ママ友
「ねえ、あの人、いつも一人でいるわね」
ボスママの香坂佳枝が言い、早紀は顔を振り向けた。
大きな椎の木の下にあるベンチで、女性が一人で座って本を読んでいた。そばには黒いベビーカーが置かれている。
「マンションの人かしら?」
「あんまり見かけない顔だけど……けっこう歳いってそう……30代後半、40代?」
この公園は比較的、ママたちの年齢が若い。ベンチに座っている女性は一回り上の印象で、やや浮いている感じがあった。
「あなた、ちょっと声をかけてきなさいよ」
ボスママの佳枝に言われ、早紀が、ええっ、と思わず声を洩らす。
「私、ああいうのは気になるのよ。大勢で押しかけたら向こうもびっくりするでしょ。一人で行った方が向こうも打ち解けやすいでしょうし……」
早紀は内心では気が進まなかった。
(いつも本を読んでるし、一人が好きな人なんじゃないかな……)
そうは思ったが、ボスママの命令には逆らえない。佳枝は三人の子持ちで、この公園の古株。良く言えば昔気質な肝っ玉ママ、悪く言えばお節介だった。
早紀はママ友たちから離れ、一人でベンチに歩いて行った。
「あのー、すいません」
声を掛けると、つば広のサファリハットを被った頭が持ち上がる。
年齢は40に届きそうな感じ。色白細面の落ち着いた感じの女性だった。日焼けを気にしているのか、腕をベージュのアームカバーで包んでいる。
「私、山下と言います。あの……いつもこのベンチにいらっしゃってますよね?」
出産で退職するまで、早紀は小さな不動産会社で営業職をしていた。初対面の人に声を掛けるのはそれほど苦ではない(佳枝もそれで自分を指名したのだろう)。
「あ、はい……」
突然、声を掛けられて戸惑う女性に、早紀はベンチの空いている場所を指した。
「ここ、いいですか?」
「どうぞ……」
女性が場所を空けるようにベンチの端に移動する。
「あっちにいる私たちのグループ、この近くのマンションに住んでて、よく公園に来てるんです。あの……失礼ですが、お名前は?……」
「森尾と言います」
「森尾さん、お近くにお住まいなんですか?」
名前を教えてもらったらすぐ口にする。営業時代に教わったテクニックだ。
「駅の北側のマンションです。ここからは少し離れてるんですけど……」
ベビーカーを押して、わざわざ駅の反対の公園までやってくるのは何か事情があるのだろうか。
早紀の表情で察したのか、女性が弁解するように続けた。
「私、40を越えてるので……近所の若いママたちの輪に入りづらくて……」
なるほど、と合点した。それで知り合いの少ない公園まで来ているのか。
「この公園、雰囲気はいいですよ。ほら、あそこにいる派手なワンピースを着てる人――ここのボスママなんですけど、陰口とか曲がったことが大嫌いなんです。ちょっとお節介なところがありますけど……」
早紀は近くの黒いベビーカーに目を向けた。大型のサンシェードが赤ちゃんを覆い、シャワーキャップのような黒いネットが覆っている。
本人もつば広の帽子を被り、アームカバーをしている。日焼けや紫外線を気にするタイプなのかな、と思った。
「赤ちゃん、おいくつなんですか?」
「三ヶ月です」
「お名前は?」
「絢香です。山下さんのお子さんは?」
「陸です。1歳半の男の子で、イヤイヤ期になったところです。歯磨きをさせるのも、着替えをさせるのも一苦労で……絢香ちゃんはおとなしそうなコですね」
黒いネットの向こうで静かに眠っている。
「ウチの子、ちょっと身体が弱いんです。すぐ熱が出るし……お医者さんが外の空気に触れた方が、肺や皮膚も鍛えられて免疫力を上げられるって……」
「あ、知ってます。日光を浴びると、ビタミンDが作られて骨が丈夫になるんですよね」
言いながら、紫外線カットの完全装備の母娘に言うセリフではなかったかもしれないな、と思った。
不意に女性が顔を曇らせた。
「……あの、私、ご迷惑でしょうか? みなさんが気になるなら別の場所に……」
いえいえ、と驚いたように早紀が手を振る。
「そんなことないですよ。どうぞここにいてください。私たちこそ、ベラベラと大声でしゃべってうるさくないですか?」
