2. 来客
走り去る蹄の音が聞こえなくなっても、バータルは数を数え続けた。それほど遠くないところから川の音がする。小鳥のさえずりが聞こえる。あれはやはり、雲雀かな。
教えられた通り百を数え終わり、目を閉ざしていた布を自分でゆっくりと外した。
まだ陽は高く、影は自分の足元に落ちていた。目の前には黒くすすけた色の小さな丸太小屋があり、屋根には煙突がついていた。小屋の辺りは低木の茂みがあり、ごつごつした岩が重なる向こうにはちらちらと光る川が見えた。そのほか、ぐるりを見渡すと、一面の草原だ。羊はいない。鹿も牛も馬もいない。
小屋の木戸の鍵穴にもらった鍵を差し込むと、きしみながら木戸が空いた。
二つの窓から入る光で、全体が見えた。
真ん中に囲炉裏。壁際に積み上げられた藁の寝床。壁に立てかけられた大きな弓。壺の中には、矢が二十本ほど入っている。その隣に、釣り道具。下にあるのは、……魚籠に、投網か。下には絨毯。丸い木のテーブルに、大小の碗。水をくむための桶。火打ち石。小さな壺には、塩。言われた通り、一通りのものが、そこにはあった。
バータルは呆然と立ち尽くし、まず弓を手に取り、矢を手に取り、屋外に出てみた。
頭上では、鳶が高く鳴きながら輪を描いている。
バータルは矢をつがえ、しばらく鳶の舞を見た後、天に向けて弓を思い切り引き絞り、はなってみた。
鳶をすり抜けて矢は空を切り、そのまま落ちていった。
矢を拾いに行きながら、バータルは思った。
あの鳥に命中させようと決心して矢を放つことさえ、自分にはできなかった。
何の思い入れもない鳥なのに。
ではこの地で死ぬつもりか。そのつもりがあるのなら、なぜ自分は一本も無駄にできぬと矢を拾いに行くのか。
それは……
(母はお前の無事な帰りを望んでいるぞ。悲しませてはいかん。わかったな)
あの言葉の呪縛があるからだ。
生きて帰りたい。母を泣かせたくはない。
でも、……この手には、そういうことができない。僕の心は、この何の役にも立たない性根は、どこから受け継がれたんだろう。あの優しい母からか。優しさって、なんの役に立つのだろう。
草をかき分け、落ちていた矢を拾ったとき、近くの繁みが動いて、白い耳が現れた。
「ん?」
そこにいたのは、輝くような白い鹿。
マラルだった。
バータルを見ると、マラルは跳ねるようにして近寄ってきた。
「マラル!お前、……お前、後をついてきたのか。こんなところまで。こんな遠くまで。僕の後を…… 何をしに僕がこんなところまで来たのかも知らずに……」
鼻を頬に摺り寄せてくるマラルの首をかき抱いて、バータルは涙をこぼした。声を詰まらせながら、嗚咽した。僕には、出来ることとできないことがある。どんなに望まれても、無理なことは無理だ。
お前は、友達だ。いつまでも、僕の親友だ。
(アエテ ウレシイ)
ただそれだけの思いが、マラルから流れこんできた。バータルはしばらく、とめどなく流れる涙をそのままに、そこに跪いていた。
その日、陽が傾くまでバータルは川岸の岩に座り、水に石を投げ続けた。傍らではマラルが草を食んだり甘えに来たりを繰り返していた。
やがて決心したようにぐっとこぶしを握ると、近くの繁みに割って入り、丸い手ごろな葉っぱを見つけた。
(おかあさん。ごめんなさい)
胸の中でそう呟いて葉っぱを下唇に当て、バータルは草笛を吹いた。マラルが嬉しそうに寄ってきて、首を傾け、その場で四つ足を折りたたんだ。
繊細でどこか悲し気な音色が草原を渡ってゆく。
やがてかさこそと音を立てて、黒猫が現れた。木の上から、ムササビが駆け下りてきた。枝の間から、猿の顔が覗いた。
バータルは微笑んで、それぞれの名前を考え始めた。
名前を付けたら、それはもう動物ではない。僕の友達で、仲間だ。
これでいいんだ、……これで。
バータルは川の水を汲み、透き通った川の中の魚たちに「気持ちよさそうだね」と声をかけると、ごくごくと手桶の水を飲みほした。
