断章。
世界は割と適当で、案外残酷だと誰かが言っていた。その言葉が本当ならば世界はなんて大雑把で、どうしようもないのだろうと少年は悲観した。
しかしそれでも生きていかねばならないのだと、青年は先を見据えて目を細める。その目に見える世界が、たとえ曇天だとしても。結局は自分で歩くしかないのだと、悲観したところで何も変わらないのだと青年は言った。
*少年兵よ声を荒げ
三日目のフランスパンと萎びた食パン一斤ぐらいは盗んでも案外怒られない。その代わりに、出来たてのパンを盗るとめちゃめちゃ怒られる、どうということではない、至極当然のことだ。
食物の価値という物は時間で変化することぐらいは経験則から学んではいたが、それを活かす場所にいないので考えたって仕方がない。
前略、ジーンは今日も朝の街を駆け抜けていた。
補足するならば、ジーンは今日も朝からパンなどの盗みを成功させ、日課となりつつあるパン屋のおばちゃんとの鬼ごっこに勤しんでいる。とはいっても最近はそんなに追いかけてくる時間も少なくなり、以前までの苦労はすることはなかった。理由なんて知ったことではない、ジーンはとってはとりあえず仕入れがうまくいけばそれでいいのだ。今はそれだけで構わない。
そして背後の怒声が聞こえなくなった頃には、もう目的地は目と鼻の先になる。
「……っと、ここまで来れば大丈夫だろ」
海風の通る広場までやってきたところで、ジーンは歩みを止めた。
この街は見てくれだけはいい、何も考えなければいい散歩路だ。海岸に待ち構えている鳥共にパンを取られないように、それだけは気をつけなければ行けないが。とはいってものんびりするのは配達を終えた後だ、腹を空かせている子たちが下水道で待っている。急がねば。
ジーンはパンを突っ込んだバッグ背負い直し、いつもの家へと歩き出そうとするとその足が数秒硬直する。
「ざっけんじゃねえぞテメェ!」
硬直する原因にもなった、雰囲気を踏み倒すような怒声が横槍もいいように飛んでいった。
朝っぱらから元気だなと怒声の方向へ目線をやると、大人と思われる男性二人が言い争いをしている、ああ手が出たよ。もう殴り合いだ。
ジーンにはあの二人に覚えがあった、名前までは思い出せないが確か、いいところの出らしいが性格に難ありで荒々しい。二人揃って似たような感じでいつも喧嘩している。正直迷惑だよなぁと傍目に思う。巻き込まれないうちに逃げてしまおう、ジーンは大人気ない喧嘩から意識を外し、元々の目的だった家に帰ることにした。
その後ろでまた盛大に声が上がったのが聞こえたが、やっぱり何も聞かなかったことにする。
「飽きないなぁ」
「ほんとなー」
「なぁ……ってうわ!? い、いつのまに」
「はっはー、今日も変わらずにっぶいねぇ。なぁ、ジーン」
いつの間にか背後にいた女性がくすくす笑う。この人は時折こうやって話しかけてきては、言いたいことだけいっていく。そういう変わった人だった。
「あんたまだ盗みなんてやってるのかい?」
「続けるのもやめるのも俺の勝手だろ」
「ま、別にあたしには関係ないけどさぁ」
「何が言いたいんだよ」
「べつにぃー? よくもまぁそんな酔狂な真似を続けてられるねぇって感心してたところさ」
まぁ頑張れ、若人よ。女性はジーンの肩を叩くと、そのままどこかへふらりと去っていった。
酔狂な真似。
──言われなくとも分かっているつもりだよ。
心の中で悪口をつきながらも、街で唯一の教会の裏手に回る。するとそこにはぽっかりと下水道への路が口を開けている。
基本的に複数ある下水道への入り口は、それぞれ大人が見張っていて入れないのだが、この教会の裏手にある入り口だけは見張りがいない穴場だった。ジーンは躊躇いもなく下水道に降りて、いつもの目印を辿って歩いていく。