毎日、公園にやって来ては、ボスママの佳枝を中心に女子高生のようにおしゃべりを繰り返している。
「本を読んでいるので気にならないです」
「本、お好きなんですね。どんな本を読まれているんですか?」
女性が少し遠慮がちに文庫本の革表紙を外してみせた。
「もうお亡くなりになった作家さんの小説なんですけど……」
「ああ、この作家さん、私も学生の頃に読んでました! 特に平安時代の宮廷を舞台にした姉弟の入れ替わりモノでしたっけ?……あれ、おもしろかったなぁ」
「『とりかえばや物語』をベースにしたお話ですよね」
その後も二人の話は弾んだ。最初はボスママの佳枝に言われて、気乗りせずに声を掛けた早紀だったが、おっとりとした女性とは妙にウマが合った。
帰る頃には、下の名前が「有美」だと教えてくれた。
◇
翌日から彼女が公園に来ると、早紀は話をしに行くようになった。
ただ、有美が自分たちのグループに交ざることはなかった。いつも10時にベビーカーを押して椎の木の下にあるベンチに来て、きっかり1時間で帰って行った。
ある日、有美は告白した。
「私、四回流産してるの。不育症の治療も受けてたわ」
専門の病院に通い、40歳になってようやく絢香ちゃんを授かったという。年齢的にはギリギリだったらしい。
だからだろう、有美は異常なまでに赤ちゃんを気遣っていた。
黒いベビーカーはいつも大型のサンシェードでシートが覆われ、黒いレースが下ろされていた。紫外線に当たることを神経質なほど恐れていた。
外気に触れさせて免疫力を上げろ、という医者のアドバイスがなければ、そもそも外出もしていなかったはずだ。
「でも良かったわね。絢香ちゃんが生まれて」
「この子は私の宝なの……娘のためなら私、何でもできるわ」
そう言って、有美は細めた目をベビーカーに向けるのだった。
◇
その日、他のママ友たちは公園に来なかったので、気兼ねせず早紀は有美とベンチでおしゃべりをしていた。二人は昔見たドラマの話で盛り上がっていた。
「見た見た、そのドラマ。イケメン美容師と難病のお客さんの恋愛モノでしょ」
早紀が膝を打つと、有美がふふっと笑った。
「私、美容院に行ってあの女優さんの髪型を真似したわ」
不思議と好きな小説や音楽に共通点が多く、有美との話は尽きなかった。
「でも早紀さん、その歳にしては昔のドラマにすごく詳しいのね」
早紀は照れ笑いをしながら「今は動画配信サービスで昔の番組も見れるから」と答えた。
「じゃあ、あのドラマも見た? 貧乏な生い立ちのスチュワーデスが金持ちになろうとして――」
言いかけた有美が声を止めた。公園の出入り口の方を見ている。スーツ姿の男が何かを探すようにきょろきょろ辺りを見回していた。
男の姿を見た有美が急に立ち上がった。
「早紀さん、私、今日はもう帰るわね」
強ばった顔でベビーカーを押し、男から逃げるように公園の反対の出入り口に向かう。
心配でついていった早紀が訊ねた。
「さっき公園の出入り口にいた男の人? 知り合い?」
有美はどこかおびえた表情だ。もしかして――と早紀は思った。ストーカーや不審者の類いだろうか。
「大丈夫よ、有美さん。私がついてる」
公園の裏手は下りの遊歩道になっていた。有美はベビーカーの取っ手をつかみ、重心を後ろにかけ、丸太止めの階段を下りていく。
早紀は近くでその様子をハラハラと見守った。一段下りるごとにガタン、ガタンとベビーカーが揺れ、シートの赤ちゃんが泣き出さないか心配だった。
有美がベビーカーに声を掛ける。
「ごめんね、絢香。もう少しだから辛抱してね」
そのとき、階段の上に人の気配がした。スーツ姿の男が立っていた。
「有美、待ってくれ!」
男がそう叫ぶと、驚いた有美が階段の丸太の腐っている部分を踏み、重心が崩れて転倒した。
ハンドルをつかんでいた手が離れ、まるでスローモーションのようにベビーカーが階段を落ちていく。
ゴトンゴトンという音が加速し、ベビーカーが左にぐらっと傾き、片輪走行のように持ち上がり、植え込みに横倒しになった。有美の悲鳴が響いた。
早紀は急いで階段を降り、横倒しになったベビーカーに駆け寄った。カラカラと車輪が回っていた。
青ざめた顔でシートを覗き込む。だが――クッションの上は空っぽだった。