水で何日生きられるだろう。それが僕の寿命だ。
ある朝、小屋の戸を開けると、外にナツメヤシの実が詰まれていた。
ブルーベリー、クランベリー、ハミウリの実まで。
バータルが手に取って首をかしげていると、ニ匹の猿が木の上からキキッと鳴き声を上げて枝を揺すった。
「お前たちは確か、ここに来た日に名前を付けた、チャゴラにアゴラ。これをくれたのは、お前たちか。
いや、ここまでみごとに干してあるナツメヤシの実は、人の手によるものだ。近くに集落があるのか。そこから盗んできたか」
キィキィと鳴きながら、二匹は白い歯を見せた。
(タベテ)
猿たちの意志が流れこんできた。有り難い。ありがたいが、ここで父の願いに背いて土になるという思いもこれでかなわぬものになる。
(タベナイノ)
猿たちに向かってバータルは白い歯を見せて笑った。
「これでいいかい」
そしてハミウリを近くの岩にたたきつけると、二つになった実を思い切りかじってみせた。甘い汁が口中に広がり、糖分と養分が弱ったからだ全体に染み渡るようだった。気が付くとバータルはハミウリを一つ食べつくし、干したナツメヤシにかじりついていた。
ひと心地つくと、バータルはしみじみと思った。
動物を狩るどころか、動物たちに養われて生きる、か。父上は目をむき、天を仰いで嘆くだろうな。
いつのまにか、マラルが猿たちの後ろに立っていた。いつ見ても輝くように美しい。天の造形はかくも見事なものかと目を見張る、その体の優雅なラインに、バータルは見とれた。
「こうして自分では何もできず、優しいお前たちの贈り物で生きる。これじゃ一匹の生き物としても、あまりに情けなすぎるよな。僕は僕の手で、自分を養わなければ。お前たちにも恥ずかしい」
するとマラルはくるりと背を向け、こちらを振り向いた。そしてまた前を向き、とことこと進んでいく。そのあとを、チャゴラとアゴラが追っていく。
「ついて来いというのか」
バータルは立ち上がり、剣だけは腰にぶら下げたまま、白鹿について行った。
暫く草原を行くと、一塊の木の繁みが見えた。所々に、オレンジの色が見える。バータルは駆け寄った。
「枇杷だ!」
マラルが上を振り仰いだ。猿たちは木をよじ登り、実をもぎ取ってかじり始めた。
バータルは枝に手をかけると上がれるところまで上がり、熟した美味しそうな枇杷から刈り取って下に落とした。
(ジブンデイキタイナラ、ジブンデトレバイイ)
マラルがささやいた。
そうだ。座して死を待つだけじゃだめだ。自分を一匹の動物だと思おう。このあたりを散策し、食べられそうな植物を見つけよう。松ぼっくりを拾い集めて、松の実を収集しよう。
川にも挑戦しよう。せめて、魚。魚ぐらいは捕れるようにならなければ。
熊だって自分の食べる魚は自分で捕る。狐だって小動物を捕獲して生きる。別の動物に養われる生き物なんていない。
釣り道具を取りに帰ろう。魚篭だってある。まずは網を投げて小さい魚から捕ろう。
誰に言われたからじゃない。自分の手で、自分の為に、生きるんだ。
「ありがとう、マラル。この繁みは覚えておく。帰って、魚を捕るよ」
その日、バータルは小屋から網を持ち出し、川に投げた。投網には、大小の魚が何匹かかかった。
バタバタと暴れる魚たちの姿に心を痛めながら、バータルは大きめの魚は皆逃がし、小さな魚だけを桶に入れて持ちかえった。
はじめての漁から帰るバータルについてくるマラルに耳を傾け、笑いながらバータルは言った。
「なんで小さいのだけなのかって。笑わないでくれよ。小さい魚だと、目が合わないんだ」
その夜、バータルは水桶の中の魚を長いこと遠くから見ていた。一匹取り出して掌に載せると、ぱくぱくとあえぎながら小魚は暴れた。そのまま水に落とすと、安心したように小魚は泳ぎ始めた。
(このままだと名前を付けちまう。これを、食べなくちゃ。でもどうやって?)
