1. 追放
見晴るかす草原の上を風が渡ると、緑の波が次々にうねり、地平線へ向けて広がってゆく。
その彼方には青紫色にけぶる山々が見え、見上げる蒼穹には羊雲が連なっている。
羊雲の下を鳶が優雅に舞い、目を地上にうつせば地上に降りた羊雲のようなふわふわした羊たちが群れて草を食んでいる。
少年は手足を伸ばして草原に寝ころび、空に向けて手を伸ばした。
伸ばした指先に白い蝶々が止まる。
耳のそばでは鈴蘭の花が揺れ、甘い香りが少年の鼻腔をくすぐる。
少年は鈴蘭の香りが好きだった。
鼻を近づけて吸い込むと、甘い涼やかな香りが体の中の濁ったものを浄化してくれるように感じた。
視線を横に向ければ、黒いうさぎと白いうさぎが首を傾けて少年を見ている。
「やあ、ドルマ―にアイーラ。きょうも仲良しだね」
うさぎたちは鼻をひくつかせながら少年の差し出した右腕に頭を擦り付けた。
少年は周辺で出会う野生の動物一匹一匹の顔を見分け、それぞれに名前を付けていた。
ああ、世界は美しい。
こうして空を見て風になぶられ、視線を地の果てに投げると、のびやかな喜びとともに何とも言えない切なさで少年の胸はいっぱいになった。
あの鳶になって、空気を切って空を泳ぎたい。見下ろす地上の僕はどんなに小さく見える事だろう。
少年はこの一帯を統べる一族の長の長男として生まれた。
名前はバータル。英雄、という意味だ。
そう、彼は英雄になることを望まれている。父ワジラは豊かなこの地と一族の人々を敵対する部族から守るため、バータルに幼いころから乗馬や剣を教え込んだ。川で魚を捕り、狩りに出て鹿や兎を射て、羊を屠る手伝いもさせた。
バータルは乗馬もうまく、剣筋もよかったものの、動物たちを殺すことがどうしてもできなかった。
水を失って暴れる魚を手に取ることもできなかった。羊を屠る時は目を伏せ涙を流して、やめてくれと父に頼んだ。
「だって僕にはわかるんだ、彼らは心を持ってる。苦しい怖いという言葉が僕には聞こえるんだ。
どうして友達として一緒にいちゃいけないの?」
「そんなことで一人前の大人になれるか。誰が狩ってくれた肉を食べて育ったと思ってるんだ。お前も来月で十五だ、成人の儀式を受ける年齢だ。だが、その体たらくでは大人と認めるわけにはいかん。かりにも、族長となるべき身だぞ。自分で情けないと思わんのか」
首を振って嘆く父ワジラの顔には彫り物の蔦が縦に走り、腕には交差した剣の彫り物があった。
誇り高い、サンジャー一族の族長のあかしだった。
バータルは蝶が飛び去った後、自分の小指を見た。十歳になった時、サンジャー族の長の後を継ぐ者として入れられた縦三本横三本の彫り物だった。
泣きながらその文様を彫られたとき、バータルは自分が血塗られた戦いの後継者としてこの地に貼り付けられた思いがした。
でも、聞こえるものは聞こえるんだ。生きているものは皆僕に話しかけてくる。
おはよう、こんにちは、きょうはいい天気だね。ブルーベリーのある繁みを見つけたんだ、教えてあげるよ。ねえ、いつもの草笛を聞かせて。
この世界の中心に僕はいたい。なぜそれはかなわぬ夢なんだろう。
少年は近くの低木のやわらかい葉をちぎり、下唇にあてて草笛を吹いた。
囁くようなその音色を聞いて、去りかけていた二羽のうさぎが戻ってきた。
繁みの向こうにぴくぴくと動く耳が見える。そろりと真っ白な牝鹿、マラルが現れる。いつも草笛を聞きに来る、バータルの親友だった。
「いつ見ても美しいね、マラル。きみは始祖の神の鹿、コアイ・マラルの生まれ変わりかな」
見上げる木の枝から、りすが覗く。
少年は微笑み、自分を囲む動物たちの中心になる時間をゆったりと待った。
「こんな時間まで何をしていた、羊の世話も弟に任せきりで。もう羊たちは帰って来たぞ」
囲炉裏の火を起こしながら、ワジラは家に戻ってきたバータルに怒鳴った。
「鹿のマラルがブルーベリーの繁みを教えてくれたので、摘んでいました。ほら、母さん。袋一杯取れたよ」
「まあ、これだけあればジャムが作れるわ」
母親のトーヤは布袋を覗き込んで微笑んだ。
「鹿に名前など付けるなと言ったろう。今日はお前に話がある。大事な話だ」
