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落伍者

作者: 山路 桐生

 私は平素より、人というものに憧れておりました。人間に生まれついたからといって、必ずしも人間というものは、人というものになれる訳ではないという事を、私は短い生涯の中で知りました。とはいえ、私は傍目から見れば、およそ人らしくあるというのですから、堪ったものではありません。

驚くほど私の、文字通りの人真似というものは、板についています。それというのも、幼少の頃からそうでしたからだと、今にして思います。恐らくは、物心がついた頃から、そうであったのでしょう。記憶には、あまりありませんけれど。

 何も私は己の生涯全てを曝け出そうという魂胆では、ありません。

 ただ、抱える事が辛くなったから、書くのです。うんざりしているのです。自分に。

 園児であった頃は、何分もう朧気で、曖昧で、恐らく他者の主観によって記憶は美化されているであろう事が窺えるので書きませんが、小学校の頃、そう、この頃はよく覚えています。

 児童になり立てだった私は、ずいぶんともう生意気で、これはもうどうしようも無いほど、年上の人からは腹立たしい人間だったと、思います。今から思えば、顔から火が出そうなほど、ひどい人間でありました。

 給食の時間。昼休みの時間。そういったものが苦痛でした。集団で一斉に同じ事をする、というのが苦手なのではなく(実際今でもそれは得意だと自負していますが)、ただただ、浮くという事が分かっているから、飛び込みたくなかったのです。許容を得られる人間性ではないのですから致し方ないと、諦めるべきだったのに、私にはそれが出来ませんでした。いえ、するだけの知恵がありませんでした。

 うまく溶け込んでいる人を見るにつけ、みじめな思いをしました。勝手な話ですが、私は元より勝手な人です。自分勝手で、どうしようもないのです。

 クラスで誰かが誕生日だ、という話を聞くにしても、そうでした。色紙に何か、祝い事についての言葉を書けだの、別れについての話を書けだの、うっとうしかったのです。ですが、書かなければ浮くので、私はいつも本から、その内容を拝借し、書いておりました。当たり障りのない事を書くという事が、不得手でした。

 本。そうです、本です。

 私は、幼少の頃から、本が好きな人間でした。何しろ、本から殆どの事を学んだと言っても、過言ではないぐらいの人間です。

 祝い事や別れに対する適切な文句の書き方だけでなく、感情について…そう、これが一番私には欠けているものでした…。喜びというものは分かります。悲しみというのも分かります。しかし…。私には今、母はありませんが、亡くなったときに悲しかったか、と問われると、何やら薄っぺらい悲しみしか感じていなかったように思うのです。父が泣けというから、私は泣いたようなものでした。でなければ恐らく、涙一つ零さなかったでしょう。私という人間は、そういう人間でした。

 とはいえ、そんな私にも、友はおります。学生という身分だった頃、私には友が居ました。今でも交友のある、友が、おります。

 ですが、その人たちが他所の人の話をすると、私は内心怯えていました。いつ、あの人たちが騙していたのだなと私を痛罵するかと、恐怖していたのです。誓って申し上げますが、騙そうなどと思って、取り繕っていたわけでは、ないのです。ただ、私がその人たちへも、あまり本心を―――ことによると本音を―――話さないのは、確かな事ですので、騙していると言われても、しょうのない事でした。

 本当の事を言うと離れてしまうのではないか、という恐怖でもありましたが、本当の事さえばれなければ、共に居られるというのも、また恐怖でした。

 どこから話が洩れるのだか、分からないからです。だから、常に気を張って、それと悟られないよう話を振り、適当に誤魔化し、その場を凌ぎつつ過ごしております。これを騙している、と言われればそうなのでしょう。そうとしか言いようがありません。

 しかしながら、人というものは、取り繕う事が本性だと言わんばかりの言動が多いので、そういう意味では、私はやはり、人真似をしているに過ぎないのでしょう。文字通りの、人真似。

 それが功を奏しているのか、あるいはもうとっくにメッキが剥げて憐れまれているのだかまったく分かりませんが、少なくとも現状、今すぐには離れてはいかないだろう友が、私にはあります。

