第十六話 奇跡の証明(7/8) 躍進への第一歩
「キミ、いつまでそうしてるんだい。もう終わったよ」
リュートの治療開始から数秒経ったか。上から降ってきた音なき声が、意識を現実に引き戻してくる。
右前足を見る、なんともない。左前足を見る、なんともない。体もだるかったりはしない。
痛みとかに備えて身構えていたのだが何事もなかったので、どこか拍子抜けである。
面をあげて、正面にいるセランレーデを見上げて、目は合わなかった。
彼の視線はヴァラデアに注がれている。今の呼び掛けはこちらに対するものではなかったらしい。
背後にいるお母さんは、飛びかかる寸前の体勢で固まっていた。なにかあったら襲いかかろうと構えていたが、見事に間を外して収まりがつかなくなったといった風か。
口が半開きになっているのが物悲しい。万物を噛み砕く牙も、生類を引き裂く爪も、振るう先がなければ虚しいばかりである。
そんな無様な姿を見るセランレーデは、ここぞとばかりに嘲笑った。
「ククッ、殺すとでも思ったかな? こんなおもしろいことを成しそうな子を害するなんて、あり得ないだろうに」
「いや、それはそうだけど……」
「そんなことすらもわからないとは、程度が知れるねぇ」
ヴァラデアはものすごくムカつく態度で嗤われてもキレることなく、ばつの悪そうな顔でぽつりとつぶやくだけに留まる。
あの見栄っ張りが同格のドラゴンを前にしているのに、虚勢を張らずに弱った態度をとっているのだ。相当に混乱していると見える。
ドラゴンがそんな弱みを突かないはずはなく、セランレーデは露悪的にニヤつきながら心を仕留めに入った。
「だいたい親の目の前で子を痛めつけるわけないだろ、常識的に考えて。想像力が足りないよ、想像力が」
「アドナエスのやつにあの子たちを会わせたときは、隙あらば潰そうとしてたし……」
「あの闘争しか芸のない能無しの若造ごときを、この我と比較するでないわ!」
そこでなぜか、セランレーデがいきなり荒ぶり始めて床をぶっ叩く。唐突な行動過ぎて何事だと思う。
「無礼者め、格そのものが違うわ! ……それ以前にさぁ、関係のないやつの話を持ち出して失態をごまかそうとは、みっともないと思わないのかい? ククク、音に聞く“誓約”も堕ちたものだねえ?」
なにか気に喰わなかったのか一瞬だけ素が出たっぽいけど、すぐに軽さが戻ってくる。
地のほうが威厳が出るのではないかと思うのだが、まあ彼なりのこだわりがあるのだろう。
そんな大人たちのいさかいは放っておくとして、今はリュートだ。
いまだにおろおろしている彼に体調はどうかと訊こうと思ったら、カレンに先を越されていた。
「ちょっとあんた、体はどうなったの?」
「え? ええと、うん、痺れとかとれたかも……?」
「はっきり言えっての」
カレンは鋭く突っ込んで、ばしっと乱暴に弟の背中を叩く。
リュートは確かめるように全身を曲げ伸ばしする。目に見えて滑らかになった動きからして、治療はうまくいったようである。一瞬で体の中に負っていた傷を完全に修復されたのだろう。
「えと、良くなった、と思う。うん」
「で、ドラゴンさんから直々に治療を受けた感想を一言」
「なんかすごかった」
「なにその小学生みたいな感想。はは、もう」
これまでの二人は、こちらを気遣っていたのか表向きは普段通りでいた。だが、やはり少なからず不安や絶望を背負っていたのだろう、ほの暗さが見え隠れしていた。それが今では、きれいに消え去っている。
いつもの姉弟に回復したのを見て、ようやく肩の荷が降りた気がする。万事うまくいったので、嬉しくて自然と顔がほころぶ。
そうしてほんわかした気分でいると、二人が小走りに駆け寄ってきた。
「シルギットちゃん、シルギットちゃんはたいじょうぶなの?」
「なんともないよ……近いって近いって」
カレンが広いデコを押し付けてきながら、体をぺたぺたとまさぐってくる。
心配してくれているのだろうが、少々うっとうしいので軽く押し退けておく。
「ほんとになんともないんだ? なにか覚悟を決めた感じで話をしてたから、心配だったんだよ」
「なんともないのは当然だろ、人間」
と、そこで、セランレーデがさげすみ全開の態度で話に割り込んできた。うなだれたまま何かぶちぶち言っているヴァラデアを放っておいてだ。好敵手をいじるのは飽きたらしい。
「人間ひとりを修復する程度の生命力なんかね、ボクらドラゴンにとっては塵にも等しい量でしかないんだよ。この子は幼生だけど、それでもこの程度で消耗するわけはないのさ。理解できたかな?」
「そ、そうでしたか。勉強になりました!」
「ふふん、ひとつ賢くなれてよかったね、人間」
超絶上から目線で見下してきながら、実に偉そうに講釈を垂れる。
それならおまえの命分けても良かっただろ、とは絶対に言えない。こうして力を貸してもらえただけでも奇跡だったのだから。
カレンを無言の存在感で押し退けたセランレーデが、こちらをじっと見下ろしてきた。
