第十九話 人間社会の光と闇(5/5) 社会を照らす竜の光
幼稚園に勤める先生の朝は、世話をしている子どものそれよりも早い。
一日の準備をするために、子どもたちが登園してくるよりも早く出勤しなければならないのだ。必然的に早起きすることになる。
なかなか大変だが、慣れれば済むことだし、健康にも良いだろうから、それに文句を言う者はいない。
そんな早朝の仕事をやったことは、今までで一度も無かった。
普段から先生扱いはされているけれど、登園時間は子どもたちというか妹のほうと足並みをそろえていたからだ。
だが今日は妹に合わせない。普段よりも早い時間から、独りで屋敷を抜け出して幼稚園に出向くのだ。
敷地中に張り巡らされている石畳の道を早歩きで往く。
幼稚園に行くときにいつも通っている見慣れた道、そのはずなのだけど、今はまったく違う場所であるかのように見えている。
空気はいつもよりひんやりとしていて、静やかで、そして澄んでいる。東の空に輝く朝日が横から力強く差し込んできており、いつもとは少し違った形の影で地面が彩られている。
普段との違いといえばそれくらいなのだが、いつもの道の新しい顔が見えてくるような気がするので、意外に新鮮な驚きが得られる。
身近にありながら目にする機会が無かった光景を思い出に収めながら歩くこと十数分、体感時間的にはあっという間に到着した。
正面玄関の前に立ち、学び舎を見上げる。何度も見て通ってきた場所だけど、ちょっと早く来てみるだけで、奇妙な高揚感を覚えるのだからふしぎだ。
こんなにたくさんの発見があるのなら、今度から一時間くらいは早起きしてもいいかも、と思いつつ扉をくぐる。
大人ドラゴンも入れる広々とした屋内の空間。所々に極彩色の装飾が施されている、子どもらしさでいっぱいの玄関ホール。元気な子どもたちの気配はどこにも無く、あらゆる感覚面からとても静かだ。
先生たちはもう来ているようなので、さっそく職員室に向かう。
もちろん途中で子どもに捕まることはなく、最短の時間でたどり着くことができる。実に気楽だ。
職員室の扉を開けると、丸メガネが事務机に向かってなんらかの仕事をしている姿が目に入る。彼女はこちらに気付くと手を止めて、垂れ下がっていたおさげを背中側に払いつつ手を振ってきた。
「おはよーシルギットちゃん」
「おはようございます」
朝は元気よく行くのが礼儀だ。ほぼ同時に張り良くあいさつを交わす。
「ケイジさんは教室のほうですか?」
「うん、安全点検してるよ」
肉体労働は丸刈りが主に担当している。丸メガネは今日の予定表まとめでもしているのだろう。
「私はなにをやってればいいですかね」
「んー、実のところ、これといった仕事は無いんだよねえ」
「そうですか。ま、そりゃそうですよね」
こうして早朝に顔を出すのは今日だけで、次からはいつも通りとなる。そのためにわざわざ仕事を用意するわけもないだろう。
「あ、そうだ。あとで今日はどうやって仕事を進めるかの打ち合わせをするから、それに顔を出してもらおうかな」
「わかりました。ところで、アリサさんはまだ来てないようですけど……」
幼稚園とその周辺の気配を探ってみても、彼女の気配はどこにも無いのだ。
丸メガネはその疑問と不安に対して、真っ白な歯をひんむいて笑うことで応じる。ちょっとした憂いなんてすべて吹き飛ばしてしまいそうな、とても朗らかな笑顔だ。
「もう少ししたら来るでしょ、あの子がちょっと遅れるのはいつものことだし」
「そうですか」
丸メガネに向けて前足を振ってから、職員室をあとにする。
とりあえず外に向かおうと思うが、その前に教室の方へ寄り道しておく。
半開きになっている扉から中を覗き込んでみると、丸刈りが忙しそうに動き回っている姿が見られる。
小物や調度品をあれこれ整理をしたり、今日のお遊戯会で使うのであろう物品を押し入れから引っ張りだしたり、それらの安全確認したりと、なかなか忙しそうだ。
邪魔するのは悪いので、黙ってその場をあとにしておく。
再び屋外に出る。軽く跳んで屋根に乗ると、屋根板に腰を下ろして園庭を見下ろす。
乾いた土と芝生で構成されている見慣れた庭。土部分に残っている無数の小さな足跡を見ていると、誰もいないのに子どもたちが賑やかに騒ぐ声が響いてきそうだ。
子どもたちに騒がれるのは正直やかましいという思いはあるけれど、今のように静かなら静かで、どこか物足りないと思ってしまう。
どうしてこう感じるんだろうなと、伏せをしながら黙々と考えを巡らせていると、人間の気配が一つ近づいてくるのを捉えたので立ち上がった。
方角的には屋敷があるほうからだ。幼稚園に繋がる石畳の道を、安っぽい原動機付の自転車にまたがる女が走っているのが見える。アリサだ。
