番外編3 マリア 上
長くなってしまったので二つに分けます。
後半は明日投稿します!
マリアは、美しい薔薇園にいた。目の前には見目麗しい青年がいて、マリアのことを熱い眼差しで見つめている。
「僕との婚約を前向きに考えてみてくれませんか」
ああ、私にもこんな瞬間が訪れるなんて。
わかっていたことだけれど、覚悟を決める時が来たのかもしれない。
マリアの母は、マリアが13歳の時に、現在の夫であるランドア伯爵と結婚した。本当に急な結婚で驚いたが、マリアには知らされない事情があるのは子ども心にも感じ取っていた。突然経営していたカフェを捨て伯爵家に入る前、しばらく母は何かを思い悩んでいる様子だったからだ。
伯爵家に入る話が突然のことだったのは母も同じようで、最初は戸惑っていたが、それまでのように暗い顔で沈むことはなくなった。伯爵も伯爵の息子も使用人たちもマリアたち親子が生活に慣れるよう心を砕いてくれた。
もともと市井で暮らしていたマリアは、伯爵家の豪華な暮らしに驚いた。お嬢様と呼ばれ、綺麗なドレスもたくさん買ってもらった。マリアは、単純に嬉しかったが、母はいつも遠慮がちで、不相応に物を持ってはダメ、置いてもらっている事を忘れてはダメと繰り返した。
半年ほど経った時、マリアは義父が商品だと持って帰ってきた髪飾りのうちの一つをひどく気に入った。欲しいと義父にねだったら、母から、いつものお小言が始まったのだ。
「どうしていけないの?このうちにいるのに、町娘と同じ生活なんておかしいわ! 髪飾り一つじゃないの」
マリアはそう訴えたが、母は頑として譲らず、ついにマリアは、泣き出して、部屋に閉じこもった。
「なんでもダメダメダメダメって! じゃあなんでお義父様と結婚したのよ! せっかく貴族になったのにバカみたい!!」
泣きながら怒っていると、メイドのエミリーが旦那様がいらっしゃいましたと言ってドアを叩いた。
母親ならまだしも、義父を追い返す訳にもいかない。マリアは渋々ドアを開けた。
「マリア。大丈夫かい? お茶とクッキーを持ってきたよ。一緒に食べようか」
義父がそう言っている間に、エミリーがテキパキとお茶の準備をしてくれた。
温かいお茶を飲むと少しだけ気分が落ち着いた。
「マリア、お母様の言うことももっともだ。でもだからって欲しいものを全部諦めるのは切ないよね」
義父の言葉にマリアはこくんと頷いた。
「ではどうだろう。自分で働いたお金で買うというのは。カフェでは看板娘だったんだろう? うちの商売も手伝ってくれたら嬉しいな」
マリアは、大きな目を瞬いた。
「報酬はもちろん払うよ。それであの髪飾りを買うといい。取り置いておくから」
そしてマリアは伯爵家の商売を手伝うことになった。
手伝い始めて気がついたのはカフェでも、国で一、二を争う大店でも、規模こそ全く違うが、結局商売は人の力でなされているということだ。貴族だからとふんぞり返っている訳ではなく、ランドア伯爵家は使用人も含め、実によく働いた。
マリアは義兄であるケインについて仕事を覚えることになった。各国から入ってくる商品、帳簿の付け方、得意客に王都の流行、覚えることは果てしなかったが、マリアは意欲的に取り組んだ。
マリアにとってケインは憧れの存在だった。結婚式の日、親族席でポツンと座っていたマリアの緊張をほぐそうと話しかけてくれた日から。
商会の仕事がどんなに大変でも頑張れたのはケインに認められたかったからだ。
「マリアは覚えがいいね」
とケインが笑うたび、もっと頑張ろうと思えた。
仕事を手伝い始めて半年、自分のお金で欲しかった髪飾りを手に入れることができた。
とても嬉しかったが、今ならわかる。あの髪飾りはあんな値段で買えるものではない。
「良かったね。マリアが頑張ったからだよ」
そう言って笑ってくれたケインが実は、密かに差額を払っていてくれたのだ。それに、自分が稼いだお金を生活費に使うこともない。自分がどんなに甘やかされているか、商売を手伝い、お金の流れがわかることで、理解することができた。
髪飾りを手に入れてしばらくして、ケインが隣国の拠点を任されることになった。これまでも手伝ってはいたが、本格的に取り仕切ることになり、隣国に常駐することになったのだ。
そして、伯爵からマリアも一緒に行って欲しいと言われた。
母と離れるのは寂しかったが、それよりもケインと離れなくてよいという喜びの方が大きかった。
