ヘヴン、真実を語る
家に帰るとまたもやヘヴンの出迎えがなかった。
もしかしてそんなに―――。
不安を募らせて階段を一段一段踏みしめる。自分の部屋に入ると窓際に立つヘヴンが目に入った。
「おかえり」
いつもと変わらない表情と口調で言った。しかし唯一変わっていたものがあった。それは服装だ。
「あっ? これ? 気がついた? 長袖にしてみたのよ」
ヘヴンはいつもワンピース姿だったが腕を覆い隠すかの様に長袖のワンピースになっていた。そして猫の手袋もはめている。
「似合う?」
僕は頷く。
「えへへ。ありがと」
少し恥らいながらも笑顔で返してきた。そして僕は買って来た物をヘヴンに手渡した。
「あっ。ありがとう」
ヘヴンは礼だけを言ってそれを受け取った。マジマジと説明文を読んでいる。
僕はそんなヘヴンをなるべく見ないように視線をそらして自分の机と向かった。意識だけをヘヴンの方へと向ける。しかしヘヴンはそれを使わずに棚に置いたのだった。使っているところを見られたくないという事か。それからいつもと変わらない楽しいやり取りが始まった。
そして夜も更け、一番短い針がてっぺんを回った後。
音がする。何かを吹きかける音が。それは間違いなく僕が今日買ってきた薬剤だった。僕はそれにも気づかないフリをして狸寝入りをした。
薬剤を吹きかける音はため息と共に聞こえなくなった。
「ふぅ……これで……」
それからは何も聞こえず静かすぎるほどの夜が続いた。
それから何事もなく二日が過ぎた。ヘヴンは相変わらずだったが、僕はそれに関して何も聞かなかった。
そしてヘヴンもそれについて何も言わなかった。
しかしその日の朝。
僕が目を覚ますとヘヴンの姿は見当たらなかった。まだ薔薇の本体の中で眠っているのだろうかと思い薔薇に視線をやる。その瞬間に頭が真っ白になった。
そこで僕が見たものは何とも言えない信じがたい光景だった。
それは黒く。鳥肌が立つようなものだった。薔薇全体に黒い斑点の様なものができているのだ。
なんだ……これ……。僕は何が何だか分らずにいた。
すると薔薇からヘヴンが出てきた。
「見つかっちゃったか……」
ヘヴンは悲しそうな顔をしている。僕は急いでホワイトボードにペンを走らせた。
『これは何? どう言う事?』
ヘヴンは一瞬何かを迷う様な素振りを見せたが、やがて諦め全てを説明した。
「アタシね……病気なんだ」
その言葉に僕は目を見開く。
「これは黒星病って言って薔薇なら必ずかかると言ってもいい病気なんだって」
おそらく自分で調べたのだろう。ヘヴンは続ける。
「葉っぱに黒い斑点が出来て、その後に葉っぱが黄色くなって落ちちゃうの……」
言われて薔薇の葉を見れば既に黄色くなっていた。
「原因としては土の中に住む黒星病の菌が水とかで跳ね返って葉っぱに付くのが始まりらしい」
そう言ってヘヴンはずっとしていた手袋をとった。
そこにはヘヴンの白い手に浮かび上がる黒い斑点があった。
「いやになっちゃうよね……。なるべく夜行に知られたくなかったなぁ……。こんな姿見られたくなかったし、知れば夜行は絶対に心配する。そんな心配させたくなかったけど……もう限界みたいね……」
限界? 何が限界なんだ? 隠す事? それとも……。
「だから夜行にあの薬を栄養剤とか言って買って来てもらったんだけど……中々良くならなくてさ……。アタシ自身も最近では調子がかなり悪いのよね」
そう言うとヘヴンはその場に座り込んでしまった。
僕が知りたいのはただ一つだけの事。でもその一つが怖くて聞けない。聞きたいけど聞けない。それでも今の状況が嫌で、もう逃げ出さないと百鬼と約束もしたし僕はそれを書いてヘヴンに見せた。
それを見たヘヴンの答えは―――。
「……わからない」
否定して欲しかった。けれども肯定はされなかった。「でも……」とヘヴンが続けて口を開く。
「でも……このまま治らないでいくと……その通りになると思う」
それを聞いた僕は全身の力が抜け、ヘヴンと同じ様にその場に座り込んだ。
ヘヴンの答えは、つまりこのまま治らなければ枯れるという事。裏返せば死ぬという事。血が波の様に引いていくのが分かる。
死ぬ? ヘヴンが? あの明るく元気なヘヴンが? 死ぬ? いなくなってしまう?