彼女は園舎裏に回って自転車を停めると、速足に幼稚園入りする。それを見て、すかさず屋根から飛び降りると、気づかれないよう秘かにあとを尾けた。
彼女が職員室に入ったのを見計らって入室しようとすると、教室の片付けをしていたはずの丸刈りと鉢合わせした。
言葉は無く、視線だけを交わす。その時間は一秒にも満たないのだけど、これだけで何を考えているのか察してしまえて、自然と笑みがこぼれる。丸刈りもへらっと笑う。
それからふたりで職員室へ突入した。
「おはようございまーす」
「うーっす。アリサちゃんしばらくぶり。元気してたか?」
「え、なんでシルギットちゃんが来てんの?」
アリサが本気で驚いた様子で振り返ってくる。彼女にはドラゴンの初早朝出勤について知らせていないのだ。
「あんたらに先生の仕事を押し付けられてきたからね、せっかくだから早朝の仕事も一度やってみようかなって思いまして」
「えー、聞いてないんだけど」
「ドラゴンさんの気まぐれは今に始まったことじゃないでしょ、臨機応変に対応しなよねー」
「へっへっへっ。ちょっと早えーけど、そろそろ今日の打ち合わせを始めっかね?」
「……ふぅ、まったく」
和気あいあいとした雰囲気に皆で笑う。アリサだけは苦笑いだけど。
先の事件に関することは口に出さない。ヴァラデアから聞き出した情報を皆で揉んだ結果、そうすることにした。
アリサを暴力団の手から救出することはできたが、それだけで終わることはなかった。
事情はどうあれ傷害沙汰を起こしてしまったのは事実だったようだし、留置場を抜け出したまま行方をくらませたりしたら余計に罪を課されてしまうので、泣く泣くアリサをポリスに引き渡すしかなかった。
だから弁護した。最初以外の事件は彼女の意志によるものではなかった、それが真実であることをシルギットの名のもとに保証すると言ったら、ポリスたちはあっさりと信じてくれた。
先生方が言うには、誓いを司るドラゴンによる保証というものは、かなり重い意味を持つらしい。どれくらいの重さかと言うと、国家間の契約や裁判などでも通用するほど。約束ごとの面では絶対的に信頼されている生き物の言葉だったから、ポリスは説得を聞き入れたのだ。
思わぬところで責任を負ってしまったけれど後悔はない。嘘は言ってないのだし、この程度で仲間の助けになるのなら安いものだ。
その甲斐あってか、アリサの罪が必要以上に加算されることはなく、数日で拘留は無事に解かれた。
そこまでが昨日のことだった。今日はアリサが帰ってくる日だ。
「午前中は合唱会をやろうと思ってるんだよね」
「え、私らドラゴンは人間みたいに歌えないんですけど、どうするつもりです?」
「人間みたいに歌わなきゃいいだろ。鳴き声の高さは変えられるよな?」
「まあいちおう。キャウ! クゥゥ……うーむ、練習がいるなこれ」
「練習時間作った方がいいかな? どうやって教えりゃいいんだろ……」
丸メガネの調べ(違法)によると、アリサを狙っていた連中は、なんらかの罪を問われて逮捕されるか、国外に逃げるかしたらしい。捕まった連中も釈放されたら、たぶん仲間を追って国を出るのだと彼女は睨んでいる。
なぜそう思うのかと訊いたら、ドラゴンが直々にアリサを救い出したのに留まらず、アリサの擁護までしてみせたのが大きいと答えた。
ドラゴンがそこまでして守ろうとしている奴に手を出してしまった、だから報復から逃れるために全力で逃げるだろう、とのこと。
勝手に怖がってもらって結構。自動的に不審者を追い払えるのだから楽でいい。
「うーむー、ここは逆転の発想だ、歌うんじゃなくて踊るのはどうよ?」
「振りつけは? 自由に躍らせるだけじゃ間が持たないと思うけど」
「いや、それもありかもしれませんよ。あの子なら目立てる限りは無理やりにでも頑張りそうな気が」
「いや、それ無理させるってことでしょ。かわいそうだよ」
大きな誤算もあった。なにが起きたのかは知らないが、『ドラゴンがなんの見返りを求めることもなく人間を救った』とかいう話が広まって、人間たちの間で騒ぎになってしまったらしい。
『青い首輪の子は本当に人間の味方だった』とか勝手なことをほざいている動画を実際に見せてもらったときは、いくらなんでも過剰反応しすぎだろとしか思えなかった。
そうして姉だけが持ち上げられると、妹が悔しがり、憤り、悲しんでしまうのだ。こうなるとあとが怖い。
自分ができる範囲で問題を解決しようと頑張った結果がこの始末。ままならないものである。
すべてを丸く収めることなんて、なかなかできないんだなあと、しみじみ思う今日この頃であった。
第十九話 完