ヘヴン、頼みごとをする
病院に行ったからといってすぐに治る訳ではない。その事を翌日ヘヴンに話すと「回復魔法的なもの身につけておけばいいのに」と言っていた。それはかなり助かるが、どうにも無理な話だ。
それでも昨日よりは体調がいい気がする。やっぱり注射が効いたのかな。しかしまだ油断は出来ない。
治ったーもう余裕だぜー、と調子をこいた次の日に再度、風邪を引いたことがある。ぶり返したのだ。僕はその時の事を一生忘れないだろう。
なぜなら、その日は待ちに待った小説の発売日だったのだ。当時はまだ物語を必死に追いかけていたし、それに命を賭けていたと言っても過言ではなかった。なのに油断し結果、風邪をぶり返した。小説は親が買って来てくれたが、頭が痛くて読める雰囲気ではなかった。
その時は親を恨んだ。
なぜかと言うと読めないのに、それが目の前にあるという状況。
まさしく檻の中に餌を入れられて、それを食いたいが食ったら罠にハマると自問自答している獣に近かった。罠だとは分かっているが諦められない。そんな感じだった。
結局その時は誘惑に打ち勝つことができたけど、もうあんな経験はしたくない。
にもかかわらず毎年、一年に二回は風邪を引くというのはどうゆうことなんだろうね。気をつけてはいるがどうにもならない。
回復魔法さえあればと確かに思うけどそんなものは存在しないし。
しかしヘヴンは妖精なんだから、そういう類のものが使えても何ら不思議はないと思い直す。いや薔薇にそんな酵素はないか。なら薬草やアロエの妖精がもし存在したなら? それはそれで面白いかもしれない。
そんな妄想をベッドで横になりながらしているとヘヴンがベッドに腰をおろした。
「何ニヤついてるの?」
その言葉に僕はニヤついてないとアピールしながら首を横に振った。
「今ものすごくニヤついてたよ? それだけニヤつければもう安心かな?」
安心する度合いがニヤつき具合など聞いたことがないんだけど、そこは同意し首を縦にふった。
「早く良くなってね」
言いヘヴンは猫の手袋をはめた左手でそっと僕の左頬を撫でてきた。僕はそれを感じつつ目を閉じた。手袋ごしだがたしかにヘヴンの体温が伝わってくる。直接触れることは出来ないが、それでも満足だと最近では思える様になってきた。
人はないものをねだり、もっともっとと歯止めが効かなくなっていく。
僕はそうなりたくはない。些細な事でも幸せを感じていたい。それこそ会話も出来ない、触れる事もできない状態であってもだ。
そばにいて生きていると感じられる事に感謝をしつつ、また深い眠りに落ちていく。
そして翌日。
僕は目を覚ますと身体を起こしてグっと伸びをした。
身体はまったく痛くない。頭もスッキリとしている。治った。それでももう一日、学校は休むこととなった。
久しぶりの清々しい朝だった。カーテンを開けると朝日が差し込んできてヘヴンの本体【ブルーヘブン】に太陽の光があたる。
それで目を覚ましたのかヘヴンが薔薇から出てきた。
「ぁあ~夜行おはよう」
まだ目は開いておらずかなり眠そうだ。きっと付きっきりで看病をしてくれたのだろう。
僕はホワイトボードに文字を書く。
『おはよう。ありがとう』
その文字を見てヘヴンは満足そうに頷いた。
『もしヘヴンが風邪をひいたら次は僕が看病してあげるね』
「アタシは人間のウイルスなんかに負けませんー」
そう言ってベっと舌を出してきた。
僕はそれもその通りだと思い苦笑いをした。
しかし人間のウイルスは感染しなくても植物のウイルスは? それは人間のウイルスよりもよほどタチの悪いものだろう。一抹の不安を抱きながらも、それはすぐに頭の中から消えていった。
ある日、学校から帰ると違和感があった。
ヘヴンが下りて来ない。ということは寝ているのだろうと思い、足音をさせない様にゆっくりと自分の部屋に向かった。そしてそっとドアを開けるとヘヴンは寝ておらず、窓際に立ち尽くしていた。自分の本体である薔薇を見ているようだ。
それを見て普通にドアをバタンと締めた瞬間、ヘヴンが勢い良くバッと振り返った。その慌てように僕は首をかしげる。
「お……おかえり」
僕はペンを走らせる。
『どうしたの?』
「何が?」
『いや、なんか顔が怖いよ?』
それの文字を見たヘヴンは頬を膨らませた。
「ちょっと夜行。女の子に失礼よ。それとも何? いつものアタシが可愛いって言いたいの?」
そこまで言えるのなら、きっとさっきのは気のせいだろうと勝手に答えを出した。
『ごめん。何でもないならいいよ』
「失礼しちゃうわ」
そこにはいつものヘヴンがいた。
『僕お風呂入ってくるから』
「あっ。ねぇちょっとパソコン借りてもいい?」
僕は頷き部屋を出た。
ヘヴンがそんな事を言い出すのは珍しい。一応使い方は前に教えている。僕が学校に行っている間も暇な時はゲームとかをしているみたいだし、ヘヴンがパソコンを使う事はまったく問題ない。
一人部屋に残ったヘヴンは静かにパソコンを起動させた。その表情は真剣そのものだった。そしてカタカタとキーボードを打ち始めたのだった。
翌日、起きると声がした。
「おはよう夜行」
ヘヴンだ。僕は目をこすりながら視線を向けた。ここでふと。
僕はヘヴンの手を指差した。なぜかヘヴンは両手に猫の手袋をはめているのだ。なぜ今はめているのだろう? それが僕には理解できなかった。
「ん? ああこれ? なんとなくね。可愛いでしょ?」
言って手首を曲げて猫のポーズをした。それに僕は頷く。可愛い。確かに可愛いすぎるほど可愛いかった。それでも何か違和感がある気がしたが、それはただの杞憂だと思った。いつもの元気なヘヴンだ。何もいつもと変わらないヘヴンだ。
そして僕が学校に行く直前にヘヴンが一枚の紙を渡してきた。
「ちょっとお願いがあって。これを買ってきてくれないかな?」
そこにはこう書かれていた。
オーソサイド。TPN水和剤。チオファネートメチル水和剤。トリホリン乳剤。ベノミル水和剤。のどれか一つ。
聞いたこともないものばかりだった。僕は首をかしげてヘヴンを見る。
「……栄養剤……みたいなものよ。ほら、これから寒くなるし栄養とっておかないと」
ヘヴンはことさら明るく言った。それに僕は納得した。もう九月も終わろうとしている。早めの対策が必要だ。僕はヘヴンを見て頷いた。そして唇だけを動かす。
『まかせて』
「よろしくね」
『いってきます』
「はい。いってらっしゃい」
ヘヴンは笑顔で送り出した。玄関のドアが閉まるとヘヴンの表情は冷たいそれに変わっていた。ゆっくりと部屋へと戻る。
そして手袋を外す。そこには―――。
「ふぅ。きっついなぁ。何とか隠せたかな……」
ヘヴンはため息をつき忌々しい目付きで自分の本体の薔薇【ブルーヘブン】を睨んだのだった。