第三章 甘苦世界と超展開
「蔵橋さん。死因が特定できました」
「おう、ご苦労さん」
鑑識の一人が有力な情報を持ってこちらに駆け寄ってきてくれたため、漫才に終止符を打つことができた。
理由は何となくわかるが、彼は尾崎と目を合わせようとせず、俺のことばかり見る。
「彼の死因は、毒入りのコーヒーを飲んだことによる中毒死です。その毒というのは、ストリキニーネでした」
「ストリキニーネ?」
聞き慣れない名前に、俺はつい首をかしげてしまう。
すると尾崎が、無表情で顔をテレビに向けたままスラスラと語りだした。
「すごく強い毒性のアルカロイド。量によっては薬、または猛毒。熱湯とかによく溶ける。実際飲んだことないから知らないけど、めっちゃめちゃ苦いらしい。わりと有名だと思うけど」
「え、あ、そ、そうだよな。それのことだよな。あっははは」
こいつ、こう見えて毒物とかに関する知識は半端じゃないからな。いまだにリモコンをいじっているのは気に入らないが、代わりに解説してくれたことに免じて見逃してやろう。
しかし、熱湯などに溶かして飲む毒か。彼が飲んだのはコーヒーで、豆とかに仕込んでおくのは至難の業。事前に毒を混ぜておいたという線は薄いだろうな。
「そうか、すごく苦いのか……」
強烈な苦みがあるということは、相当な覚悟がないと飲めないはず。カプセルで摂取したのならともかく、飲み物に混ぜて飲んだとなると……。
「彼、相当苦しんだでしょうね。あんなもの、人間が飲めたものではないですから」
俺の気持ちを見事に代弁するような、鑑識の言葉。同意するように、うんうんうなずく。
「そうだよな。部屋も密室だったって言うし、覚悟の自殺だろうか。毒の入手ルートさえ特定できれば……ん?」
さて、うちの名探偵も俺と同じ見解だろうか。
確認しようとちらりと視線を送ろうとしたが、いつの間にやら尾崎の姿がどこにもない。
「あいつ、一体どこに……あっ!」
何かガサゴソと音がすると思ったらあの馬鹿は、今度はキッチンで家探しをしていやがった。しかも、また素手で!
「何やってんだ、尾崎ーっ!」
「ん?」
冷蔵庫を開けたり、戸棚を開けたり、まさにやりたい放題。ああ、今日は一体何枚始末書を書かされるんだ……。
「テレビの次は、キッチン荒らしですか?」
「いや、彼、普段どんなものを食ってたのかなと」
「わかった、百歩譲ってその探求心は認めるとしよう。だが、せめて手袋を」
「皿に乗ったケーキ。食べかけのバナナ。飲みかけのジュース。未開封のゼリー。三個組のうち一個だけ減ってるプリン。缶コーヒーがたくさん」
「聞いてる? 人の話」
「甘い物ばっかり」
「んなこと、言われなくてもわかる!」
こいつはまた、漫才を始めさせるつもりなのか。話が一向に進展しないので、そろそろいい加減にしていただきたい。
それにしても、本当に甘い物ばかりだな。見ているだけで、奥歯がズキズキしてくるような……。今度、歯医者に行こう。うん。
「牛乳、棚の砂糖。俺の家にあるメーカーと一緒」
「すっごくどうでもいいんですけど、その情報」
「お腹すいた。ラーメン食べたい」
「もっとどうでもいい!」
言動が支離滅裂にもほどがある。相手が俺じゃなかったら、多分発狂するぞ。
「……」
いきなり黙り込んだかと思うと、今度は遺体の方に急接近。手袋をはめながら移動しているようだから、指紋をまき散らすのはやめてくれるらしい。
「次は何だ?」
「できれば、味噌ラーメン希望」
「お前の食べたいものの話じゃなくて!」
尾崎はジロジロと、床に転がったコーヒーカップを眺める。そして突然立ち上がり、今度は山瀬さんと大村さんの元へ。
「あの。ちょっといいですか」
うんうん。ようやくきちんとしてくれる気になったか。
「先週の月曜日の十九時にやってた野球の試合、結果を覚えてますか」
「はあ?」
待て待て待てーっ! 何で今、野球の話なんてしてるんだーっ!
「尾崎、何の話をしてるんだ!」
「いや、スーパーズとウルトラーズ、どっちが勝ったかなって気になってて。野球興味ないけど」
「興味ないなら聞くなーっ!」
「でも、勝敗には興味がある」
「うおおおい……」
わからん。三次元と四次元は、決して一生交差することはないのだろう。
「ええと。私、野球は疎いので。大家さんなら」
「確か、スーパーズが勝ってましたぞ。一点差で」
「ほほう、なるほど」
なるほどじゃねえよ、クソ馬鹿。皆さん、めちゃめちゃ困ってるじゃないか。
俺が頭を抱えていると、奴は今度は玄関の方に向かった。
「お、おい。どこ行くんだ! 捜査中だぞ!」
何を思ったのか。尾崎はそれがさも当たり前であるかのように、外へ出ようとしていた。
俺は腕を引っ掴み、慌てて引き止める。
「おいおい、聞き込みにでも行く気か?」
「いや、ラーメン食いに行こうと思って」
「はあ⁉」
何言ってんだこいつ! 職務放棄して飯食いに行ったりなんかしたら、始末書じゃ済まされないぞ!
「何でだよ! まだ捜査終わってねえだろうが!」
「いや、でも」
「でもじゃねえよ。ラーメンならあとで」
「だってもう、犯人わかったし。いいかなって」
「そうか。それなら仕方が……って、えーっ!」
嘘だろう⁉ 犯人⁉ これ、覚悟の自殺じゃなかったの⁉
絶句する俺を前にして、不思議そうにする尾崎。そして再び、ドアの方に身体を向けた。
「じゃ」
「じゃ、じゃねえよ! 説明! 説明が足りな過ぎる!」
「足りてるって」
「足りてないって! お前以外、誰一人としてわかってないって! 推理を皆さんの前で、ぜひとも披露して下さい!」
「俺、口下手だし、面倒くさい」
「いつものように、そこは俺が適宜カバーするから! この後ラーメンおごるからさ、な?」
「うーん……」
おごるという言葉に惹かれてか、尾崎は悩ましそうにしながら天を仰ぐ。説得完了まで、あと少しといったところか。
「楊々軒の、スペシャルチャーシュー味噌をおごってくれるなら」
「う……」
楊々軒のスペシャルチャーシュー麺系のメニューといったら、一杯一五〇〇円もする高級品じゃないか! 妻に財布を握られている身としては、これはかなり痛いのだが。
しかし、ここでこいつを口説き落とさねば、自力で謎を解かなければならないことに。日夜続くであろう残業に比べれば、まだマシだ!
「わ、わかった。約束は守るから」
「よし。なら、頑張るわ」
「…………」
どうにか心を動かすことに成功したが、こんな高い物をおごるって言ってるんだから、もう少し嬉しそうにしていただきたい。どうしてこいつはいつも無表情なんだ。これではおごり甲斐というものが。はあ……。