最終話 遠い日の思い(10/10) 本物の新生
いつもの育児部屋。朝になったことを感じて目が覚めたので、伸びをしつつ起き上がる。
倦怠感は無し。夢を見ることもない完璧な熟睡のおかげで、心身ともに疲れがとれていることに大満足だ。
隣で寝ていた妹も同時に起きあがってくると、あいさつ代わりにすり寄ってきたので、鼻を優しく押し付けてあいさつ返しした。
大人たちは先に起きていたようで、宙に浮かぶ大画面を前にふたりしてなにか作業をしている。今は街の人々が起きだすような時間だ。こんな早くから仕事をしているのは珍しい。
「やるべき仕事はこんなところだな。あとは任せたぞ」
「わかりました。やっぱり、やることが多いですねえ」
でも短い掛け合いのあと、ぱっと画面を消し去った。ちょうど一区切りついたところらしい。
「エクセラ、全部終わったら遊びに行かないか? この前いい感じの温泉街が開いたんでね、湯につかって体を芯から温めて仕事の疲れを癒そうじゃないか」
そこで解散するかと思ったら、ヴァラデアは頭を下ろすと鼻先をエクセラに寄せる。尻尾を軽くふりふりしながら、子どものようなワクワク感でいっぱいの眼で誘いをかける。
それに対するエクセラは、いぶかしげな目つきでヴァラデアを見上げた。
「……ヴァラデア様って温泉程度で温まれるんですか? 溶鉄とかに手を突っ込んでもなにも感じないんでしょう?」
「だいじょうぶ! あったかいと思えば温まる。こういうのは気の持ち方ひとつで変わるものだ」
「ただの錯覚でしょソレ、意味あるんですか? というか、あなたが入れる広さの温泉ってあるんですか?」
「それはおまえが気にすることじゃあない。で、どうだ?」
期待でいっぱいの眼差しを一身に受けるエクセラは、腕を組んでしばし考える仕草を見せてから顔を上げた。
「ま、いいでしょう。他にやることはありましたけど、そっちのほうがおもしろそうですね」
「ほほう! 正しい選択をしたな! 期待して待っていろ、この私の全権限を駆使して、最高の体験を提供してやろう!」
「いや、そんな無駄に気合入れなくていいですからね、うっとうしい。気軽に遊びましょうね?」
ヴァラデアはとっても嬉しそうにエクセラへ鼻先を押し付ける。対するエクセラは、でかい頭を押し戻そうと踏ん張りながらも苦笑いを浮かべていた。
大人たちは今日もいつも通りだ。何も変わりはないと思うのだけど、どこか違和感がある。
遠慮がきもち薄れた感というか、互いの距離が微妙に縮まった感というか。
でも、違和感止まりで判然とはしない。まあいろいろあったし、ただの考えすぎだろう。ふたりはやっぱりいつものままだ。
「起きたかおまえたち」
「おはよ」
ヴァラデアがこちらに気づいたので、ひと鳴きしておはようのあいさつをする。
「私はこれから五日間留守にする。その間はエクセラの言うことをよく聞くんだぞ」
「え、うん。急だね、どうしたの?」
今から何日も留守にするというのに連絡するのが今というのは、予定絶対守るドラゴンのお母さんにしては珍しいことである。
「この前の件の後始末をしに行かなきゃあならなくてな。全部片付けるには少し時間がかかりそうだよ」
それからまた珍しいことに、どことなくげんなりした顔であいまいに答える。エクセラは、そんなヴァラデアの首筋にそっと手を添えていた。
この前の件と言えば、縄張りを破ったことだろうか。
「後始末ね。どこへ行くの?」
「いくつかあるが、まずはアドナエスの縄張りだな」
「ああ、そこかぁ」
予想通りのようだった。あのときヴァラデアは、子どもを守るためにドラゴン同士で取引をしたらしいけど、その内容は教えてもらっていない。ただ、かなり難しいことであるのは雰囲気から察せられた。
そんな困難を背負う羽目になった原因は、自分の軽挙妄動だ。
土下座したくなるほどの罪悪感が湧くけど、そんなことをしたって誰のためにもならない。幼児である自分がやるべきことは“忘れない”こと。同じ過ちは犯さないと種の誇りに誓うことだけだ。
ヴァラデアはなにかを見透かしたような顔をして、優しく頭を小突いてくる。
「ふっ、そんな心配そうな顔をするな。この私にとっては大したことないよ。余計なことは気にせずに、お母さんの帰りを待っていなさい」