またお説教か。バータルは母が編んだ絨毯の上にゆっくりと座った。
「なんですか」
「いや、話の前に、してもらうことがある。剣を取りなさい。弟のゾリグと外で一太刀交えるんだ」
「え、いきなり何で」
一つ下のゾリグは、縄を綯っていた手を止めて兄の顔を見た。
「いいから。二人とも本気で剣を交えなさい。今まで教えたことを全部、太刀に込めるんだぞ」
「あなた……」
トーヤは思わず夫の背に手をかけて、そこから伝わるただならぬ覚悟をじかに感じた。
もう陽は大地の果てに触れようとしていた。あかあかと夕日に横顔を照らし出されながら、二人の少年はそれぞれの剣を手に、草を踏んで向かい合った。
バータルはまだ気持ちの整理がつかず、剣を握る手にも力がこもらなかった。そんな兄を見て、ゾリグは言った。
「やろうよ、兄さん。兄さんは強い。いつも他の年上の戦士と剣を交えるのを見ていて、僕は憧れてたんだ。今まで剣を教えてもらったことはあったけど、本気でやり合ったことはない。でも僕も強くなったつもりだ。一度は真剣に剣を交えたかった」
「聞いたか。お前の弟は覚悟ができている。一度はお前も跡取りの男としての本気を見せなさい」
仕方がない。多分この後自分が勝っても負けても、父親は相当なことを僕に宣言するつもりだろう。今はやるだけだ。
バータルは目を細めると、両手で剣を構えた。ゾリグはふっと息を吐くと、横ざまに構えた剣を持ったまま飛び上がり、バータルの首筋あたりで横に空気を切った。のけぞったバータルは一歩後ろに大きく足を出し、空で止まった弟の剣を上から打ち据えた。
そよぐ夕方の風の中で、高い音を立てて剣を交わす少年二人の姿を、遠巻きに動物たちが見ていた。
力は互角に見えて、バータルの剣筋の方がやはり鋭かった。剣を避けて飛び退ったゾリグが足を滑らせた瞬間、喉元にバータルの剣があった。
「そこまで!」
ワジラの声が響いた。トーヤはその場にへたへたと座り込んだ。
「お前の実力はわかった。それだけ使えれば十分だろう。あとは生きていく力そのものだ、自分で自分を食わせていく意気と技術がなければ、一人前の大人とは言えない」
「……」
次に何を言われるのだろうと思いながら、バータルは肩で息をした。
「お前を、修練の小屋に連れていくことにする。一通りの狩りの道具はそろっている、囲炉裏もある、そばには川も流れている。魚を釣る道具も魚籠もある。そこで二週間過ごすんだ。自分の手でとらえたイキモノだけを食べながらな。パン一つ、持って行ってはいけない」
「え……」
「いいか。帰り道がわからぬように、お前は目隠しをされた状態で馬に乗る。二週間たったら迎えに行く、そしてそれまでにお前は干し肉と干し魚を拵えて我々への土産としなければならない。土産がなければまたその小屋に二週間いてもらうだけだ。この繰り返しだ」
「あなた……」
肩にかけられた妻の手を、ワジラは振り払った。
思いもかけない宣言に、バータルは声を返せなかった。
干し肉と干し魚を拵えて……。それはつまり……
「いいか、他人に屠ってもらった生き物を食べてそこらの動物に名前を付けて遊ぶ、そんな恥知らずな生活はこれで終わりと知れ。十五にもなって、自分で自分を養えないような男は、このわしの息子である資格がない」
「あなた、それでもそれは、急に、あんまりです。せめて……」
「お前が甘やかすからこんな出来損ないになったんだ。草笛を吹いて兎と戯れて、それで日々が過ごせると思っていたか」
ワジラに怒鳴られて、トーヤは唇を震わせた。
バータルは剣をだらりと垂らしたまま、ゆっくりと下を向いた。
父のいうことももっともだ。
……いつかは迎えねばならない時だった。
それが今、訪れたのだ。
その朝、目隠しをされ、馬上の父の後ろに座らされ、バータルは手のやり場に困っていた。
いつも自分を溜息混じりに見ていた厳格な父。こんなに距離が近いのに、魂のありどころは果てしなく遠い。
「遠慮するな。腰に手を回せ」
父に言われておそるおそる手をまわしたとき、弟の声が耳に入った。
「兄さん、大丈夫だよ。気持ちの持ち方さえ変えれば、魚を捕るのも兎を射るのも、その腕なら簡単じゃないか。ぼくだって悠々二週間過ごす自信はあるよ。今までみたいに、動物に名前なんか付けちゃダメだよ」
