当てられない僕と違って、弟は簡単に兎を射た。駆け寄ってみると、白い兎は断末魔の苦しみに体をひくひくさせていた。楽にさせてやろうと思ったんだ。それだけだ。

 僕は兎の首を絞めた。兎は傷口から血を吹き出しながら、痙攣し、僕の手の中で死んだ。

 あのとき、体中を巡った何とも言えない興奮と高揚感。手の中で命が消えていく感覚。僕はそれをどう感じたか。興奮していた。命を奪う行為に、血がたぎった。

 兎を取りに来た弟に手渡すとき、手に血がべっとりと付いているのを見て、首を絞めたのを悟られた。弟は「やればできるじゃない」と言った。やればできる、……僕はやった。殺した。殺して、快感を覚えた。そのあと、その記憶があまりにおぞましくて恐ろしくて、動物好きだった僕は封印したんだ。自分のしたことだと認めたくなかった。だから、無意識に、動物たちを見ると名前を付ける癖がついた。僕は優しい人間なんかじゃない。殺すのを楽しむことのできる魂を持っている……


 ああ、だけど今。魚の命を奪った時ほどの後悔もない。羊の首を切った時の衝撃もない。マラルを失った時の悲しみとは比ぶべくもない。戦士としての喜びもない。ただ、冷え冷えとしたものがお腹のあたりに落ちて凍っているだけだ。足元に転がるこの男の遺体に、去ってゆくその魂に、何の感慨も抱けない。僕の心に渦巻くのは、ただ、「ざまあ見ろ」というどす黒い感情と汚れた歓喜だけだ。

 父さん。これが、これが、あなたの望んだもの……?

 生きて帰れば、これからたくさんたくさん積み重ねていかねばいけない感情……? あの、うさぎを殺した時に戻って……?

 

 肩からはじわじわと血が滲み、服を見る見る黒く濡らしていった。

 気が付くと、あたりの茂みから、猿のチャゴラとアゴラ、黒猫のアイシャ、銀色の狐や兎たちがこちらを見つめていた。


「やあ。安心しろよ、僕は生きてるよ」


 バータルはそう言うと、肩を押さえて、表につないである青毛の馬、ダムディンの所によろよろと歩み寄った。

 木につないでいた綱をほどくと、

「お前は自由だよ。自分の村にお帰り」

 バータルはそっと囁いて体を叩いた。

 ダムディンはぽこぽこと家の裏に回り、川岸に倒れている主人を見つけると、鼻づらを押し付けて何度も起こそうとした。

 少年は呆然と立ち尽くしたまま男の遺体がゆらゆらと揺れるのを見ていた。

 そしてダムディンに近寄ると、言った。


「……ごめんよ。僕が、この僕が、きみのご主人を殺してしまった……」


 そして初めて、少年は男の死のために泣いた。雨に打たれながら、ぬかるみに膝をつけて、泣いた。


 ダムディンは振り向くと、突然高くいななき、後ろ足で立ち上がって前足で空中を蹴るようにした。


 ……いいよ。そのまま蹴り殺してくれ。血に汚れた僕を。


 バータルは動かなかった。その時、そぼ降る雨の中に白い霧の塊のようなものが現れ、馬とバータルの間に入った。俯いていた少年の目にはその霧は映らなかった。

 馬は急に大人しくなり、前足を落として霧に鼻面を付けると、ふわりと霧は浮かび上がって空中に消えた。

 馬は首を落とし、ブルルルと鼻を鳴らすと、そのまま下を向いて立ち尽くした。


「どうした。いいんだよ。僕を連れて行ってくれ、どこへでも、あの世へでも」


 馬は倒れた男に鼻をまたつけると、空を振り仰いで霧の消えていった方向を見た。

 そしてバータルに目を移し、前足でがっがっと地面を蹴り、首を振って悲しみをあらわにした。

 それからゆっくりと男の周囲を回り、男が最初来た方向に向かって走っていった。


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