名前
それはまるで毎日の日課の様に始まった。
最初は言葉から始まる。
「――っ―――――…っ――――――――っ」
大丈夫。まだ心は平常心を保っていられる。もう一人の自分ばかりを頼っていては駄目だ。
夜行は自分に言い聞かせる。
それはやがて言葉から行動へと変化する。
ドンと胸を突いて来た。夜行はたまらず後方へと少し下がった。それを一歩で間合いを詰められる。再び手が胸元に伸びる。
それを夜行は右手で弾いた。
まさか抵抗されるなどとは思ってもみなかったのだろう。相手の表情が変わった。夜行はそれを見てびくりと身体をすくませた。
再び相手の手が胸元に伸び、今度は胸ぐらを確実に掴まれた。そして引き寄せられる。
その子供はそのまま右腕を後ろに引いた。その瞬間、夜行はギュッと目を瞑った。と同時に「限界だ」と心の中で、もう一人の自分の声が聞こえた。
振りかぶられた右腕は一直線に夜行の左頬へと向かっていく。
そしてバシっと音がした。その右拳を放った子供は驚いた。自分の拳は相手の顔に当たったと思ったがそうはいかなかった。もう一人の夜行がその拳を左手で受け止めたのだ。力と力が重なり合い、お互いの腕がブルブルと震えだす。
もう一人の夜行は心の内で叫んだ。
「夜行、目を閉じるな。前を見ろ。逃げるな。乗り越えるんだ。お前はもう独りじゃない」
暗い部屋で上を見上げて夜行も叫ぶ。
「そうだ。もう一人の僕の言う通りだ。僕は独りじゃない。もう逃げない。君がいれば鬼に金棒だ。負けやしない」
そして膠着状態を破る一撃を放つ。
相手の両手は塞がっている。もう一人の夜行は右腕を少し後ろに引き、勢い良く相手の顔面に狙いを定めた。もう止められない。
そして拳が当たる瞬間に夜行と入れかわる。拳が相手の顔面に直撃した瞬間は二人一緒に殴ったのだ。意識が混ざり合いどちらの意識も表に出ていた。
そして子供は夜行を掴んでいた手を話し後ろへと尻もちをついた。顔は何が起こったのか分からないという表情をしているが、それもやがて殴られたと頭が認識し声が、涙が溢れてきて泣き出した。
そんな相手と殴った自分の拳を交互に見る。
殴った。初めて人を殴った。その感覚はこれから先、重要な感覚になるだろうと幼いながらに思った。
そしてふと……。
殴ったはいいけどこれからどうすればいいんだろう。
殴るまでは作戦をたてたが、その後の事は何も決めていなかったのだ。すると声がした。
「逃げろ」
だよねー。と夜行は納得し、その場からそそくさと逃げ出したのだった。
それから大人に見つかって怒られると覚悟はしていたが何も起こらなかった。
あの子供はよほどショックだったのだろか、何も喋らないまま泣きじゃくった。何が起きて何が原因で自分が泣いているのかなど忘れてしまっている様だった。
その場に誰も居なかった事から大人たちは転んだのだろうと考えてコトを大きくする事はなかった。そこは夜行にとって幸いだった。
泣き止んでその後、夜行と視線が合うと向こうから視線をそらした。よほど堪えているのだろう。
つまりこの勝負は―――。
「俺たちの勝ちだな」
もう一人の夜行は言った。
「これでもう安心だ。あいつは自分の負けを認めたんだ。もうチョッカイを出してくる事はないだろう」
腕を組み胡座をかき満足気だ。それも当然と言えば当然だ。全ては上手くいったのだから。
「本当に大丈夫かな……」
それでも夜行は不安気だった。
あの逃げ出した後はしばらく手と足の震えが消えなかったのだ。できるならもうあんな経験はしたくないと願うばかりだ。
「安心しろ。今度来たら俺がボコボコにしてやるから」
