後編(アマネ)
ソラが意識を失ってから、一月が経つ。
ちょっと見ただけでは殆ど怪我らしい怪我もないのに、意識が戻らない。
ベッドに横たわる姿は、寝ているだけのようで。
今にも慌てて起きてきそうだ。
「おはよう、アマネちゃん! 寝坊しちゃった!」とでも言いながら。
騒々しく。
私だけのヒーローだったソラは、見知らぬ子どものヒーローになった。
そして、それっきり、目を覚まさない。
◆◆◆
その日の朝も、いつも通りの朝だった。
「行ってきます!」って言いながら、慌てて走っていくソラを見送る朝。
見送る前に、「アマネちゃん、今日も大好きだよ」って言いながら、頬に軽くキスをくれる。
何かの祝福みたいに、儀式めいて。
そんな朝だ。
だから、いつも通りの昼が来て、いつも通りの夜が来る。
そして、いつも通りの明日が来ると、理由もなく信じていた。
朝にたてた予定通り、いつも通りの昼はやって来た。
けれども、いつも通りの夜はやって来なかった。
花の配達帰りに、車道側に転んでしまった子どもを助けたのだと、聞いた。
それは、誰からだったか。
事故の知らせをくれた病院の看護師だったかも知れないし、話しを聞きに来た警察の人からだったかもしれない。
もしかしたら噂を聞いてお見舞いに来たという、近所に住む女の人からだったかも。
あの人は、いつも、ソラをどこかバカにした目で見てた。
弱虫。頼りない。情けない。考えが足りない。
他にもたぶん、色々と。
それがどうだ。あっというまに手のひらを返して、ソラを褒めちぎっているではないか。
助けた相手の子どもがどうだ、勇気のある行動だ。ヒーローだ、と。
なんでもよかったし、どうでもよかった。
ソラは昔から勇気があるし、私のヒーローだ。
そんなこととっくに知っていたし、それ以上のことも知っている。
少なくとも、この人に認められるためにソラは行動したわけではない。
かと言って、どうしてかとたずねたら、
「わかんないや」
って、ソラは笑うのだろう。ちょっと困って。
どこか、当然の顔をして。
◆◆◆
ベッドの横に腰掛けて、ただただソラを見つめる。
眠り続けるソラを。
不思議と、笑って見える顔だ。意識がないはずなのに。
「笑って、アマネちゃん」
そう言って、ソラが笑った気がした。
でも、私は笑えなかった。
◆◆◆
こんなにも笑わない日々は、いつぶりだろう。
ソラが隣にいる日々は、いつも笑顔でいっぱいだった。
苦しい日も、悲しい日も、自然と笑顔になれた。
気負うことなく。
幼稚園の年少で、ソラとであったあの日から。
「ぼくの名前は、ソラだよ。空太」
あの日のソラも、笑っていた。
「ねぇ、きみの名前はなぁに?」
すみっこで、絵本をながめてた私に、手を差し伸べて。
「天音」
お日様みたいに、笑ってた。
「アマネちゃん! よろしくね」
名前通り、晴れた青空の明るさで。
部屋の隅まで、明るく。
その日、私たちはであった。
それからずっと、私の隣にあなたがいる。
◆◆◆
結婚してからの毎日は、いつも幸せだった。
ソラは、いつも私を可愛いという。世間での評価とは、まるで真逆だ。
でも、ソラは、私が可愛いって信じてる。本気でそう思ってる顔で、いつも言う。
「アマネちゃんは、可愛い」
二人で眠る夜。ソラはいつも以上に幸せそうだ。
普段から幸せそうなのに、もう、これ以上ないってくらい。
幸せそうに笑って、私をぎゅっと抱きしめる。
触れ合う素肌に私はどうにも慣れなくて、そんな自分にちょっと困る。
きっと、これからも慣れてしまうことはないのだろう。
ソラの幸せがあふれて、私をひたひたに侵していく。
そのうち、私の幸せ漬けにでもなってしまうのではないだろうか。
そうしたら、ソラがおいしく食べてしまうのかもしれない。
もったいない、とでも言って、大切にしまってしまう気もするけれど。
そんなバカみたいな想像をしてしまう程度には、私は幸せで。
頭の中まで、幸せにふやけきっている。
◆◆◆
ソラがいなければ、朝も昼も夜も始まらないことに気づいた。
たぶん、とっくに知っていたけれど。
知っていたことと、実際体験することはまるで違う。
思っていたよりも、苦しい。
思っていたよりも、平坦だ。
ソラがいてもいなくても、勝手に夜が来て、夜が明ける。
だけど、ソラがいないと私の夜は明けない。
ソラがいないと、ご飯が美味しくない。
ソラがいないと、風を感じない。
ソラがいないと、花だって美しくはない。
ソラがいないと、眠れない。
ソラがいないと、私の生活は回らない。
心が動かされることもなく、時間は同じように過ぎていく。
ソラ。ソラがいないと、私は……。
◆◆◆
それから、助けられたという子どもとその母親も見舞いに来た。
母親はずっと泣いていた。
子どもはといえば、不思議そうな顔をしてソラを見ていた。
「お兄ちゃんは、いつになったらおきるの」
子どもらしい、無邪気な問いが胸に突き刺さる。
「お兄ちゃんがおきたらね、ありがとうっていっぱい言うんだ。そんで、そしたら、あそんでくれたらうれしいなぁ」
子どもはニコニコと嬉しそうに笑う。
ソラも、何となくいつもより笑ってる気がした。
私も笑ってた。久しぶりに、笑った気がした。
ソラが、ますます嬉しそうに笑う。
そんな気がした。
◆◆◆
やっぱり笑ってる。
今日も、ソラは笑ってる。
幸せそうに。
だから、私は笑顔を作る。
自分が笑っているのに私が笑っていないと、ソラは困った顔をするから。
頬の冷たさは、無視して笑う。
◆◆◆
春の、午後の、柔らかい陽射しの中。
ソラのまつ毛が、ふるえた。
まぶたにかかる明るさが、くすぐったいとでも言うように。
ソラの目の中に、光が差す。
「おはよう、アマネちゃん」
ソラが、少しまぶしそうに私を見る。
驚く私を、まぶしそうに。
彼の目が、最後に光をうつしていたのは、寒さの厳しい時期だった。
久しぶりに目にする陽の光が、たぶん、少し痛い。
ささやくような声は、空気に溶けて消えてしまう前に、私に届いた。
「あれ? 僕、もしかしてまた寝坊しちゃった?」
ソラが笑う。困ったみたいに。
かすれた声で聞いてくる。
「ううん。寝坊なんてしてないよ」
確かにソラはちょっと長く寝すぎだけれど、起きてくれた。それだけでいい。
「おはよう、ソラ」
おはよう。毎日二人で交わすことが当たり前だった挨拶を、ちゃんと交わせる幸せ。
私の頬を伝う涙は、どこかあたたかい。
「そう。よかったぁ」
そう言って、ソラが笑う。
ソラが笑うから、私も笑う。
お読みいただき、ありがとうございます。
とりあえず、これで完結。