第三話 栄光への第一歩(2/3) 悶絶首相空間
首相来訪の知らせを受けてから少し経った。床に座り込んで黙っていたヴァラデアが不意に立ち上がると、あさっての方向を見て『来たか』とつぶやいた。
少し間を置いてから、エクセラから首相が到着したとの連絡が入った。ヴァラデアは、訪問してきた人間の気配を鋭敏に感じ取っていたようである。
真似しようとしてもなにも感じることができなかったが、成長すれば同じことができるようになるのかもしれない。
ヴァラデアは首根っこを掴みあげてくると、わき腹に密着するほどに引き寄せてきた。おねむ中の妹が乗っているベッドも持ち上げて、すぐ横に置いてくる。
「そのままじっとしていろ」
強めの口調の指示を受けて、黙ってうなずく。
ヴァラデアはそわそわと体を揺らしたり、指先のかぎ爪を床にあててカツカツと鳴らしたり、口周りを赤い舌でぺろぺろ舐めたりして、まったく落ち着きが見られない。興奮しているようだ。
こんなザマで首相に会っても本当にだいじょうぶなのかと、嫌な不安が絶えなかった。
出入り口の扉と反対方向の壁から大きめの金属音が響く。
まず、音がした壁が縦に割れる。機械の低い駆動音をたてながら壁全体がゆっくりと横滑りすると、そこからガラスで仕切られた小部屋が姿を現した。
その部屋は床が板張りで緋色の壁紙が張られているので、親子がいる子育て部屋とは違い温かみが出ている。だが、その設備は数個のパイプ椅子と金属製の無骨な長机がぽつんと置かれているだけという非常に簡素なものだった。
これから首相が利用することになる面会室なのだろうに、貧相にも程がある。失礼にあたらないか心配だ。
「なんだこのむやみに凝った仕掛け」
「私が設計したんだ。いちいち部屋を移動しなくていいから便利だろう。子育て中は動けないからなあ」
ヴァラデアが自慢げに語っていると、面会室の扉が開いて一人の女が入室してくる。その人物は、首相ではなくエクセラだった。
以前見たときと同じく、ありふれた背広姿をしている。が、腰のベルトに着けたホルダーに、大型の格闘用ナイフと小型の銃らしき道具を収めているという物々しい装備が、彼女に異様な存在感を与えている。
武装したエクセラに案内されて、数人の男たちが少々おぼつかない足取りで入室してくる。
先頭は高価そうな黒灰色の背広に身を包んだ中年と思われる男だ。
白髪の多い茶の短髪に、肌に深く刻み込まれた傷跡を思わせるしわの数々が、苦難に満ちた人生を歩んできたということを語らずとも主張してくる。その背丈は女であるエクセラより頭一つ小さいので、かなり弱そうに見えた。
その後に続いて、黒の背広に身を包んだ若い男たちが三人入室してくる。身なりからして首相は中年男で、他の男たちはその護衛だろう。
中年男が口元を結んだ固い表情を維持したまま数歩前に踏み出す。椅子に座らずにあいさつのハンドサインを作り、うやうやしく口を開いた。
「お久しぶりです先生。待望のご出産、誠におめでとうございます」
「ありがとうございます、タイラ首相」
ヴァラデアが穏やかにほほえみながら礼を返し、タイラと名乗った中年男も満面の笑みでそれに応える。
「私も先生の教え子の一人として、とても嬉しく存じます。これから一国の代表者として、ご令嬢が健やかに成長していくことのできる豊かな国づくりをするために力を尽くしていく所存です」
タイラが堅苦しい口上を述べて、ヴァラデアは静かにそれを聞き続ける。そんなあいさつがひと段落したところで、ふとタイラは視線をさ迷わせ始めた。
「ご令嬢はどちらにいらっしゃるのですか?」
「私の背に居りますが……申し訳ございません。実はまだ産後の興奮が抜けきっておりませんので、娘たちを人目にさらすことができないのです」
ヴァラデアは、姉妹を人間たちから守るべく立ちふさがっている。
こちら側からはタイラの顔を覗き見ることができているが、タイラからは子ドラゴンの姿を見つけることができていないようだ。
「もし無理に娘たちの姿をご覧に入れようとしますと、あなたたちに危害を及ぼしてしまう恐れがあります。こればかりは私自身いかんともしがたいことなので、どうかご容赦ください」
「……やはりだめですか。残念です」
タイラは困り顔を作るとわずかにうつむいた。
「どうしてもとおっしゃるのなら、来月以降に改めてお越しください。その頃なら問題はないはずです」
「わかりました。では改めて訪問予約を入れさせていただきます」
言いながら今後の予定でも確認しているのか、タイラは手首に装着しているなにかを目の動きだけでチラチラと見る。
