ヘヴン、病の最果て
急いで家へと帰る。短い時間のはずなのに、それは途方もなく長い時間に感じられた。
一分でも一秒でも早く帰らなければ。そんな思いが僕を支配している。
息が荒いのも横腹が痛いのも足が震えているのも忘れて走った。途中、何回転んだか分からい。それでも止まらなかった。
そしてようやく自分の家が見えて来た。あと少しあと少し。ヘヴンは大丈夫だろうか? そんな事を思えば最悪の出来事が頭をよぎる。
それを僕は頭を振って追い出した。間に合ってくれと祈りながら。
玄関を勢い良く開けて、靴をそのまま脱ぎ散らかしてドタドタと音をたてて階段を上がる。そして自分の部屋の前で立ち止まった。
怖い。
とてつもなく怖い。この先がどうなっているのか分からない。それが怖い。
しかしこのままずっと立ち止まっている訳にはいかない。僕は深呼吸を一回してドアを開けた。
そこで目にしたのは―――。
誰もいない自分の部屋だった。僕は一瞬、部屋を間違えたのかと思ったが間違えてはいない。ならなぜ間違えたと思った?
自分に聞く。
それはヘヴンがいないからだ。
家を出るときは確かにベッドの上にいた。でも今はいない。
僕はヘヴンの本体である薔薇がある場所へ行く。それは無残なものだった。
黒星病の進行はかなり進んでいた。黒い斑点で覆われている。薔薇の花も今にも落ちそうだった。
ヘヴンは……枯れてしまったのだろうか……?
そんな思いが頭をよぎる。僕が目の前に立っても現れないなんて事は今まで一度もなかった。 それぐらい弱っているのか、それとも本当に――――。
僕は奥歯を噛み締めた。
まだだ!
まだ諦めない! まだ絶対に生きているはず!
僕は自分にそう言い聞かせて買ってきた薬剤を使った。
どうかどうかお願いだからと心の中で何度も繰り返し叫んだ。そして桜井さんが言っていた事を思い出す。葉っぱを取らないとダメ。
それにはためらった。この薔薇はヘヴンとリンクしているはずだ。いや、確実にしている。
黒い斑点がヘヴンの身体にも出来た事からそれは想像がついた。
この葉っぱを取ったらヘヴンは傷つくんじゃないかと僕は思う。それを本人に確認したいけれど本人はいない。
どうすればいい? 自分の独断で葉っぱを取る?
心臓が高鳴る。
しかしそれしか方法はない。取らなければヘヴンは枯れてしまう。死んでしまう。僕は震える手を葉っぱに伸ばした。カタカタと震える。
取るのか? 本当に取るのか? 取った痛みでヘヴンが死んでしまったら―――。
どっちにしろこのまま取らないでいてもヘヴンは死んでしまう。なら少しでも可能性のある方を選ぶしかない。
僕は震える手で葉っぱを掴んだ。
そして、ごめんと謝りながらその手を下にずらした。すると葉っぱは最初からくっついていなかったかの様にポロリと取れた。
心臓が高鳴る。
そして二枚目、三枚目と斑点がある全ての葉っぱを取り終えた。僕はそのまま鉢ごと外に持っていった。土を交換するのだ。慎重に土を出していき新しいものと入れ替える。その土の中には桜井さんに教えてもらったカリ肥料がいっぱい入っている。そして活力剤も差し込んだ。
これで出来ることは全てした。後は祈るのみ。まだ生きていてくれと祈る。
もう既に枯れていたらどうしようと葛藤が続く。
いや、と思い治す。僕が信じてあげないでどうする。自分で自分を罵倒した。
そうだ。あの元気なヘヴンだから大丈夫だ。すぐに良くなって、この出来事を笑い飛ばしてくれるはずだ。
僕はそう思い、今の自分の情けないであろう顔を無理矢理笑わせたのだった。
あれから一週間が経った。
それでもヘヴンは姿を現さなかった。
薔薇本体は生きているのか枯れているのか分からない状態が続いている。
もうダメなのかもしれないと毎日の様に思う。それでも諦める事など出来るはずがない。自分でもネットで調べられる事は調べた。それは既に桜井さんに聞き実行済みだった。あとは本当に待つだけだ。
そんな事を思い、今日も一日が過ぎていく。
今日は満月だ。月明かりが薔薇を照らしている。何とも幻想的だった。今にも枯れてしまいそうな薔薇にスポットライトが当たっている様に見える。そんな薔薇を見つめていると、ある事に気がついた。
僕はベッドから飛び起きて薔薇に駆け寄る。見間違いじゃない。これは幻想などではない。僕の目は、確かに、確実に、薔薇の新芽を捉えていたのだ。
新しい葉っぱが生えてきている。つまり死んでない。生きている。それを見た瞬間、確信し俯き安堵した。自分の目からは自然と涙が一粒溢れた。