向かう先は家に一直線──関係ない話だが、暫定的に家と呼んではいる場所だがジーンの住む家は別にある。わざと離れて暮らしていると言えばいいのかなんとやら。動きやすいようにジーンの家はもっと街に近い場所にある、けれど逆に今から向かう家はあの入り口からは離れた位置にある。地図上で見れば教会の真下になるが、教会から下水道に降りる手立てはないので妙な心配無用だ。多分。
「……?」
いつもどおりの道順で下水道を進んでいくと、何か薬品じみた異臭を感じ取る。いつものたまに出る異臭みたいなものだろうか。疑問に止めておきながらも、ようやっと家に到着する。
「ジーン兄ちゃん! おかえり!」
扉を開けるまでもなく開かれた扉から、すっ飛んできた影をなんとか抱き留める。いつもいつも、この子だけはすぐにやってくる。身体が弱いのにまったくもって無茶をする。
「ただいま、ユニ。ちゃんと昨日は大人しくしてたか?」
「ジーン兄ちゃんはしんぱいしょーだなぁ、大丈夫! ちゃんとおとなしくしてたよ! げほっげほっ……」
「……もう1日寝てような」
「あ、みんな起きてきた! おーい、ジーン兄ちゃんが帰ってきたよー!」
おい病人話を聞け。
赤毛の女の子ユニが手を振ると、数人の子供たちが影から顔を出してきてはこちらへ駆け寄ってくる。
「兄ちゃん、おはよー」
「おうヒナ、おはよー。相変わらずお前は眠そうだなぁ」
「えへへー、ほめられたー」
「ヒナくーん、褒めてないそれ褒めてないー。あ、ジーンの兄ちゃんおはよう!」
「おはよう、足の怪我はもう大丈夫か? ミキ」
「うん、前にもらったお薬のおかげで元気だよ!」
ここにいる子供は全員で七人、七人ともみんな親がいない孤児だ。
この街には孤児院がない、だからこうやって身を寄せ合って生きている。かく言うジーンもその一人のようなものだ。他にもこういった人たちはいるが、子供の世話まで手を出す人はそうそういない。いないから、ジーンがやれる範囲で手助けしているのだ。そして盗みを働くのも、ほとんどこのため。というかこれ以外には目的が成立しない。
そうとはいってもこのままでどうにかなるとは思ってもいないのだが。しかい今は、これだけしかできない。それが一番もどかしい。
「今日は結構多めに仕入れたから、変に食い過ぎて腹壊すなよー」
はーい、とみんなが手を挙げて笑顔になる。
さて、少し遅めの朝ごはんの時間だ。
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下水道の子供たちが平和にパンを頬張っている頃、教会の一室から例の入り口を眺めている青年がいた。
いつもいつも頭脳労働やらなんやら面倒くさいことばかり押し付けられる青年は、今もこうやって面倒くさいことを任されている。たしかに今の仲間では自分しかやれないのだが、もう少し専門外のことでも頑張ってもいいんじゃなかろうかと愚痴ってしまいたい。
「どう足掻いても、あそこしかないか……」
青年は手に持つ赤い板のような機械と入り口をと交互に見ながら、面倒だなとため息をつくと同時に頭痛を覚えて頭を抱える。赤い板の機械に表示されている白い点滅、地図上に重ね合わせれば浮かび上がる目標に青年はげんなりと頭をそのまま窓枠にどつかせた。
そんなことをしていると部屋の奥から赤い髪の少年が現れる。赤い髪の少年が窓から乗り出すように外を眺めると、此方も似たように「下水道凸かぁ、気が進まないなぁ」とぼやく。
「妙なことをされる前に捕捉したいけど、本当にあの中にいるの? 間違いじゃなくて」
「間違いだったら即メンテだな」
「でしょうね知ってた、知ってたよ。うん」
少年は気だるそうに窓枠から離れると、うーんと背を伸ばした。
気が進まないのは私も同じだと青年はやれやれと呆れ顏をする。なにせ下水道だ、何がいるかも分からないし正直あまり好き好んでつっこみたい場所でもない。しかしそんなことをぼやいたところで、この目の前の仲間が動かないことは青年にも分かっていた。