彼は、割と本気でドラゴンの子どもを見たかったようだ。飾り気の無い明るい笑顔に満ちたことがはっきりと見て取れる。
なぜそこまで興味を示すのか、その気持ちはいまいちわからなかった。
「いつでもお待ちしておりますよ。さて、くだらんあいさつはここまでにしておいて本題に移るか」
「は?」
穏やかな雰囲気から一転、急に声色が変わった。
壁ガラスに映りこむ母の姿を見てみれば、その目には嗜虐的な怪光が宿っていて、口元は得体の知れない愉悦の笑みで歪んでいる。
残酷で非情な魔物のごとき寒気を覚える姿だ。
唐突に失礼な言葉をぶつけられたタイラは、呆けた顔で間抜けな声を漏らすとあっけに取られた様子で立ち尽くしていた。
「久しぶりだね、タイラ君。きみと会うのは一年ぶりだな。痩せてたのにたった一年でそんな太ったのか。国民からしぼり取った税金で贅沢三昧してたんじゃあないのか? 顔色も前より少し悪い。不摂生はだめだぞ、不摂生は。大人なんだから健康管理はちゃんとしなきゃあ」
「あの、先生? いや、その……」
唐突に始まった悪意ある口撃に返す言葉もなく、タイラはそのまま黙り込んでしまう。
嫌な気配をふりまくヴァラデアは、気をつけの体勢で縮こまっている彼を満足そうに眺めると、小部屋のほうへとゆっくり歩み寄りながら話を続ける。
「それに最近はあまりよくない噂も聞くぞ? 私の狩場の開発計画とか、特別補正予算の不正計上問題とか、反政府組織のテロ事件とか、ああ、数え切れんな」
ヴァラデアが矢継ぎ早に“よくない噂”とやらを口にするたびに、タイラがあからさまに反応してびくりと体をはねさせる。なにか痛いところでも突かれているのかもしれない。
不穏に語りながらも続く、わざとらしいゆったりとしたドラゴンの歩み。一歩ごとに重さと息苦しさが増していく。
「私が愛する娘たちは、きみが作る豊かな国とやらで過ごしていくことになる。だが、私はきみの統治に口出しはしない。人間の世は人間の手によって治められなければ真に栄えないものだからな。
わかるな? つまりわたしではなく、きみの采配によって娘たちの安全が左右されてしまうことになるんだよ」
その理屈って無茶にもほどがあるんじゃないかという突っ込みを出すことはできない。
「もし娘たちに危害が及ぶようなことがあれば、私は冷静ではいられないだろうな。そのときはドラゴンの母親として、責任者に報復しに行くことになるだろう。どうなるかわかっているな? 政治家よ」
ヴァラデアは、部屋を仕切るガラスの前で立ち止まると、突然右前足をガラスに叩き付けた。わざとらしく獣の唸り声をあげながら至近でにらみ付ける。
死人を思わせるほどに青ざめたタイラは、全力で目をそらしつつ滝のようなあぶら汗を垂れ流していて、手に持っていた手布で忙しく汗を拭き取り続けている。
背後に控える黒服たちは手助けすることもできずに、ただおろおろするばかりだ。
「私はね、きみの手腕については評価しているんだ。優れた仕事をしてくれることを期待しているぞ。
さて、そろそろ時間だな。私に媚びを売るのは十分だろう。さっさと帰ったらどうだ? 今日の件、無理やり予定に挟んだせいで仕事が溜まっているはずだろう」
「そんなひどい。僕はただ……」
面会時間の終わりが近づいてきても、ヴァラデアは最後まで容赦せずに言葉でなぶり続ける。
タイラは年甲斐もなく涙目になりながら、救いの言葉を求めるようにヴァラデアへ手を伸ばそうとしていた。
「ヴァラデア様、そこまでです。たわむれも程々にしておきましょうね」
そこで、今まで一言も発さずに成り行きを見守っていたエクセラが口を開いてヴァラデアの発言を諌めた。
表面上は平静を保っているが、内心では怒りを感じているのか目尻が微妙にひくついており、地味に迫力が出ている。さすがに見かねたようだ。
黒服の何人かが彼女のほうを見て、怖かったのか慌てて向き直っていた。
「いやあ、すまないねえ。教え子のことが心配でつい厳しく言い過ぎてしまった。くくくっ、あまり気にするな」
ヴァラデアは嫌味に笑いながら軽薄に謝る。その態度に謝罪の意思などは微塵も感じられない。
タイラは顔が見えなくなるほどに深々とうつむき、進退きわまったという感じで弱々しく震えてばかりだった。
ふたりの間になにがあったかは知らない。ただ、出産を祝いにわざわざ駆けつけてきてくれた人にとる態度ではないことは確かだろう。
この母親はなんかダメだ。一連のやり取りにそんな感想を抱いて、思わず深くため息をついた。