その時、聞きなれた、そしてずっと聞きたかった凛とした声が響きわたった。
「なに泣いてるのよ?」
僕は反射的に顔を上げた。
そこには僕を呆れた顔で見つめ笑っているヘヴンが立っていた。
無意識に僕は唇だけを『ヘヴン……?』と動かした。
それに気づいたヘヴンは「なに?」と首をかしげて聞いてきた。まるで今まで何事もなかったかの様な立ち振る舞いだった。
「あ~あ。顔中ぐしゃぐしゃじゃない」
そう言うとヘヴンはティッシュを取り僕の顔に押し付けた。それでも呆然と見つめていると、あの意地悪そうな顔と口調が言った。
「なに? 鼻をかむの手伝ってほしいの?」
僕はハッと我に返り、とりあえず顔中を拭った。
「落ち着いた?」
その言葉に頷く。
「聞きたいことは山ほどあるだろうけど、まずアタシから言わせて」
視線をヘヴンに向ける。
「これは夢でも妄想でもない現実。アタシは死んでないし―――生きてるよ夜行」
目を見据えて言われた。また目頭が熱くなるのを止められなかった。それを見たヘヴンはやれやれと肩をすくめる。
「そんなに泣かなくても。そんなに心配した?」
僕は何度も何度も頷いた。当たり前だと罵倒しながら。
「じゃあ次ね。なんでアタシがこの一週間、姿を現さなかったかというと―――」
そこでヘヴンは一度言葉をきった。何かとても重大な事があったのだろうか? 僕はそれなりに覚悟を決めた。
「黒点は全身に広がったの。顔までね……。それで……そのぉ……恥ずかしくって」
言って、てへっと舌を出してお茶目をアピール。僕は愕然とし、肩をガックリと落とした。たったそれだけの理由で? 今、目の前にちゃぶ台があったなら絶対にひっくり返しているレベルだ。
肩を落とし俯く僕に手袋をはめたヘヴンが背中を叩いてくる。
「ごめんってー。だってすごかったんだよ? さすがにあの姿で夜行の前には出れないよー」
そう言いながら僕の顔を覗き込んで来るので、僕は顔を上げて目を細め冷たい恨みのこもった視線を向けた。
「でも今回はありがとう。夜行のおかげで助かったよ、ありがとう」
ヘヴンは深々と頭を下げた。それに僕は笑顔を返したのだった。
あれからは本当に何事もなかったかの様に過ごしている。ただの悪い夢だったと言われれば信じそうなくらいだ。
しかしヘヴンの本体の薔薇を見れば、それは夢ではなかった事を裏付ける。
黒星病はおさまり、次第に新芽が生えてきている。あの時、間違って買った予防剤も今ではしっかりとその役目を果たしている。
それでも不安は拭いきれない。また黒星病や違う病にかかったらと思うと気が気ではない。そこで僕はヘヴンにある提案を持ちかけた。
それは株分けだ。
一つのものを二つに、あるいは三つ四つに分ける。しかし分けた所でその二つの薔薇を行き来できるのかは分からない。それでもやってみる価値はあると思った。
それをヘヴンに話す。
「なるほどね。それはいいアイデアだわ」
ここで一つ問題が生じる。それは本体の薔薇にハサミを入れても大丈夫なのかと言うこと。それで僕はヘヴンにあの時の事を聞いた。
『葉っぱを取ったとき痛くなかったの?』
それを聞いたヘヴンは得意気に答えた。
「覚えてない」
呆れた。またもや冷たい視線がヘヴンを見抜く。
「だって仕方がないじゃない。意識朦朧としててさー、痛みとか言われてもわからないよ」
ヘヴンの言うことは、ごもっともで理解もできる。それにあの時の葉っぱは、ただくっついているだけの感じだった。既にあの葉っぱは茎から切り離されていたのかもしれない。
だとしたら元気になった今の薔薇にハサミを入れるのはとても危険な気がする。
そんな事を考えていると当の本人にヘヴンが口を開いた。
「考えてても仕方がないし試してみようよ?」
僕は心配の眼差しを向ける。
「だいじょーぶだって。ちょっとづつ切ってみればいいじゃない」
こう言いだしたら引かないだろう。僕は煮え切らない気持ちで頷いた。
ハサミを持つ。これは緊張する。とゆーかなぜ自分がハサミを持っているのかというと。
「え? 夜行が切ってくれるんじゃないの?」
そんな無責任な事を言いだしたのだ。人の気も知らないで。切る場所は決めてある。そこはいくつか枝分かれしている新芽の先端十センチほどだ。そして僕は視線をヘヴンに向ける。それにヘヴンは無言で頷く。
これを切り落としたらヘヴンの指が切れたりしないだろうか? そんな事が頭をよぎる。
まずはそーっと少し切り傷を入れる。そしてヘヴンの反応を見る。