隣国の拠点を任されてからは、ケインの片腕となるべく、より一層頑張った。本国では社交界デビュー前に隣国に渡ったため、貴族との付き合いはほとんどなかったが、こちらでは、お茶会などにも積極的に参加した。中には、マリアが平民出身であることを知っていて、蔑んでくる人もいたが、そういう時にはケインがマリア以上に怒ってくれた。もう付き合わなくて良い、商売も手を引くと言うので、マリアは宥めるのに必死で、ひどく傷付く暇もなかった。自分を蔑んだくらいで、伯爵家の商売に影響させるわけにはいかないのだ。
それに、マリアの出自を気にしない貴族も意外と多かった。マリアが隣国の人間というのもあるかもしれなかったが、中には気のおけない友人になる令嬢もいた。
この国の子爵令嬢のリリアーネはその中でも一番の親友だ。
同じく商売で身を立てている家なので、話も合う。兄がいるのも同じだった。二人は、頻繁にお互いの家を訪ね合う仲だった。リリアーネの屋敷には見事な薔薇園があり、そこの一角にある四阿でたわいもないお喋りをするのが楽しかった。
ケインも「いいお友達ができてよかったね」と言って喜んでくれた。
今日も、リリアーネの家で二人はいろいろな話をしていた。なんと同い年のリリアーネは、半年後に婚約者との結婚が決まったという。
「おめでとう! 何かお祝いをさせて欲しいわ。お相手も今度紹介してね。結婚しても、リリアーネに会わせていただけるようお願いしなくちゃ」
「そうね。でも領地も近いし、しばらくは王都暮らしが続くからきっと会えるわよ。それより、私が家を出るから、その代わりにお兄様が王都に戻ってくることになったの。ご紹介してもいいかしら」
リリアーネの兄は、領地のワイン農園を任されていたが、王都での商売を手伝っていたリリアーネが結婚するので、代わりに戻ってくるらしい。ハンフリーという兄は、マリアやリリアーネより二つ年上の好青年だった。
「初めまして、マリア嬢。いつも妹と仲良くしてくれてありがとう」
「初めまして、ハンフリー様。こちらこそリリアーネ様と仲良くさせていただいて感謝しております」
ハンフリーと挨拶を交わすマリアの耳元にリリアーネが囁く。
「うちのお兄様、なかなかハンサムでしょ。でもこの歳になって、まだ婚約者もいないのよ」
驚いてリリアーネの顔を見ると、いたずらっ子のような顔でウインクをしてみせた。
なるほど。リリアーネは自分の幸せをおすそ分けしたくなったらしい。自分の兄と親友が結婚すれば、リリアーネにとってこれほど喜ばしいことはないだろう。
マリアは曖昧に笑った。
正直、自分が誰かを好きになって、結婚するということが想像できなかった。
自分は、ずっと伯爵家の商売をケインと共に手伝っていくと思っていたからだ。
でも。
「ねえ、エミリー。お兄様はどうして結婚なさらないのかしら。婚約者もいらっしゃらないわよね。私が家にいるからかしら。ほら、お兄様の奥様だったら貴族のお嬢様だろうし、私のことを平民出身とか言って、蔑んだりしたら、私が居づらくなると思っているのかしら」
家に帰って、エミリーに聞いた。エミリーは感慨深げにうなずいた。
「お嬢様。そんなことを気にされるほど大人になられて。エミリーは嬉しいです」
「エミリー、最近ますますゾーイに似てきたわ。私についてこちらに来てから、お母様と一緒にあちらに残ったゾーイとはほとんど会えていないというのに」
「坊っちゃまは、ヘタレなだけなので、お嬢様には何の責任もございません。お嬢様はお付き合いしたい方とお付き合いし、お付き合いしたくない方とはお付き合いしなくて大丈夫です」
そうは言われても、ケインはもう30に手が届こうかという年だ。結婚して子どもが2、3人いるのが普通なはず。貴族なのに商家だという特殊な立場のため、結婚相手の選定には慎重にならざるを得ないとはいえ、婚約者もいないのはひどく不自然に思えた。
「お母様と私が、伯爵家に入って、私が隣国にいることと関係があるのかしら」
マリアがそう言うと、エミリーがピクリと動いた。
しかし、何も言わずに、マリアのドレスの整理をしている。
自分はケインの足手まといになっているのではないか。実はずっと考えていたことだ。マリアはベッドに突っ伏すと枕に顔を埋めた。エミリーがお行儀が悪いですよと言ってくることはなかった。