第一話 新生(3/3) 暗闇の向こう側
大人たちはベッドから数歩離れると、難しげな顔を突き合わせる。それから解けない難問に挑む学者のようにうんうんと唸り始めた。
「とりあえず、この子が普通に話せることがわかりましたけど、なんでこんなことできるんでしょうね? まだ赤ちゃんなのに」
「そうだよ、赤ちゃんなのにだよ。神秘だ、神秘すぎるぞ。まさか私たちの神秘は、私自身が理解できない領域にまで達したとでもいうのか? 数百世代もこんなことはなかったというのに……」
ふたりしてため息をつくと、お手上げだとでも言いたげにぱっと両手を上げる。
まったく納得できていないようだ。軽く確認してみてわかったことは、“よくわからない”というなんの解決にもならないことだけだったので、当然だろう。
「ヴァラデア様。こういう子、見たことありますか?」
「わかったらおまえなんて呼んどらんわ」
「ですよねー」
「ははは、こいつめ」
極太の指一本で超優しく胸をはたいて突っ込むドラゴンに、堂々と笑って受け止めてみせる人間さんだ。
深刻そうな話をしているときでも軽いノリを忘れないおふたりさんは、本当に仲が良さそうである。
「しかもヴァラデア様に見覚えがあるって話じゃないですか。ただ知識があるっていうわけでもなさそうですよ」
「いや、たぶん気のせいだろ。まだあんなにフラフラしてるしね、決めつけるには早すぎるよ」
『決めつけるには早すぎる』。確かにヴァラデアの言う通りだろう。
ここまでに思い出せたことは非常に少なく、どれもひどくあやふやなのだ。今の時点であれこれ決め付けてしまうと、なにか変な勘違いをしてしまうかもしれない。
とにかく奇妙な記憶のことは無かったことにする。
このドラゴンとは完全に初対面、なんの変哲もないただのお母さんだ。今はそれで充分、必要になったらじっくり思い出せばいいだろう。
「そういえば、もうひとりの子はどうなんですか?」
なにかを思いついたらしいエクセラが、ぴしっと人差し指を立てながら声をあげると、大人二人で隣のベッドを見始めた。
『言葉はわかるか』、『わかるなら返事をしろ』と、なにかへと呼びかけている。
二人は何に話しかけているのだろうか。
なんだか気になったので、強烈な脱力感に抗いつつ何とか立ち上がる。ベッドの手すりに前足をかけて、なんとか身を乗り出すことができた。
白色に塗装された正方形のベッドがすぐ側に置かれている。自分が今寝転がっているベッドと同じ物のようだ。
そのベッドの上には、小さいヴァラデアがうつ伏せになって寝転がっていた。
羽のように滑らかな空色の鱗を全身にまとう大きな生き物は、鏡写しのごとくヴァラデアにそっくりである。
ただし、体が全体的に丸っこくて首も四肢も短めという、いかにも子どもといった印象が強い。子ども特有の愛らしさに溢れる生き物だった。
もう少し小さければ愛玩動物としても通用しただろう。見たところ大型犬よりもひと回り大きな体格なのだ。人間の女であるエクセラが抱きかかえるには苦しいだろう。
大きなドラゴンの腹から産まれたのだから、それが妥当な大きさなのだろうが。
二人は子どもに向けて、さまざまな質問をせっせと投げかけてみる。が、その子はきょとんとしてつぶらな瞳で見つめ返してくるだけで、知的な反応はまったく見られない。
これが生後間もない幼児としての、普通にかわいい仕草なのだ。
「ふしぎだなあ」
幼い子どもとして当たり前の反応を返されて、まったく同じ感想を抱いたらしいふたりが異口同音に感想をこぼす。
ドラゴンと人間という別種すぎる生き物同士だというのに、示し合わせたかのように同じ仕草で首を傾げているのが笑えてくる。
「できるはずがない双子が産まれるわ、未熟児でさっそく死に掛けるわ、片方だけ変な記憶もちだわ。こんなことは初めてだよ。どうなってるんだ、あーーまったくもうーーっ! こんなの予定にないよ! 私をバカにしてんのかッ!」
ヴァラデアは、うんざりだと言いたげに思い切り顔をしかめると、頭を抱えて鋭い爪でかきむしり始めた。
ドラゴンという生き物は力が強ければ寿命も長い。大人のドラゴンである彼女は、永きにわたって多くの経験を積んできているはずだ。
そんな彼女でも初めて見るという不可思議な現象が、他でもない自分が産んだ子に起きている。並々ならぬ苦悩を抱いていることだろう。
悩ましげに黒髪の先を指でいじっていたエクセラは、はっとしてヴァラデアの横顔をのぞき込むように見上げると、とても優しい手つきで彼女の鼻先へ触れた。