今まで自分が何も考えず口に入れてきた料理を、その大元を屠りさばき調理してくれた大人たちのことをぼんやり考えながら、バータルは(つまりできそこないなんだ、僕は)と再確認しながら藁の布団で眠りに落ちた。
男は額に手をかざして、馬上から草原の中の緑地を見つめた。
とんがり屋根の家が見える。突き出た煙突から、うっすら煙が出ている。
少し離れたところに、川が流れている。
男は革袋を担ぎなおし、背中の弓矢を確かめると、ゆっくりと馬を進めた。
家の脇には薪と藁が積まれ、広げた網に小魚が干してある。
すすけた丸太でできた小屋には、明らかに住人のいる気配があった。
家の周囲を確かめようと裏手に回ると、蹲る少年の姿が目に入った。少年は地面をごそごそと掘り、枝のようなものを地面に立てている。
男はブルルルといななく馬をそこらの木につなぎ、鞍から降りた。馬の声に気づいて、少年がこちらを向いた。
「すまんが、ここの住人かね。道を尋ねたいんだが」
突然男に声をかけられて、少年は驚いたように立ち上がった。
足元には、等間隔に棒が数本立てられていた。
「あの、誰……どこから来た方ですか」少年はおずおずと尋ねた。
「名乗るほどの物じゃない、ただの旅人だよ。ザッカルー村に行きたいんだがどうやら道に迷ってな」
「ザッカルー…… 聞いたことはあるけど、場所は知りません」
「じゃあ、サンジャー村は」
「……わかりません」
それきり黙り込んだ少年の様子を見て、男は尋ねた。
「そう怪しいものを見るような目をしないでくれよ。じゃあ君のご両親に尋ねよう。ご在宅かい」
「……いえ」
「どこかに出かけてる?」
「ここには、僕だけ、です」
「君だけ?」
男は驚いたように言った。
「こんな何もないところに、子どもが一人で住んでいるのか。いや、子どもと言っては悪いかな。今いくつだい」
「……十四、です」
男は肩をすくめて辺りを見渡した。
「やはり不自然だな。その年でこんな辺境の地に一人暮らしもないだろう。両親に何かあったのか」
「何も……ありません。両親は遠いところにいます」
言葉少なな少年はそれ以上答えなかった。男は少年の足元を見て尋ねた。
「その棒は何だい」
少年は下を見ながら答えた。
「墓、です」
「なんの」
「魚」
「さかな?」
男は驚いたようにおうむ返しにした。
「表に魚の干物があったな、そういえば。それとペットの魚は別ということか」
「その干物にしてしまった魚たちの魂の墓です。謝って捌いたけれど、謝ってすむことじゃないし、殺したことには変わりないので、ここでこうして弔おうと」
「変わった子だな、君は」男はあきれたように言った。
「その年までどれだけの動物や魚を殺して食べてきたんだい。君の一族の習慣では、殺した数だけ動物の墓を建てるのか」
「僕が、したいからしていることです」
「君はどこの村出身だ。ひとりで生まれてきた訳じゃないだろう。ここで一人で、何をしている」
少年は少し考えた後、言った。
「どこの出身かは、訳あって言えません。家から離れたところにある、狩り小屋の管理をするよう父に命じられたんです」
「ははあ、十四といえば成年の儀式が間近いものな。そのくらいは頼まれるだろう。だが墓づくりは、あまりいい趣味じゃないな」
バータルは心の中で舌打ちをした。あんたに見せようと思ってしてたことじゃない。早くどこかに行ってくれ。
足元に、黒猫のアイシャが寄ってきてバータルを見上げた。
「そら、西の空に黒雲が湧いているだろう。冷たい風も吹いてきたし、今夜は荒れそうだ。ここらにはほかに人家も村もない。一晩でいいんだ、泊めてくれないか。馬も歩き疲れてるし」
男の馬は木に繋がれたまま俯いて、地面を蹴っている。
少年はそばの水桶を掴んで黙って立つと、川に向かい、水を汲んで戻ってきて、馬の口元にどさりと置いた。馬は嬉しそうに音を立てて水を飲んだ。
少年はポンポンと馬の鼻面を撫でた。
「名前は何ですか」
「俺の名はボルドだ」
「じゃなくて、この馬の名前」
「馬か。ダムディンだよ」男は肩をすくめて言った。
「いい名前だね。そら、この藁も食べていいよ」
バータルは馬の足元に餌を運んだ。
「それは俺もここにいていいってことかい」男は聞いた。
「でもあなたに出せるようなまともな食事はないよ。干した木の実と果物と、小さな干魚だけだ」
「俺は穀物と干し棗、サジーのワインも持ってる。肉が欲しけりゃ弓矢をとって自分で狩ってくるよ。君も一緒に狩りに出るかい」
「僕は、狩りはやらない」そう言ってバータルはうつむいた。
「そう、君には狩りはできなそうに見えるな。親も残念がってるんじゃないのか、その年で」
にゃあおと足下で猫が鳴いた。
「怪しい人じゃないよ、アイシャ」バータルが言うと
「猫にも名前があるのか。いや、世話になるのに失礼なことを言っちゃいけないな。では、村への道がないかちょっとここら周辺を見回ってみよう、天気が荒れる前に」
口笛を吹きながら草原に出て行った男を見て、バータルはため息をついた。
本当に、早くいなくなってくれればいいのに。
でも、この馬はいい馬だ。しばらく馬に乗っていない。ああ、人間以外の生物はどうしてこんなに均斉がとれていて美しいんだろう。姿も、魂も。
「いい子だね、ダムディン」そう言って、青毛の馬の黒い鬣を撫でた。
(ミズ、アリガトウ)
馬の胸の声を聞いて、バータルは微笑んだ。たくましい胸に耳を付けて、バータルはうっとりと馬の心臓の音を聞いた。