お母さんや人間たちに叩きつけていた毒気はなく、純朴さのある表情でらんらんと目を輝かせている。新しいおもちゃを手にいれた子どもの顔とかぶる。
「まさか自分の命を捧げるまでやれるとはね。ヴァラデアが一目置いていた理由がよくわかったよ」
長い首を伸ばして鼻先で小突いてくる。これはドラゴン流の愛撫での仕草で、気に入っている相手にしかやらない行為である。
「キミみたいなドラゴンは初めて見たよ。この世に降臨してから幾億年、そんなボクにとっての初めてなんだよ?」
「億って……」
「生命を支配するドラゴンさんですからね、能力のおかげで不老不死らしいですよ」
後ろからエクセラが説明を入れてくれるが、長寿なドラゴン視点でも桁がぶっ飛びすぎていてピンと来ない。
と、こういう類いの話について気にしても疲れるだけなので流しておく。
「おい、このボクの話に割り込むな。無礼な人間だな」
「失礼しました」
目だけでにらみを利かされて、エクセラは謝りながら素早く引き下がる。ドラゴンとの付き合いが深いだけあって、さすがに見事な立ち回りをする。
「話を戻そう。実はキミが見せたその“心”はね、ボクらドラゴンが何をしようとも得ることがなかった類のものなんだよね。創世から続く悠久の歴史において、ドラゴンの身でその心を得たのは、キミが史上初なんだよ。キミがどれほどのことを成したのか理解できるかい?」
「まあ、なんとなく。前にお母さんも似たようなこと言ってた覚えがありますし」
なんか想像を絶する勢いで興味を持たれたようだった。神話時代すら霞む古代から生き続けてきたドラゴンにとっての初めてともなれば、余程のことだろう。こうして見込まれるのは悪い気分ではない。
「キミという存在はいつの日か、ドラゴンが持つ精神性を新しい段階に引き上げるかもしれないね。それがもたらすは変革か、それとも破滅か……。ククッ、これから数万年は楽しめそうだ」
黒い鼻先を押し付けて、真っ黒な舌でちろちろ舐めてくる。なんというか、いろんな意味で味見される気分だ。
それから爪先で首筋を優しい手つきで撫でてくると、権威ぶった感じで口を開いた。
「気に入ったよキミ。今から百年間だけ自由にボクの縄張りを出入りすることを許してやろう。その代わりに、どんな成長をしたのかをこのボクに見せろ」
「なにいっ!?」
独りうずくまって愚痴を垂れ流し続けていたヴァラデアがいきなり飛び起きると、すっとんきょうな声をあげた。
顎はがくがく脚はぷるぷる、ここまで来るとやりすぎなうろたえっぷりである。
「えっ、正気かおまえ、えっ、大盤振る舞いすぎる、えっ……………………私を騙そうとしてるだろ!」
「この子の成長を見ることは、このボクにとって益がありそうなことだからね、当然の対価さ」
一方的に許可してきておいて対価とか言われても微妙な気持ちになるが、ヴァラデア級のドラゴンとコネを持てるということではあるので、素直に喜んでおくべきか。
ヴァラデアの狂態にも微妙な気分にさせられる。今もあわあわ言いながら話を何度も聞き直していて、最強ドラゴンとしての面子が形無しである。
「ああもう……取り乱すな慌てん坊め。なんで急にダメな子になるんだよ。それでも偉大なこのボクに並ぶ力ある者なのかい?」
「か、勘違いするなよ! 私は冷静で慌ててなんてないからな! 勘違いするなよ!」
やけに程度の低い自己主張を受けて、セランレーデは小さくため息をつくと、そっと頭を抱える。
あまりの狼狽ぶりに、さすがにいじる気も失せたようだ。
「まったく、先代はこんなんじゃあなかったのに。キミのようなたわけ者に、あれほどの可能性を秘めた子はもったいないね」
「なんだと、ふ、ふふ、ふふん! シルギットの価値がよく解ったようだな」
「お母さんさあ……」
無理に取り繕うとして更なるボロを出してくる様は、実の娘として恥ずかしいにも程がある。今日のヴァラデアはやり込められっぱなしである。
「さてと、キミらの相手はこれくらいにしておくか。邪魔だから出ていけ。今日の手術の記録をまとめるんでね」
セランレーデはもう付き合ってられんとばかりにシッシと前足を振ると、でかいペンを取りつつ手術台横の机に向かい、紙の本にかじりつき始めた。
その目つきや筆記用具を超高速で操る手つきは真剣そのもので、声をかけてよい雰囲気ではない。というか、邪魔したら襲われかねない。彼の言う通りにさっさと退散するべきだろう。
「もう用はないでしょう? ここはおとなしく帰りましょうよ」
「むうーっ……」
苦笑いしているエクセラが、いたわるような手つきでヴァラデアの脚を叩く。ヴァラデアはとても不機嫌そうなしかめっ面をするも、扉を開けて素直に診療所から出る。
で、外に出たとたんに光の翼を広げて、無言のまま豪速でかっ飛んでいった。
恥ずかしいので逃げたのだ。
分かりやす過ぎな展開に、思わず皆で顔を合わせる。もう笑うしかなかった。