青年は耳に取り付けた機械に触れながら「先に偵察に行ってくる」といい窓から飛び降りて姿を消す。少年は振り替えず、「真面目だなー」と呟くと部屋から出て行った。その最中、青年が飛び出していった下水道の水がごぽり、と不穏な泡を浮かべていたのだった。
/
「あのね兄ちゃん、なんかね、お水が変な味するの」
ちょうど朝ごはんが終わった頃、ようやくパンを食べきったフィナがそんなことを言い出した。
下水道に住んでるとはいえ、そこらの生水を飲むわけじゃあない。誰かが引いたらしいろ過された飲める水が出る井戸をいつも使っているのだが、変な味がするというのはわりとない話だった。
「変な味って、どんな感じだ?」
「んーとね、お薬の味がするの。ほんのちょっとだけど。みんなで変だねーって」
「……ろ過水門になにかあったのかも知れないな」
ろ過水門、下水道の中央にある文字通りの施設だ。確かに古い施設だし、街では管理人ぐらいしか存在を知らない。水道に妙なものが落ちたとしてもどこかで回収されるはずだし、そうなると水が変なことになるような原因は、そこぐらいしかない。
「兄ちゃん、お出かけ?」
「あぁ、ちょっとな。そうだ、変な味の水は飲まないようにみんなに言ってくれ、喉が乾いたときはー」
「ジュース?」
「そうだな、ジュースだな。飲みすぎんなよ?」
「はぁーい。兄ちゃん、いってらっしゃーい」
帰って来る頃にはジュース全滅かな。
ジーンは「いい子にしてろよー」と言いながらも家を出る。
そういえばろ過水門に行くのは久々だ。管理人さんは生きているだろうか、若干の不安抱えながら下水道の壁に打ち付けられた地図を見る。下水道の途中には大ねずみの巣もある、いざとなったら逃げるか戦うかしないといけない。わりと使用用途が想定外だが、ダガー一本でもまあなんとかなるだろう。
「行くか」
ジーンはかなり楽観的に思いながらも、下水道の中央部へと歩きはじめる。
しかし異変にはすぐ気がついた中央に近づいていくたびに、来るまではそうでもなかった異臭が強くなっていく。薬品じみた異臭、あまりいいものではなさそうだ。なんだろうな、と考えながら歩く速度を速めていく。なんだか嫌な予感がする。どうにしろ水は生活必需品だ、はやくまともな状態に戻さないと不味い。あの子たちのためにも急がねば。
/
水。というものは本当は好きではない。特に海水の類は精神に触れるほど、ジーンにとってはあまりいい印象がなかった。
水はどこまでも続いている、水路だと尚更そうだ。ここからは見えないどこかへ、必ずどこかへ繋がっている。そこが山なのか海なのか、知ったところではないのだが。水は生きていくのに必要だし、それは認めなければならないというのは分かっている。だがそれでも、一度染み付いた死臭だけは抜けないのだ。
……数年前だったか、それともたった数ヶ月前だったか。時期はどうであれ、海に入り死んだ仲間がいた。その仲間はジーンにとっては先輩のような存在で、生きるための最低限の術を教えてくれた人だった。
その人物がなぜ自ら命を絶つような真似をしたのか、いまだジーンは知らない。
知る術がない、といったほうがいいのかもしれない。
今ジーンが住んでいる家は彼が元々住んでいた家で、一度捜索をした事だってあった。だがそれでもなにもなかった、思えば彼は何かを残せるほど精神状態がよくなかったのかも知れない。あの頃の彼は、本当に酷いものだった。
しかしそれでもジーンにとっては兄のような存在には変わりなくて、原因が何であれ兄を浚っていった水はあまり好きではないのだ。
水溜りを踏みつけながら歩いていくと、そんな思い出の再生を遮断させるように身体の動きが硬直した。
「……、ッ!?」
ろ過水門一歩手前というところで、一体何があったのかが分からないがジーンは足を止めていた。
何があるわけではない、何があったわけではない。ただ、これまで以上に強い薬品臭とその仄暗さに身体が拒絶反応を起こしたのだ。
──なんだ、これ……空気が重い?