慈母感あふれる言葉からは、本物の余裕と自信を感じられる。この程度の問題は造作もなく解決できるのだという、全能感のある力強さだ。お母さんの自尊に満ちた顔を見ていると、少しだけ嫌な苦しさが軽くなった気がした。
ヴァラデアは無造作に天井へ神秘の光を放つ。光を受けた天井は二つに割れて、雲一つない済みわたった青空の姿をあらわにした。
今日は晴天のようだ。外で走り回って遊ぶにはいい日である。
「じゃあ、行ってくるぞ」
「行ってらっしゃい」
光の翼を広げたヴァラデアは、ゆるやかに浮かび上がって外に出ると、勢いよく飛び去っていった。
少しして天井が閉じて、育児部屋はもとの姿を取り戻す。
「ね、あそぼ?」
そこで妹が、いつものおねだりをしてきた。大きなお目々をキラキラさせながら、期待でいっぱいの目力を利かせてくる。
今は断る理由が無いので、この子のお願いを叶えてやることにした。
「そうだねー、よし! じゃあ……って、これといったものがないな。あー、そろそろ出かける時間だしなあ。ね、おまえはなにをしたい?」
「あ? わたしはおまえじゃないよ! わたしは“すー”だよ!」
「……は?」
なんか予想外な返しが来たので思わず聞き返す。すると妹は、ぷんすかと開口威嚇しながら、鼻息を興奮気味にふんふん鳴らしてきた。
「ガウウウ私はおまえじゃないよ! 私は“すー”だよ? わかった!?」
なにか文句があるようだが、切り口が予想外すぎて返しづらい。
謎に猛る妹に張り手を喰らわせることで一時抑えてから黙考してみると、すぐに答えが出てきた。この子は名前を呼ぶことを求めてきた、ということだ。“おまえ”と呼び捨てしたことを咎めてきたから間違いないのだと、内なるドラゴンは大いに語っている。
ヴァラデアいわく、ドラゴンという生き物は、自らの名前は自らが決めるのだという。ただし、それができるのは精神的にある程度成熟してからという条件が付く。
幼いこの子の本の真の名前は今までわからなかったから、ずっと“おまえ”とだけ呼んできた。だけど、今日に至ってついに、この子の名前がわかるときが来たということなのだろう。
それは早いか遅いかまではわからないけど、ずっと成長を見守ってきた身としては、ちょっと感慨深いものがあった。
「ごめんね、私はおまえの名前をまだ知らないんだ。ね、おまえの名前はなに? お姉ちゃんに教えてよ」
「え? ……えーと、んーっ、すーはすーだよ」
ゆだっていた妹はすぐに冷めると、目をそらして考え込む素振りを見せる。
「……おまえは“スー”? 短くない?」
「あー? いや、そうじゃなくて、んー“スー”だけじゃなくて、すーで、すーで……すーで……んーーっ!」
で、頑張って説明しようとしてうまくいかないようで地団駄を踏む。どうやらこの子は自分の名前を全部わかっていないようだ。
とりあえず、この子のことを呼ぶときは“すーちゃん”とでも言っておくことにした。
「ははは。まあ、あれだ。名前が全部わかったらすぐに教えてね、すーちゃん」
「うーっ、うん……」
妹の鼻先を爪で突いてやると、妹はしょぼくれてうつむいた。
本当の名前がわかるときは近いはずだ。そのときが楽しみである。
「すーちゃんね……ふふ」
エクセラの独り言と含み笑いは聞き流しておいた。
雑談が済んだら、いつもの朝の運動を始める。追いかけっこをして体が温まったら、流れでケンカに移行する。
妹が鉄をも切り裂くかぎ爪を振りかざして襲い掛かってくるので、すべての攻撃を丁寧にいなす。基本は獣のように引っかいたり噛みついたりしてくるだけだが、ちょくちょくお姉ちゃんの真似をして格闘技を決めてくるから侮れない。
そんなこんなで登園の時間がやってくる。いつもはヴァラデアの背に乗せてもらっているのだけど、今日は彼女の力を借りることはできない。
「そろそろ時間ですよ。ヴァラデア様はいないから……車を出しましょうか?」
「いえ、走っていきますよ。たいした距離じゃないですし」
「ああ、そうですか。元気ですねえ」
「子どもですから」
だから自力で行くことにする。
この前は、かなりの長距離を一日ちょっとで踏破してみせたのだ。それに比べたら、屋敷から幼稚園までの距離などは目と鼻の先だろう。正確には平べったい人間の顔の目と鼻の距離で、自分たちドラゴンの目と鼻ではない。