「大丈夫みたいね」
次はもう少し力を込める。その瞬間。
「あっ!!」
『!?』
ヘヴンが悲鳴をあげ、指を抑えて倒れ込んだ。
僕の血は一瞬にして引いた。僕は余りにも突然のことでオロオロするしかなかった。その時。
「うっそー」
ヘヴンは両手を頬の横に広げて、これでもかと言うほどの変な顔をして僕の慌てている顔の前に現れた。
「…………」
『…………』
舌を出し、目は明後日の方向を向いている。こんな状況でなければ吹き出していただろう。しかし、世の中にはやって良い冗談と悪い冗談がある。この場合は間違いなく後者だ。僕はフツフツと怒りがこみ上げてくる。
声が出るなら叫びたかった。悪ふざけも大概にしろと。
しかし。
これは自分が求めていた光景ではなかったのか? あの時ヘヴンのイタズラさえも望んだはずだった。そう思うと頭は冷静になり、毒は抜けていった。
そうだ。これが自分の望んだ結果なんだったと。
ヘヴンはおっかなビックリこちらを見つめている。さすがにやりすぎたのかと反省している様にも見える。
僕は微笑を浮かべて首を横に振った。そしてペンをとる。
『痛みは?』
「ないかな」
どうやら大丈夫らしい。それでも傷をつけたのは表面だけだ。茎の中までそうだとは限らない。などと思っていたら僕の手からヘヴンがハサミをかっさらっていった。そして迷うことなくちょん切った。
僕は余りにも突然の事で開いた口が塞がらなかった。
「夜行に任せてたら中々先に進まないからね」
そんな事を言い、ヘヴンは切り取った自分の本体の一部を手にとって軽く振る。
だったら最初から自分ですれば良かったにと思ったが、言えば怒りそうだったので止めておくことにした。
そして切った一部を、用意していた薬品の中につける。
桜井さんに聞いたところによると「水でもいいけど薬剤につけた方がいいよ」と言っていた。
そして買ったのがオキシベロンとミリオンと呼ばれるもの。オキシベロンは発根促進剤だ。切った場所から根が早く出てくるのを助ける薬剤である。ミリオンは水の底に入れておくと水が腐らないというもの。
しかしそれでも成功率は決して高くはないらしい。約十日から三十日ぐらいすると切った場所からイボイボの様なものが見えてくる。そしてしっかりと発根をしてから土にさすのだ。
一応、言われた通りに全てやってみたものの成功するかは分からない。
後は根がつくのをひたすら待つだけになる。
これが成功したのなら、株分けを何通りか作った方が良いだろう。薔薇はとても繊細だ。この様なことは今後また起こるかもしれない。しかし出来ることなら二度と経験したくないものだ。
それ程までに今回の出来事は僕の寿命を削ったと言っても過言ではない。今現在ヘヴンは至って普通だが、実際はどうなのだろうか。
僕を心配させまいと嘘をついたのだ。本当は今でも辛くて立っているのもやっとの状態じゃないのだろうか。
そんな視線を向けているとヘヴンが口を開いた。
「今、夜行が思っていること当てよっか?」
そう言われて僕は身体をビクリとすくませた。
「アタシならもう本当に大丈夫だから」
お見事。しっかりと心の中を読まれている。
「って言っても前科があるから信用してもらえないかな」
ヘヴンは後悔しているような淋しげな口調で言った。僕はペンを握り締めた。
『信用してるよ。そして信頼もしている』
「……」
ヘヴンは少し難しい顔をした。
あれ? おかしいな? 変な事を言ったつもりはないのにと思っているとヘヴンが言った。
「信用と信頼って何が違うの?」
そっちかー。
またもや心配して損をした。僕はヘヴンに悟られない様にため息をつき説明を始めた。
『信用は今、目の前にある一つの事を信じる事。信頼は目の前一つの事だけではなく、これからの人生全てにおいて信じる事』
それを聞いたヘヴンは「なるほどねぇ」と声を漏らしている。
「アタシも信頼している。それはこの先かわらない」
珍しく真面目な顔をしている。
『なんだかプロポーズみたいだね』
そう書かれたホワイトボード見るとヘヴンはゆっくりと口を開いた。
「そうとってくれてもかまわないよ」
言われ耳まで赤くなるのを止められなかった。それを見てヘヴンは「ふふふ」と声を漏らし笑っている。からかわれている事は分かっている。でもそれが心地よいと思えている事も事実。
これがあの時、願った事。
いつまでも続けばいいと思う日常。でもそれはいつか終わりが来るだろう。
ならせめて、その時までは今のままで。
それが今の僕の願いだ。