あるはずのない重力に背筋が凍るような感覚を覚え、無意識に後ずさる。この先に何か、何かある。何かいる。予感が脳裏に警告を鳴らす。先へ進んではならない。そんな気さえしてくるが、先へ進まねば何も分からない。ジーンは震える手を抑えるようにダガーを引き抜くと、そのまま慎重に奥へと歩きはじめる。
仄暗い路を抜けると、目指していたろ過水門の姿を見つける。特に何も変わった様子はなさそうだが、それ以前に視線が捉えたものがいた。
人影、のようなものがろ過した水の貯水池に何かを落としている。いや人影にしては大きすぎるし、あの背の上にかかる翼のような異形はなんだ。
異形。
そうだ異形だ。
確かに街の外には大ねずみよりも異常な魔物と呼ばれるものがいるという話は聞いたことがあるが、それがなぜ、街の地下にいるんだ。それに何だ、この威圧感は。
「……ッ、」
喉が握りつぶされる程の圧力に後ずさった一歩が、不味かった。
ぱきり、何かのガラス片を踏んでしまった音が一件静かな空間に響き渡る。それが不味かったのだ。
【アラ……ミチャッタ、ノネ】
異形がこちらに気がついてしまった。
ぐるりと振り向いた異形の目が、こちらを睨みつけるようにぎろりと光る。
潜在的な恐怖が湧き上がるよりも前に、異形がもう既に目の前に立っていた。気がついた瞬間にはもう悲鳴をあげることすら出来ず、ジーンは尻餅をつく。ダガーを落としてしまった金属音が、いやに虚しく轟いて。
【ミツ……ゲ、……ダ、テンシ、ミツゲダ、オォ、ァ、アアアアアアアアアアアッ!】
異形が背を反らせ、猛る。
死ぬ。逃げなければ死ぬ。死んでしまう。警告の鐘を鳴らす本能に、身体を動かす為の糸が切れてしまっていて動けない。
異形が振り被る姿が、時間が硬直したようにゆっくりと見えて、異形の爪が首筋へ触れる。終わった! ジーンはすぐさま目蓋を綴じた。
「──退け、」
聞いたことのない声が暗闇に響く、その後に聞こえたのは【グギャアッ】と物が潰れたような音。剣戟の、声。
ジーンは恐る恐る目蓋を開くと、そこにはまた別の人物が立っていた。
金色の髪を靡かせ、剣で異形の爪を受け止めている。青年。こちらに背を向けている為顔も見えないが、武装をしている。騎士、にしても服装は薄汚れていて、とにかくジーンの知る人種ではないことは確かだった。
「そこの、怪我はないか」
「え、あ……あの」
「そこにいろ、すぐに片付ける」
青年が言葉少なに語ると、異形がまた吠える。爆音にも似た奇声を青年は気にもせず、剣で薙ぎ払った。音もなく消滅した異形が、ただ黒い液体だけを残して姿を消す。
終わったのか、ジーンはふらふらと立ち上がる青年に声をかけようとする。だが青年は腕で行く手を遮り、下がっていろと低く警告した。
「相変わらず容赦がないですね」
唐突に水門の上から声が降ってくる。
何だ。何だ。水門の上を見るとそこには一人の少女が立っていた。白い法衣を着た、ほんの十歳程度の少女。一見して綺麗な子供に対し、青年は迷わず剣を差し向けていた。
ちぐはぐな状況、一見したところで状況理解できるはずもなく。
「餓鬼、今度は何をした」
「少しだけ悪戯しただけですよ」
「……」
まあいいですよ、面白い子見つけましたし。法衣を着た少女が笑うと、次の瞬間には少女の姿はない。まるで幽霊のように忽然と姿を消したそれに対し、ジーンはいまだ動揺を隠せずにいた。
「おい、そこの」
「え、俺のこと」
「お前しかいないだろう、ここはなんだ」
青年は剣を鞘に収めると、苛立った様子で水門を確認しながら聞いてきた。「水のろ過施設だ」と答えると、青年はすぐさま貯水池を覗き込み、座り込んで水に触れる。一体何をしているんだろう、今のはなんだったんだろう。ジーンはポカンとしていると、青年があからさまに舌打ちした。
「毒だ」
「えっ」
「毒が流されている」
「な、なんでだよ!? 毒って、」
ジーンはすぐさま嫌な予感の元凶に感づいた。
変な味のする水。薬品臭のする下水道。考えずともすぐに分かる警告の正体に、ひたすら戦慄する。
「ッ、……!! くそっ」
「おい待てどこに行く!」
「家だよ! 孤児のみんながこの水飲んでんだ!」
青年はジーンの言葉を聞き、驚いたような顔をすると「私も同行する」と言う。ジーンは好きにしてくれと走り出す、嫌な予感がばくばくと心拍を上げていく。