 それだけでも、私は果報者でしょう。世の中には、そういう友が居ない方が居るのだから。

 ですが、やはり私は恵まれている、とはどうにも思えないのです。何しろ私には、感情というものが、何より薄っぺらい板切れのようなものにしか、感じ取れないのですから。

 その場その場で本気で楽しんでは、悲しんでは、おります。でなければ、失礼だからです。しかし、その場が終わってしまうと、その感情はあっさりと消え失せ、空虚な砂漠のようにしずかな心が、ただただ広がるばかりなのです。

 こうなると駄目でした。どうしようもなく、しずかな心を引きずって、その場を終えた後のさみしさごと、持って帰る他ありません。

 そういう気持ちを味わう、という事が、どうしようもなく、耐えがたいのです。だから、あまり私は友であっても、出かける、という事をいたしません。

 夜、眠るときもそうでした。

 一人で眠る、という事が、時折ひどくさみしい事のように思えるのです。幼少の頃から、一人寝を義務付けられておりましたから、大抵は平気な振りをして(実際、平気なときもありますが)、眠りにつく事が多く、その内に私は眠りの性質が悪くなりました。

 寝つきは良くなく、寝入りばなにはっと目が覚めて、心臓がばくばくと音を立ててがなり立てる事すらありました。そうなっては、おしまいです。眠る事なく、一日を終わらせ、また翌日の眠りを、待つ他ありませんでした。

 薬を与えられている身分の今ですら、そうなる事は、少なくありません。減りはしましたが、しかしまったく無い、というわけでも、ないのです。

 やたらと世話を焼かれると、人は我儘になるだなんて申しますが(実際そうなのは父を見ていると分かります)、逆にまったく世話を焼かなくても、人は我儘になるのではないかしら。私はそう思います。何しろ、私は世話というものを、幼少の頃から手放されて育ったのです。

 母の手料理は覚えていますが、その味一つ、記憶にありません。こう書くと、薄情な気がいたしますが、実のところ、そうなのかもしれません。

 しかしながら、母が作る料理を甘受して育った身分でこういうのも口幅ったいのですが、私はやはり、世話をされた記憶がないのです。必要なものは、買い揃えてやえればいいとか、そういう事でなしに、冷たい家で育ちました。

 父と母は睦まじいとは言い難く、また、私についてもこのような自分勝手な人間の事ですから、父母の機嫌のよいときだけ、構われるような有様でした。

 言う事も一貫しておらず、たいへんにそこで私は板挟みの苦しみというものを味わって育ちました。今でも思い返すにうんざりした気持ちになるぐらいです。当時はとても苦しかった事でしょう。

 ですので、私は家庭というものに憧れはありますけれども、しかし私がその家庭なるものを築く姿が、どうにも考え付かないのです。どう考えようにも、あまりに私と家庭というものは離れすぎていました。

 大きな運河のような隔たりが、私と家庭というものの間に横たわっていて、向こう側が見えないのです。しかし、家庭を築かないというのも、まだ問題のある世の中ですから、いつかは混ざって築き上げねばならないのです。その瞬間が来る事が、私にはとても怖ろしく思え、来なければ良いと、ずっと願っているのです。

 斯様に、私は人間ではありますけれども、人としては生きるに欠陥のある、人間でした。

 哀しいほど、人としては生きられない、人間でした。

 人に憧れてはおります。けれど、人になれるとは、どうしても思えないのです。人として、まず、私は、落伍者でした。

 どうしたってその気持ちが、変わる事はありません。板切れのような感情と、自分勝手な自己を引きずりながら、怖ろしい死がやってくるまで、私は耐えなければならないと、思っているのです。自分勝手に死んではならないと、考えているのです。利己主義な人間です。だから、落伍者なのです。

 思いやりのない、怪物。それが私の全てでございます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文頭から引き込まれるような魅力がある。 最近にない独特な文体。 私小説の懐かしい感じ。 [一言] 太宰を連想させられた。太宰全集を頭の中でサーチしてしまったくらい。
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