そんな酷い事を真顔で言う。
「しなくていいしなくていい」
それを慌てて止める。そしてそのまま続ける。
「でも君がいてくれて本当に良かったよ。まさしく百人力、鬼に金棒だった」
「そう言ってもらえるとありがたいな」
ここでふと夜行はある事が頭に浮かんだ。
「あっ」
「何だ?」
突然何か閃いたかの様な声に疑問の声を上げる。
「君……君は名前がないんだよね?」
「そうだが?」
「僕がつけてもいいかな?」
「もちろん」
「いつまでも君だけじゃ悪いもんね」
そう言って夜行はもう一人の自分を見据えて告げた。
「君の名前は―――百鬼だ」
「百鬼?」
「そう百鬼。君がいてくれれば百人力で鬼に金棒。その二つの言葉の頭文字をとって百鬼。ダメかな?」
そんな不安気な夜行に即答で答えた。
「ダメな訳ないだろう。その名前、ありがたく頂戴する。俺は今日この瞬間から百鬼と名乗る」
それを聞いた夜行は満面の笑みで「良かった」と声を漏らした。
「じゃあ百鬼。これからもよろしくね」
そう言い夜行は百鬼の前に手を差し出した。
「あぁ。こちらこそよろしく」
それを百鬼は力いっぱい握り返したのだった。
『これが僕と百鬼の出会いだよ』
遠い記憶から意識を現実に戻す。
「なんか出会うべくして出会ったって感じだね」
ヘヴンはこれまでのいきさつを聞きそう言った。それに頷く。
「アタシと夜行みたいに」
その言葉はニヤつきながらだった。しっかりと僕の顔を見据えて言ってくる。おおかた僕がどんな反応をするのか見たいのだろう。
しかし、いつもやられてばかりではない。
僕は顔が赤くなるのを必死で制御し、ヘヴンの言葉に頷いた。
それを見たヘヴンは目を丸くした。まさか肯定されるとは思ってもみなかったのだろう。顔を赤くして俯くのがいつものお決まりだったが今日は一矢報いた。
してやったり。
それを見て僕は笑みを浮かべる。この勝負は僕の勝ちだ。と心の中でガッツポーズを決めた直後にヘヴンが言った。なんだか前にも似たようなことがあった気がする。そのことを思いだしたときはすでに遅かった。
「じゃあ、その嬉しさを身体を使って表現してみて?」
顔がニヤついている。まさかのここで無茶ぶり。
身体を使って表現など出来るはずがない。それでも僕の頭は必死で考えを巡らせている。「ふふふ。嘘よ」
そう言われて思考を止めた。
やられた。
つまりは必死で考えている僕の顔を見たかっただけなのだ。それはヘヴンの事を想って頭を悩ませていると言う事になる。
自分の事を必死で考えてくれる顔が見れたから満足と言う事なのだ。
さっきまでは僕が勝っていたのに今は負けている。なんだか何をやってもヘヴンに勝てる気がしないなとため息をついた。
それを見たヘヴンは「その通り」と、まるで僕の心の中を読んだかの様な言葉を口にしたのだった。
そんなじゃれ合いも終わり、僕は再びパソコンへ向きをかえた。
考えてみればあれから十年の時が経っている。その間、何も変わらず百鬼は自分の事を支えてくれた。何か恩返しがしたいと僕は思った。
僕に何ができるのだろうか?
おそらく恩返しがしたいんだと百鬼に言えば「その気持ちだけで十分だ」と言うのは目に見えている。
どこかに行く? そこで美味しいものでも食べる? たくさん遊ぶ?
考えてもどれもピンと来ない。
そもそもアサガオが居なくなった今では全てが百鬼の心に響くとは到底思えなかった。
なら僕に出来る事は一つしかない。
それは物語を紡ぐ事。
きっとそれが僕に出来る最高の恩返しになるだろう。僕はそう確信してカタカタとキーボードを打ち始めた。