不安、はやく戻らないと。焦りがジリジリとやけどさせるようにジーンの精神を逆なでしていく。
一気に下水道を駆け抜けていくと、薬品臭が前よりも強くなっていることに気がついた。不味い。不味い。とにかく不味い。何がどうとはいえないが。
/
「みんなッ、大丈夫、か……ッ!?」
辿り着いた家の扉を蹴り開けたが、出迎える声はなかった。
ユニが倒れて動かない。ミキもリサも、アイリもユトも、みんな血を吐いた跡を残して倒れていた。
ツンとする薬のにおい、毒の匂い。死の匂い。惨状と十分呼べる環境がそこに欠伸をしながら寝転んでいた。
「遅かったか……」
遅れて辿り着いたらしい青年が、家の惨状を見て呆然と呟く。ジーンはすぐさまみんなに駆け寄って声をかけて回った、目についたところにいた五人はもう、事切れていた。ただ、
「にぃ、……ちゃん……」
「フィナ! 俺だ、ジーンだ。分かるか?」
「にぃ、ちゃん……だ。うん……わかる、フィナ、きこえる、よ……?」
フィナは、まだかろうじて息があった。
フィナが苦しそうに咳をする、どろりとした血がまき散った。ジーンにはどうすればいいのかが分からなかった。医者に見せなければいけない、でも、診てもらえる訳がない。フィナの小さな背を撫でるぐらいしか出来ずにいると青年が「こっちにも一人いたぞ、そっちは」と言いながら駆け寄ってきた。
青年が背負っていたのはヒナだった。青白い顔でガタガタと震えている。
「はやく医者にみせよう、急がねば不味い」
「でも医者なんてどこに」
「教会に駆け込めば呼び出せるだろう、行くぞ」
「みんなは」
「私の仲間がこっちに向かっている、今は目の前の命を運べ」
強く言われた言葉にジーンはすぐさまやるべき事を優先行動に組み込んだ。ジーンはフィナを背負い、青年と一緒に走り出す。それも全力で。
はやく教会へ、はやく、はやく。急く気持ちを動力にして駆け抜ける、出口の光はどこだ。落ち着け、自分、あぁでも早く。加速する不安が、心臓の中に確かに固形化し始めていた。
/
……。
…………。
……………。
下水道を抜け、教会に駆け込んだ時には大雨が降っていた。
幸いすぐに医者は見つかり、毒を飲んでしまった二人の孤児を診てもらえることになったが、医者が教会に到達する寸前に一人、ヒナと呼ばれていた孤児が事切れた。医者が残った一人の孤児を治療している間、青年は教会の裏口に出て仲間と連絡をとっていた。
「そっちはどうだ」
『毒はもう堰き止めたけど、孤児たち全滅、腐敗速度がおかしいよ。どうする? ここ土葬だっけ』
「土葬だが危険だろう」
『じゃあ火葬か、こっちで処理していいのかな』
「無縁塚に連絡を入れておこう」
『お願いするよ』
ざあざあ降りの雨はまだ止みそうにない。
腐敗速度の異常やあの状況、ただの毒ではないが普通なら耐えられる程度の毒だったはずだ。しかし今回はそうなった、毒を飲んだのが子供だからだったのか、それとも別の原因があるのかどうかは青年の知るところではない。
『そっちはどう?』
「一人ダメだった」
「二人だよ」
背後から聞こえた声に、青年は振りかえる。そこには表情の死んだ顔をした少年が立っていた。
「二人、ダメだった」
ジーンは言い聞かせるように、確認するように同じ意味合いの台詞を二度吐いた。結果はその通りだった。フィナは、同じように死んでしまった。ジーンはその事実を聞き、受け止めてはいたが重い気持ちをどこへやればいいのか分からず、裏口に出たのだ。青年は「そうか」と目を伏せる。重い空気、青年は続ける。
「すまない、もう少しはやく動ければ」
「いいんだ。あんたは多分悪くない」
どちらかといえば、自分が悪いんだとジーンは語る。
毒といっても、健康体ならば死ぬことはない毒だということをジーンは盗み聞いていた。
健康体ならば、死ななかった。今更後悔する。もう少しはやく、大人に頼ればよかった。少し考えれば分かることだった、ジーンは昔この教会で育った。孤児だったはずの自分は、ここで育った。神父に相談すれば、もしかしたら助けてくれたのかもしれない。でもしなかった。しなかったのは、他でもない自分だ。
「昔さ、ここにいた時の話なんだけど」
孤児だった自分を、唐突に連れて行こうとした人物がいた。事情も話もせずに、無理やり引きずって、神父に助けを求めたがそれに答えはなかった。ジーンはひたすら怖くなり、その人物の手を噛んで逃げ出した。