「でも教育の手間が省けるでしょうし、これはこれでいいじゃないですか。前向きに考えましょうよ」
「まあそうかもしれないけどな、でも変なことが起きたりしたら困るよ」
「予定外のトラブルには無駄に弱いですもんねえ、ヴァラデア様は」
「無駄って言うな」
落ち込むヴァラデアの鼻先を、今度は気合を入れてやるかのように勢いよく叩いて、それからとても優しげに励ましの言葉をかける。
「でも、きっと大丈夫ですよ。あんまりそうやって悩んでたら、この子を不安がらせちゃうかもしれませんよ? すぐに疲れちゃいますよ? 慌てず騒がず落ち着いて、まずは見守ってあげましょうよ。ねえ、私もついてるから」
ヴァラデアは彼女に弱々しく視線を合わせると、諦めの境地に至ったかのようにそっと目を閉じて、力なく嘆息した。
「そうだね。まずは、ね……。ところでおまえ、自分の名前はわかったか?」
「は?」
急に話題を変えたヴァラデアが鼻先をずいっと寄せてくると、なにげなく名前を尋ねてくる。
いきなりの問いかけに対して、だからわからないんだと答えようとするが、その前に脳裏にナニカが思い浮かぶ。そのナニカが自然に言葉として勝手につづられた。
「シ・ル・ジッ……ギッ・ト……シルギットなのか、私は?」
思いがけずに紡ぎ出されたそれは、生まれ出でてから初めて知る自分の名前だった。それが未だに意識の奥底に眠る謎の記憶からくるものではなく、ドラゴンとしての自分の名前だということもふしぎとわかってしまう。
なぜこんな名前が浮かんできたのか、その疑問にはヴァラデアが答えた。考え込む様子を見てか察したようだ。
「私たちドラゴンの名前は、与えられるものじゃあなく自分自身で決めるものだ。生まれた瞬間から名前が刷り込まれるらしい。私も子どもの頃はそうだったよ」
ヴァラデアが昔を懐かしむような遠い眼をしながら、淡々とした口調で説明する。
ドラゴンは名づけに苦労することはないようだ。便利な生き物である。
対照的にエクセラはちょっぴり残念そうに肩を落としていた。もしかしたら名前を付けたかったのかもしれない。
「本来なら、ある程度の知性が身についてから名前がわかるものだが……なるほど、基礎能力は確かなようだ。程度はわからないが、おまえは本物の知識を身につけているんだろう」
ヴァラデアはうわ言のようにつぶやきながら、少しずつその語気を弱めていく。
わずかに細められたその相貌はどこか悲しそうであり、不安そうでもあり、さまざまな感情が入り乱れているように見える。
「その記憶とやらがどこから来たのかはまだわからないが……いや、おまえは子どもだ。間違いなく子どもなんだ。記憶とかそんなのは関係ない。おまえはなにも気にしなくていいんだからね。気にしなくていいんだからね」
ヴァラデアは頭に鼻先をちょんと寄せてきて、心配ない、心配ないと、言い聞かせるように何度も語りかけてきた。
しつこいくらいに繰り返されるその言葉は、自分自身に対するものでもあるのだろう。互いに話し合った後でも、やはり不安はぬぐいきれていないようだ。
エクセラもそんな心中を察してか、元気づけるようにヴァラデアの太い前足へ優しく手を添えていた。
それから完全に落ち着きを取り戻したヴァラデアは、役目を終えたエクセラを部屋から追い出した。
さっきまでは大丈夫だったようだが、落ち着いたことで外敵から子どもを守る母ドラゴンに戻ってきたらしい。威嚇攻撃を仕掛けたときのような興奮が戻ってきたので、エクセラを守るためにも居残らせるわけにはいかなかったのだ。
不服そうなエクセラは、『用が済めばポイ捨てするのか』とぼやいていた。でも別に嫌な顔はしていなかったし、それ以上はなにも言わずにあっさりと退いていた。
ドラゴンを相手に恐れることなく振舞うことができる彼女であるが、さすがに命は惜しいようだった。
部屋は再び静かな空間に戻る。
ヴァラデアは、精神的にかなり疲弊したのか、うずくまって眠たそうにしている。隣のベッドでごろんと仰向けに転がっている子は、完全に熟睡しているようだった。
だるい体を動かして仰向けになり、前足を白い天井に向けて突き出す。
握っては開いてを繰り返す。鮮烈な青を含む白の鱗に覆われて、長く鋭いかぎ爪がついた四本指の手。自分は確かにドラゴンである。
おぼろげな記憶には、ドラゴンと違ったものがある気もするけど、今は忘れておくことにした。
それよりも大事なのは、今これからなのだから。
第一話 完