◇
「あのひと、心の病気だったらしいわね」
「自分に子供がいるって思い込んで、空っぽのベビーカーを押して毎日、公園に通うなんてホラーよね」
「四回も流産したらねえ……かわいそうに……」
ママ友たちがヒソヒソ声を交わす中、早紀は椎の木の下にある無人のベンチを見つめた。
公園にやって来たスーツ姿の男性は彼女の夫だった。無人のベビーカーを押し、毎朝家を出て行く妻と口論になり、心配で探しに来たらしい。
騒動から二週間ほどが経っていた。あれ以来、有美の姿は公園で見ていない。
翌日の早朝、早紀は隣で眠る夫を起こさないようにベッドを抜け出した。上着を羽織り、玄関を出る。
空はようやく白みはじめた頃で、道に人影は見当たらない。
公園に行くと、大きな椎の木の下のベンチに、見慣れたサファリキャップを被った女性が座っていた。もうベビーカーはなかった。
早紀は黙ってベンチの隣に腰を落とした。有美は戸惑ったように見返してくる。どうして自分がいるとわかったのか、という顔だ。
「有美さん、毎日なんでこのベンチに来てたんだろうって考えたの……たぶん、ここに来る意味があったんだろうなって……」
あの騒動で、彼女は昼間、公園に来れなくなった。夜は女性一人では危険も多い。だとすると、可能性があるのは早朝だった。
有美は地面に視線を落とし、ぽつりと語りはじめた。
「……四回目の流産をした後、最初の生理がきて、トイレに血の塊みたいのが浮いてたの……私は絢香だと思って拾ってティッシュに包んだわ。それを――」
有美は頭上を見上げた。
「この椎の木の根元に埋めたの」
我が子の一部が下水に流されてしまうことが忍びなかったのだという。
墓石の代わりに樹木を墓標とすることを〝樹木葬〟と呼ぶ。それは有美なりの赤ちゃんへの弔いだったのだろう。
しばらく沈黙がベンチに落ちた後、早紀が口を開いた。
「私ね、有美さんに嘘をついていたことがあるの」
有美が首をかしげた。
「私、年齢をサバ読んでるの。来年で40歳。ほら、この公園、若いママが多いでしょ? なるべく浮かないようにって……」
実はボスママより私のほうが年上なの、と言って、いたずらっぽく舌を出す。
好きなドラマや映画、音楽で共通点が多いのは当たり前だった。二人はほぼ同じ時代に青春を生きてきたのだから。
「あと、私も一度、流産してるの。陸が生まれる前……あのときは、なんで他の人は普通に赤ちゃんを産めるのに自分だけはって思ってた」
だからといって四回も流産した有美の気持ちが理解できるわけではない。有美はいまだに子供を授かっていない。この差はとてつもなく大きい。
だが、早紀がいちばん伝えたかったのはそれではなかった。
「ねえ、ママ友じゃなくて、私たち普通の友達になれないかな? あなたと私ならなれると思うんだ」
子供を介した友達だから〝ママ友〟。だけど、子供が幼稚園を卒園したり、小学校を卒業したらその絆は切れる。
そうではなく、有美とは同世代の普通の友人になりたかった。
「いいの? 私みたいなおかしな女……」
「すごくつらい経験をしたんだもの。誰だって落ち込むよ。私が有美さんなら、ずっと家に引きこもってたと思う」
女性は一度の流産でも立ち直れないほどのショックを受ける。それを四度も繰り返せば、どれだけ心に傷を負ったか。実際、流産をきっかけに心が壊れてしまう女性はいる。
無人のベビーカーを押して公園に来たのは、彼女なりに崩れかける精神を保つ方法だったのだ。誰がそれを笑えるだろう。
「こんな子供だらけのところに来てつらくなかった?」
早紀が優しく訊ねると、有美の顔に初めて笑みがこぼれた。
「この公園はママたちの仲もいいし、雰囲気が良かったから……絢香を埋めたのもここなら友達もたくさんいて、さみしくないだろうなって思って……」
有美の頬に涙の筋ができていた。早紀は黙ってベンチの上の手に、そっと自分の手を重ねた。
今度、彼女を家に招待しよう。好きなケーキを買い、紅茶でも飲みながら、アラフォー同士、昔のドラマやアイドルの話に興じよう。
子供の話ではなく、私たちが好きなものの話をしよう。それはとても楽しいに違いない、と早紀は思った。
(完)