その時からだ、ジーンが素直に大人を信用出来なくなったのは。
「どっかに連れて行かれるって、怖くてさ。大人に預けるの、避けてたんだ」
「それで、あの場所に」
「ばかみたいだろ、本当に考えが子供だった」
「……そうでもないとは思うがな」
「それでも、ばかだよ。俺は」
決め付けるのには、早過ぎた。
盗みだけでやっていけるはずがないのは、分かっていたつもりだった。でもそうやって生きてきた。
だがそれも結局は自己満足だったのだろう。
「だってフィナの腕は、枝みたいに細かった」
毒がなぜ流されたのかなんて本当はどうでもよくて、今ある結果で目が覚めた。目を覚ました、それだけだったのだ。
「…… お前、名は」
青年は雨を眺めたまま唐突に問う。
ジーンは、ジーンという名を名乗る気にはなれなかった。そもそもこの名前は、あの子たちに貰った名前だったのだから。
「……忘れた」
目が覚めてもまだ見栄っ張りな自分がいる、ここまで来ると自己嫌悪も甚だしい。
青年はそれを感じ取ったのかどうなのか、ジーンの頭を不器用に撫でた。大きな、暖かい手だった。人体の温もりを久しく受けたジーンは、思わずきつく絞めていた涙の袋を緩ませる。
「お前、この後どうするか決めているか」
青年は続けて問う。ジーンは頭を横に振った。行き場所は最初からなかった。教会にまた世話になるのもなんだか気が引けて、そもそも、何もなくなってしまったからどうしようもなかった。
青年は少しだけ考えると、また視線を遠くにやりながら問う。
「……私たちと一緒に来るか」
ジーンは、少年は少しだけ驚いた。
それでもその言葉がまるで蜘蛛の糸のような意味を持っていることに、少年は無意識にも気がついていた。
少年は、ぼんやりと空を見る。曇天、晴れそうもない厚い雲はまるで今の心の写しのようで。
「それが一番、いいのかもしれないな」
少年は、静かに頷いた。
/
翌日。
青年とその仲間の赤い髪の少年は街の門の前に立っていた。昨日の雨もすっかり流されて、気持ち悪いほどに綺麗な青空が木々の隙間から覗いている。まったく人の気分を台無しにしてくれる天気だ。
「来るかな、あの子」
「さあな」
「勧誘したの君だよね?」
「決めるのはあれ次第だ」
「アバウトだなぁ」
二人がなんやかんやで喋っていると、街の門にもう一人、少年が現れる。必要最低限の荷物だけを背負って、髪先がほんのり赤い金色というその若干不思議な髪色をふわふわと風になびかせながら。
「お、 おはようございます」
緊張しているのか、まだ眠いのか。恐る恐るといった風に挨拶をした少年を目にし、仲間の赤い髪の少年はポカンと口を開けた。
「本当に来たよ……」
「本当に来たな……」
来るとは思わなかったと言わんばかりの台詞を青年も発し、赤い髪の少年は「本人が何言ってんだ」と青年を蹴り飛ばす。青年は「だって、だって私が勧誘して成功した事例今ままでなかったんだぞ」と小声でぼやくが、そのぼやきの意味を少年は理解できずにまたぽかんとする。
「あ、あのー」
「ああ気にしないで、えっと、初対面だね僕とは。僕はルカ、こっちは」
「アレフさんだよな」
「呼び捨てでいいぞ」
「え、いやでも年上だし」
「呼び捨てでいいぞ」
「あっ、はい」
少年は困惑しつつも頭を下げ、よろしくお願いしますと挨拶をした。ルカが「おぉ常識がある、珍しい」と感嘆の声を上げる。
「そろそろ出発するか」
「そだねー、あの馬鹿迎えに行かないと」
「あっ、あの。行き先ってそういえばどこに」
「いってなかったな、私たちはこれから帝国に向かう」
そこにうちの馬鹿担当が逮捕されててね、とルカが呆れながら言う。少年はなんとか調子を飲み込んで、そうなのかと答えた。その答えが予想外だったのかどうなのか、アレフは「この子案外すごいかもしれないな」と驚いたように呟いた。
ようやく落ち着いたところで「そうだ。君の名前まだ聞いてなかったや、」とルカが思い出したように振り返る。
ある意味これはルカの癖と言うべきか、決まり文句のようなものなのだが。初対面の少年にはそんなことも知りもせずに考える、名前。名前。呼称されるべき音はもう決まっているも同然だった。
──君の名前は?
「俺の、名前は──」
少年は、止まりかかったその足で確かに一歩を踏み出した。
(たとえそれが愚かな少年の選択だとしても)
(その決断は確かな質量を持って)