バータルの腰にはいつも使っている剣があった。
そして、母トーヤの叫びに近い声。
「あなた。私にはわかっているんです。あなたはこの子が、私に似たこの子がかわいくないんです。あなたそっくりのゾリグを自分の跡取りとなさりたいのでしょう。女のような顔つきをして、といつもバータルにおっしゃっていた。容姿はこの子にはどうにもできません。でもあなたの期待通りに剣の腕は上達したじゃありませんか。それだけでも、認めてやってください」
「腕は良くても、命を奪うという行為ができなければ戦士ではない。敵をしとめて初めて戦士となれる」
「だからならず者の多い辺境の地にこの子を置き去りにするのですか、この子が人を殺せるか試すために」
「わしの命令は聞いた通りだ。獲物を屠り、干し肉にする。それだけだ。一族の男も女もできていることだ。ではいくぞ」
ぐらりと馬の背が揺れ、歩きだす気配がした。後ろから声が追いかけてくる。
「バータル、バータル、生きるのよ。草の、木の実をとって、食べられる菜を見つけて食べるのよ。食べられる虫だっているわ。せめて、川の魚はとって、食べてちょうだい。うちでは私が、お父様とよく話し合っておきますから」
まだ何か叫んでいたけれど、声はどんどん遠くなった。馬は小走りになる。前後をついてくるお供の者たちの馬のひづめの音も聞こえる。
誇り高いサンジャー族の族長の息子に生まれながら、何も殺せない自分は、今、修行の旅に出る……
わけではない。
父は自分を、「捨てに」行くのだ。この地の果てに。
ならず者たちの行きかう辺境の地に自分を追放して、弟を後継ぎにするのだ。
ぶ厚い父の背中は何も語らなかった。その体に回した手にも、何も伝わらなかった。バータルは思った。
空は青いだろうか。鳶は舞っているだろうか。空の高みで聞こえる声、あれは雲雀のおしゃべりだ。よくしゃべるから、お前の名前はチュクルだ。そこから僕はどう見える。馬に乗せられて、捨てられに行く僕の小さな姿。
たとえ心を鬼にして動物を屠り、干物にしたところで、連れ帰られた僕は今度は人を殺すことを強要されるのだ。
この世に僕の居場所はない。
仕方がない、僕はこのように生まれたんだから。
頭を押さえつけられ、羊のヤナクの喉に、父に右手を上から握られて刃を突き立てたときを思い出す。
いつも僕の後をついてきて甘えん坊だったヤナク。つぶらで美しい黒い目。血はどくどくと木の碗の中に流れ落ち、ヤナクは悲鳴を上げ暴れながら僕の目を見ていた。父はその血にハチミツを混ぜて、自分に飲めと言った。椀をひっくり返したら、頬を何度もぶたれた。
あの時を思い返しても、父を憎くは思わない。ヤナクの目を思い出してただ悲しいだけだ。
こんな僕に生きる資格などないのなら、知らない地の草原に横たわり、星空を眺めながら息絶えよう。弟よ、一族を頼む。お母さん、期待に沿えない息子でごめんなさい……
三時間も馬の背で揺られた頃だろうか。
もうお尻の皮がすりむける、と思ったころ、馬の歩みは止まった。
「着いたぞ。まだ目隠しを外してはいかん」
そう言って父は自分に続いて息子に降りるように言った。バータルは用心深く不安定なでこぼこした地面に足を下ろした。
「お前はわしがお前を憎んでいると思うか」
父は低い声で言った。バータルはうつむいたまま首を横に振った。
「自分の血と肉を、自分で作り出せ。それでなくてはサンジャー一族の族長の息子とは言えん。わしはお前に、まともな大人になってほしいのだ。それだけだ。ここで覚悟を決めなさい」
バータルは答えなかった。
「母はお前の無事な帰りを望んでいるぞ。悲しませてはいかん。わかったな」
父の手から、鍵と思われる金属製のものが渡された。
父が馬に乗る気配がした。ブルルル、と馬が鼻を鳴らす音がする。
「ゆっくりと百数えろ。そうしたら目を開けてもいい。目の前に立っているのがお前の小屋だ。中には一通りの生活道具が揃っている。賊が来たら自分で戦って追い払うのだ。二週間後に迎えに来る。必ず生きぬけ、わしの息子なら」
いつもと違う静かな言葉に、バータルは父のかすかな「情」を感じた。