第一章 尾崎次郎という男
三度も名を呼ばれたため渋々近寄ると、奴は俺を見ずに自分のデスクでちまちまと何かをいじっていた。
こざっぱりとした短髪に、若い頃ならそれなりに持てはやされたであろう中の上くらいの顔立ち。そして、全身からにじみ出る、ミステリアスな雰囲気。この男こそが、俺の相棒の尾崎次郎巡査部長。長男なのに、何故か次郎である。
奴は同期であり、一応友でもあり、仕事上のパートナーでもある。前述したように、彼と俺のコンビは署内で最高峰の検挙率を誇るが、それはほとんど尾崎の手柄だったりする。
え? ならばどうして俺が周囲から一目置かれているのかって? 理由は簡単。この尾崎には、ある重大な欠陥があるからだ。
「……お前、何やってる?」
俺が尋ねると、尾崎はようやくこちらを向いた。相変わらず、何を考えているのか全く読めない無表情で。
「あ、蔵橋。何か用か? 俺、忙しいんだけど」
「お前が呼んだんだろうが。蔵橋、蔵橋、蔵橋って三回も」
「そうだっけか。知恵の輪に夢中で、お前を呼んだこと忘れてた」
「三回も呼んでおいて、忘れるな!」
今の一連の流れで察しはついたと思われるが、念のために解説しておこう。彼は極度の天然というか、思考回路が四次元に吹っ飛んでいるようなとんでもない男なのだ。
いくら事件もなく暇だからって勤務中に知恵の輪をやっていることも問題だが、人のことを呼びつけておいて何か用かって。こいつの脳みそは、一体どういった動きをしているのか。
……まあ、数ある伝説に比べればこんなのはまだ序の口だが。
「しかし、知恵の輪って難しいな。ここをこうやってこう……おお、取れた。これでクリアだ」
「いや、それ、全然クリアできてないけど」
尾崎の手の中にあるのは、曲がりくねったベコベコの針金。完全に、外し方が力ずくである。
「よし、次はもっと難しいのにチャレンジしようかな」
「だから、全然できてないって」
「うーん。でも一つ、問題がある」
「な、何だよ」
問題は絶対に一つじゃない。だが、妙に真剣みを帯びた口調で言うものだから、こちらもつい聞き手として真剣になってしまう。
尾崎は急に憂いを瞳に宿すと、息をついてから続けた。
「……俺、知恵の輪ってあんまり好きじゃないんだよな」
「はあ⁉」
馬鹿じゃないの? どうして好きでもないものに対して、そんなマジになって向き合ってたの? というか、それが四十半ばのおっさんが言ったりやったりすること?
駄目だ、こいつと話してるとクラクラしてくる。漫才師でもないのに、ツッコミが怒涛のように湧いて出てくる。
「じゃあ、何で知恵の輪やってたんだよ!」
「その場のノリで」
「静かな職場のどこに、そんなノリがあるんだよ!」
「多分、机の下辺り」
「じゃあ何でお前は、机の下にあるっていうその場のノリを拾っちゃったんだよ! 何があったわけ? ええ?」
「さっき、落ちたペン拾おうとして、頭ぶつけた」
「何の話をしてるのかなあ? 頭ぶつけたことと、その場のノリを拾ったことに何の因果関係があるのかなあ?」
「ペンが手元にないから、ペンとその場のノリをうっかり間違って拾ったんじゃないかなと」
「どうやったらペンとその場のノリを間違うんだよ! お前のその目、きちんと見えてるのか?」
「視力は両目とも、一・二」
「そこは真面目に答えるところじゃないだろうが! 嫌味で言ってんだよ、嫌味で」
「真面目に答えるなってことは、ふざけた言い方をすればよかったのか? 一・二だぜ。イエーイとか、言えばよかったのか?」
「ああもう、全然話が通じていない」
俺が周囲から一目置かれている理由。それは、この署内でこいつとコミュニケーションをとれる人間が俺しかいないからである。
と言っても、俺は正直こいつとうまくやれている自信はない。何せ、会話一つするごとに、決まって漫才になってしまうからだ。付き合いが長いため、尾崎に悪意はないのはよくわかる。だが、この四次元に吹っ飛んだ思考回路をせめて三次元の世界に呼び寄せていただきたいものだ。
……これであの推理力がなかったら、確実にこいつはとっくの昔に刑事をクビになっていたのだろうな。
「おい、事件だ」
尾崎が真顔で視力に関する熱弁を振るう中、上司である宅間雅春警部からの出動命令が。俺は奴の語りをそっちのけで、宅間さんの話に耳を傾ける。
「事件って、まさか殺人ですか」
「それが、まだ殺人と決まったわけではない。アパートの一室で男性の遺体が発見されたとのことだが、状況から見てまだ断定できないそうだ」
「なるほど」
平和な地方で、殺人かもしれない事件が発生。あまり気分のいいものではない。
「というわけで、蔵橋。今すぐ尾崎とともに、現場へ急行してくれ」
「わかりました。では」
俺はまだブツブツ言っている尾崎の襟首を引っ掴み、強引に立ち上がらせる。そして、宅間さんの方に向き直った。
「今日もお守、頑張れよ」
「はい……」
尾崎のお守。それが俺に課せられた重要な任務。そう思うと、何だか泣けてくる。
「ほら、行くぞ」
「なあ。今度の知恵の輪はどのタイプの奴がいいかな」
「好きじゃないもんを無理にやろうとすんな!」
奴と不毛な会話を続けながら、俺は警察署をあとにした。