夜行、走る
その頃、部屋で寝ているヘヴンは静かに目をさました。
起き上がり自分の身体を確認する。
「夢……じゃないか……」
夢なら良かったのに。そんな思いが胸いっぱいに広がる。
夜行はまだ戻ってきていない。部屋には自分一人だけ。息がしづらい。苦しい。頭が朦朧とする。このままいけば枯れるのは確実だろう。
ヘヴンはそんな事を考えながら立ち上がった。
足元がふらつく。それでも力強く一歩二歩と踏み出す。そして視線を落とす。その先には変わり果てた自分の【ブルーヘヴン】の青い薔薇の本体があった。
葉っぱは黒い斑点がいっぱいだ。見ているのも気持ちが悪いほどに。
「アタシ……このまま枯れるのかなぁ……」
呟き俯く。
「枯れたくない。死にたくない」
ヘヴンは大きく口に出して言う。まるで黒星病という相手が目の前にいるかの様に。
「アタシはまだ死ねない。だって……だって……アサガオと約束したんだもん。二人の事を頼むって言われたんだもん。その約束を守らなきゃいけない。こんな所で―――死ねない」
ヘヴンは自分を奮い立たせる様に叫んだ。
しかし次の瞬間、膝からその場に崩れ落ち溢れる涙を拭うことなく呟いた。
「……ぅ……ぅう……。死にたくないよぉ……夜行ぉ……」
そんな嘆きの声が独り虚しく消えていった。
もうあの店員さんの事は忘れよう。そもそもあの店員さんが対処方法を知っているのかも定かではない。
なら次の場所に行き誰でもいいから聞くしかない。それが例え親切な人じゃなくてもだ。自分が傷つくよりも大切なものがある。それを最優先事項とする。
程なくして電車は目的の場所へと到着した。駅からでて辺りを見渡すがそれらしき建物はなかった。当てずっぽうで探すには時間が惜しい。誰かに聞くしかない。その辺を歩いている人は駄目だ。
となれば仕事で親切にする事が含まれている人。僕はコンビニに足を踏み入れた。迷うことなくレジに行き紙を見せ場所を聞き出す。最初は紙を出した事により不審な目で見られたが親切に教えてくれた。ここから歩いて十五分ぐらいの場所にあるらしい。
僕は店を出て走り出した。
もう九月の終わりとはいえ、まだまだ暑い。直ぐに息が上がり汗が吹き出る。それでも止まらない。横腹が痛くなり足が震えだしても決して止まらなかった。
そして角を曲がると前方にそれらしき建物が見えてきた。
あれだ。
目的地は見えた。僕はいっそう走るスピードをあげた。
まさかここまで臨時休業なんてオチはないだろうと思いつつも祈らずにはいられなかった。
そして祈りは通じた。営業している。僕は安堵のため息をつき店内に入る。まずは場所の特定だ。それから近くの店員さんに聞こう。
ここの園芸コーナーはそれほど広くはない。探し出すのも容易いだろう。
程なくしてその場所は見つかる。次に店員さんだ。
薔薇に詳しそうな人を勘で見つけださねば。そう思い店内をウロウロしていると他の人にぶつかってしまった。僕は平謝りをする。すると声が聞こえた。
「あれ? 君はこないだの」
その言葉を聞き視線をあげると、そこにいたのはあの桜井さんだった。
僕は最初ただの他人の空似かと思ったが、それなら『こないだの』とか言うはずがない。つまりは本物だ。
「あぁ。ウチが臨時休業だからここまで来たの? ごめんなさいね」
苦笑いを浮かべた。このチャンスを逃しては駄目だと僕の頭は瞬時にはじき出して、自分の意思とは無関係に勝手に手が動いた。急いで文字を書く。
『聞きたい事があるんです』
まずそう書いた紙を見せる。
「ん?」
『僕は薔薇を育てているんですが葉っぱに黒い斑点が出来てそれが治らないんです。どうしたらいいですか』
「黒い反転?」
桜井さんはそう呟き腕を組み記憶を探る。
「ふむ。それは黒星病かな」
さすがだ。これだけの情報で病名が分かるなんて、これは期待できる。
「それでこの前ウチに薬剤を買いに来てたのか。あれは使った?」
僕は即座に頷いた。
「う~ん」
右手を顎にあてて考える。
「あっ」
『?』
何かを思い出した様だ。
「その黒星病にかかった葉っぱはとった?」
それを聞いた僕は首を横に振る。
「あれは一度葉っぱに感染すると治らないから取らないとダメだよ。そして新しい葉っぱが感染しない様にまた違う予防薬剤をまくのさ」
僕は驚愕した。葉っぱをちぎる? そんな事をして大丈夫なのだろうか。
「感染した葉っぱは、もうついていても意味がない。ただ余分な栄養を吸収してしまう。それから既に落ちている葉っぱがあるならそれも捨てた方がいい。後は徹底的こだわるのなら土も変えてその中にカリ肥料を多めに入れてあげると良い。ん? そう言えば―――」
桜井さんは何か重要な事を思い出したみたいだった。
「たしか君がこないだ買ったのは予防薬剤だ。黒星病の発生後の対処薬剤とは別物だね」
それを聞いた僕は固まった。治らないはずだ。あれは予防するものであって治す薬剤ではないんだから。
そんな僕を見て桜井さんは薬剤の置いてある場所に行き、一本手に取り僕に手渡した。
「はい。これがいいよ」
僕はそれを受け取り深々と礼をした。桜井さんは笑顔で手を振った。そしてこっそりと言った。
「ウチの店の人には僕がここにいたって内緒にしてね。バレたら左遷だ」
今度は苦笑いだ。もちろんそれは冗談なのだろうけど、どことなく本気で心配している風だった。そして別れ際。
「なるべくウチで買ってね」
そう笑顔で桜井さんは言った。
僕はそれに満面の笑みで頷いた。やはりこの人に頼って良かった。偶然ではあったけどこんな所で出会えて本当に良かったと思いつつ、僕はその場を後にした。