エクセラは、なんか知らんがちょっぴり残念そうな顔をしたあと、大きく手を振って送り出してくれた。
「じゃ、行こうかすーちゃん」
「うん!」
「いってらっしゃい」
エクセラの温和な笑顔に見守られながら、妹といっしょに部屋を出る。ご機嫌な足取りで虚無な通路を通り抜けたあと、玄関を抜けて屋敷を出る。
そこでふと、カレンたちの気配を探ってみると、何も感じ取れなかった。今日は平日なので、すでに登校したあとなのだろう。
幼稚園に向けて駆ける。『先に着いたほうが勝ち』と言えば、妹はムキになって全力疾走する。
微妙に先行を維持しつつ駆け抜けることで、五分もかからず目的地にたどり着けた。
幼稚園の玄関を通ったら、いつも通りに妹は教室へ、こちらは職員室へと向かう。
職員室ではいつもの顔ぶれが迎えてくれる。
「おはようございまーす」
「おはようシルギットちゃん」
皆があいさつの言葉をかけてきたので、順に返しておく。仕事仲間とあいさつを交わすのは当たり前のことである。
彼らから今日一日の行動方針を聞いてから教室に向かう。そこで待っていた妹と、設備を壊さない程度に触れ合いをしていると、他のお仲間たちも登園してくる。
全員が揃えば、幼稚園の一日はいよいよ始まりだ。
日課の人間向け体操に付き合ったあとは、庭に出て適当に遊ぶ時間となる。妹が人間の子どもたちで遊んで、その様を見守るのがいつもの流れである。
でも、なぜだろうか、今日はとても心が軽い。至って気分が晴れやかだ。
なにも悩むことはないし、なにも怖くもないので、子どもたちに混ざって遊ぶ気になれた。
幼子たちの純真なノリについていけないときはあるけれど、そういうときは妹を頼れば問題ない。子どもっぷりではこの子の方が先輩だ。
遊具で遊ぶ、追いかけ合って遊ぶ、狩りもどきをする。
先生たちが意外そうかつ暖かな視線を送ってくるのも気にならない。何も考えずに遊びほうけるのはとても楽しく、なんだか心が洗われるようだ。
それ以外はなにも変わらない、いつもと変わらない平穏なひととき。
「フーッ! フーッ! グルルルッ死ねーっ!」
テンションが上がり過ぎた妹が、うっかり光のブレスを吐く。お姉ちゃんを狙ったようだけど、狙いは大きく逸れて地面を貫いた。
「おいッ! やめんかアホウがッ!」
こんなところでブレスを吐くんじゃない、人間に当たったら殺しちゃうだろうと、即刻お叱りのかかと落しを喰らわせて地面に埋もれさせてやる。
状況的には笑い事じゃないはずだけど、まったくこの子はと、ついつい姉心が出て叱りつつも笑ってしまう。ついでに他の人間たちもつられて笑う。おまえらはうっかりで殺される可能性があるんだから、もう少し危機感を持てよと言いたい。
「てへっ」
妹は地面から頭を引っこ抜くと照れたように笑って、ぺろっと舌なめずりする。
「おまえはなにを言いたいんだ」
率直に突っ込んでやると、笑いの渦はますます勢いを強めていった。
こういうのがずっと続いていけば良いと思う。だが、それは決して叶わぬ願いだということもわかっている。
自分たちドラゴンに比べて、周りの人間たちは酷く短命だ。いつか必ず死に別れるときがやって来る。同じ時間を過ごせる者は、分身である妹のみ。本当に困ったときだけだけど、いつだってお姉ちゃんの味方をしてきたこの子だけだ。
甘え鳴きしながら飛び掛かってきた妹に組みつき、その温かさを鱗越しに感じていると、ふしぎな安心感がある。
「お姉ちゃん、まーたなにか悩んでる? どうしたの?」
「ふっ、だいじょうぶだよ。隙ありィィ!」
元気よくもんどりうちながら、密かに心配そうな顔をして声をかけてきた妹の顔面へ、愛を込めて頭突きを喰らわせてあげた。
私の名はシルギット、世界最高峰の力を誇る偉大なドラゴン“誓約”の仔だ。
脆弱な人間などでは決してない。
他の誰でもない。
私は私として、これからを生きる。
この知と力を活かして。
完
執筆開始から五年ほど、校閲しながら投稿し続けること三か月弱。
なんとか心折れずに全てを終わらせることができて良かったです。
姉妹の行く末は、いちおう過去に公開した別作品(Amateur's Garden)で触れています