僕の頭の中はそれだけでいっぱいになっていった。そして自分を罵った。
なぜもっと早く気がつかなった? いつから薔薇本体を見なくなった? なぜあの時に無理にでもヘヴンに聞かなかった? 逃げるのは止めた? 笑わせる。逃げてばかりじゃないか。
そんな事を思っているとヘヴンが言った。
「きっと夜行は今、自分を攻めているんだろうけど、それは間違っているよ」
その言葉に僕はヘヴンの顔を見た。辛そうな顔だった。無理に笑顔を作っていると分かるほどに。
「アタシが最初から夜行を頼れば良かった……。きっと夜行はアタシが病気かもってわかったら全力で心配するのが目に見えてた。だから言えなかったけど……それに気がついてたんでしょ?」
そう。僕は気がついていた。そして自分に心配させたくないと隠しているヘヴンの気持ちに。だから僕はその気持ちを汲み取って気づかないフリをした。しかしそれが今の惨事を招いているのは明確だった。
コトの発端は僕だ。
僕が風邪を引いて治った時にあんな事を言わなければヘヴンは素直に自分を頼ってくれたかもしれない。そんな事を言った自分が許せなかった。あれは確かに本心だがそのせいでヘヴンにいらぬ気を使わせてしまったのだ。
そして全てが限界ギリギリの所で明らかになった。まさしく最悪の状況だ。
こんな時……こんな時、冷静な百鬼ならどうするだろうか? でも、いつまでも頼ってばかりじゃダメなんだ。自分で答えを見つけて前に進まないと成長しない。
僕は百鬼になった気持ちで頭を整理した。
落ち着け。まだ本当にヘヴンが死ぬと決まった訳ではない。まず何からどうすればいいのかを考える。今できる最初の方法。それは―――。
僕は急いでホワイトボードに書いた。
『お互いに非はあると思う。でも今それを言っていたらキリがないし時間もない。僕なら後で何百回も謝る。だからその事に関しては病気が治ってからゆっくりとお茶しながらでも話そう』
最後の言葉は少し和ませる為。コトは一刻を争うのだ。
「うん。賛成。じゃぁ……頼ってもいいかな?」
『まかせて』
僕は力強く唇を動かした。
そして次の行動を決める。
お互いのしがらみは後回しだ。最優先事項は病気を一秒でも早く治す事。しかしどうすれば治るのかが分からなかった。
ヘヴンは既にネットで薬剤を調べて使っている。にもかかわらず症状は治っていない。となれば何かを見落としているはずだ。と考えるの自然だ。が、それが何なのかが分からない。
こんな時に植物の医者がいてくれればと思った。その瞬間に一人の人物が頭に浮かんだ。
それはあの園芸コーナーで親切にしてくれた店員さんだった。
あの人なら、あの人なら何か対処方法を知っているのかもしれないと思った。そう思ったらいてもたってもいられなくなった。
ヘヴンをベッドに寝かして僕は準備をする。そして急いで家を出る。自然と走っていた。それは最初ゆっくりと走っていたのに、いつの間にか全力に近い走りをしていた。それだけ気持ちが急いでいるのだろう。
信号で止まり息を整える。あと少しあと少しで目的地に到着する。
気持も落ち着かせて改めて頭の中を整理する。
まずはあの爽やかで親切だった店員さんを見つけること。そして薔薇の病状について説明をして、それに見合った薬剤やら対処方を聞くこと。僕はあの店員さんがいてくれと祈りながら再び地面を蹴った。
そして目的地に到着。
ホームセンターの前を通り過ぎて、隣の園芸コーナーに向かう。その場に着くとありえない看板が目に飛び込んできた。
全面改装のため臨時休業。
僕は最初その文字の意味が分からなかった。立ち止まり息を整え、ようやく酸素不足の頭に酸素がいきわたる事でその意味を理解した。
そんな……。
どうしよう? どうすればいい?
必死に頭を巡らせる。園芸コーナーが臨時休業だからと言って、あの店員さんも休みだとは限らない。この園芸コーナーは、あくまでホームセンターの一部なのだ。なら、そのホームセンターの中で働いていても不思議はない。
僕はそう判断をし、ホームセンターの中に足を踏み入れる。中はとても広い。人の数も多い。この中から一人の人物を見つけ出すのは至難の業だろう。それでもそれをやらなきゃならない。その為に僕は今ここにいるんだと自分に言い聞かせて人ごみの中にその身を投げた。
まずはレジからだ。僕はレジが並ぶその場所に視線を向ける。しかしそこには女性の店員さんしかいなかった。まさか女装してレジ打ちをしているというオチはないだろうと思いその場を後にした。
それから店内をくまなく探し回った。端から端まで何度も何度も。それでもあの店員さんは見つからなかった。いつまでもこんな事をしていても効率が悪い。誰か他の人にあの店員さんの事を聞くしかない。と思った瞬間にある事に気がついた。
名前が分からない。
しまった、と僕は自分を責めた。あの時に名前ぐらい確認しておけば良かったと思っても、もう遅い。どうするべきか。僕は頭を悩ませる。このまま帰るよりは何かをした方が良い。ダメもとで特徴を伝えて聞いてみる他ない。
僕はポケットに入れていたメモ帳を取り出してペンを走らせる。そしてなるべく人が良さそうな男の人を選んで、そのメモを見せた。
『すいません。園芸コーナーにいた爽やかな店員さんはいますか?』
果たして通じるのだろうか。通じてくれと祈っていると。
「あぁ。桜井さんのことかな? あの人はたしか今日休みだよ」
驚きが二つ。
まず通じた事。あの店員さんは社内でも有名な爽やかな人らしい。そしてその桜井さんが今日は休みな事。良い事と悪い事が同時に一つずつ起きた。
僕は一礼をしてその場を後にした。名前が分かってもいないのなら意味がない。それにここでは物が買えない。ならここにいても仕方がない。違う園芸コーナーがある場所に行くしかない。
しかし僕の住んでいる市ではここ以外には園芸コーナーはないはずだ。
古い記憶を呼び覚ます。たしか隣の市にあったはず。場所はおぼろげだが迷っている暇はないし行くしかない。
僕は携帯をもっていない。こんな時に携帯があれば場所の調べが出来て便利だなと思った。やっぱり携帯を買おう。この騒動が落ち着いたら買いに行こうと心の片隅に誓った。
隣の市まで行くには電車を使う。急いで近くの駅まで行き切符を買う。ホームに下りて今か今かと電車を待つ。そして直ぐに電車がホームに入って来た。僕はそれに飛び乗った。そしてドアが締まり電車は動き出す。
ガタンゴトンと揺れて電車は確実に前へと動き出した。