正体
それから幾度となく同じ現象が現れた。
決まって言葉の暴力を受ける直前に、強制的にあの夢の世界へと落ちていった。それを何回も繰り返せば明らかにおかしいのは子供でもわかった。
そしてあるとき。
またその瞬間が訪れる。自分を囲む嫌な奴。今からまた始まる。そして自分はあの世界へ―――。
しかしこの時はいつもとは違った。
夜行は時計を見たのだ。その瞬間にあの世界へいった。
ただ寝ているだけ? 違う。目を覚ますといつも何事もなかったかの様に本を読んでいる自分がいる。まるで全てが終わった後みたいだ。
そして現実世界へと戻ると夜行は時計を見た。
その時間は三十分が過ぎていた。
そんな時間が経っているとは思ってもいなかった。あちらにいる感覚ではせいぜい五分ほどだ。それが実際には三十分も過ぎていた。
その間寝ていた? ありえない。仮に寝ていたとしても、あの暴言を吐く子供が起こさない訳がない。そしていきなり寝るという行為は気絶に等しい。そんな状況を目の当たりにしたなら絶対に大人を呼びに行くはずだ。しかしそのどれもが当てはまらない。
つまりは?
つまり自分の身体は起きていたことになる。しかし自分の意識はその場所にはない。それはどう言う事なのか。
夜行には思い当たる一つの節があった。それは幼稚園児が知るような事ではない。しかし夜行は色んな本を読んでいる。本とは知識の塊である。自分の知らない言葉が、世界がそこにはある。
ようやく一つの仮説にたどり着いた瞬間だった。
そしてその日の夜。
夜行は眠りにつき目を覚ますと、あの何もない真っ暗な部屋にいた。そこにいたのは顔を闇で覆われた少年。
「よう。どうした怖い顔して」
その少年はいつもと変わらい感じで話しかけてきた。
「ちょっと君に話しがあるんだ」
そんな言葉を少年に返す。
「なんだ?」
「うん。あのね、いつもありがとう。そしてごめん」
それを聞いた少年は驚いたことだろう。顔は見えないが驚きが伝わってくる。
「……何がだ?」
「君はいつも僕を守ってくれたんだね。それに気がつかなくてごめん。全部、僕が悪い。僕が弱虫のせいで君は……。君が誰なのか分かったよ」
そこで一度言葉を切った。
「……」
少年は何も言わずに夜行を見つめている。そして夜行は確信を告げる。
「……君は僕だ」
そう言った瞬間、少年の顔を覆っていた闇がとれた。そしてそこに見えるのは紛れもない自分の顔だった。
髪を上にかき上げ少し目つきが鋭い自分の顔。いや違う。この少年は自分であって自分ではない存在。一人の人間なのだと夜行は思い直した。
「そうだ。俺はお前だ」
聞こえた。今度はしっかりと聞こえた。
少年が言っていた意味が分かった気がした。「お前自身が俺と言う存在を見つけない事には聞こえない」その言葉の通りだった。
「別に謝る必要はない」
「でも……」
夜行が言いかけた言葉に少年が割って入る。
「それが俺の生まれた理由。存在理由だから」
「存在理由……」
夜行は納得できないとばかりに呟いた。
「そうだ。お前を守ること。それが俺の生まれた理由。お前が苦しい辛い逃げ出したい嫌だと思う事を全て俺が引き受ける。だからお前は……」
今度は夜行が言葉をかぶせた。
「やめてよ」
叫び俯く。
「は?」
「やめて。そんな事はやめてって言ってるの」
「なぜ? 俺から生まれた理由を奪うのか?」
そう言われた夜行は必死になって頭をフル回転させた。そこまで言われてしまっては何も言い返せない。それほどの強い言葉だった。
しかし夜行は引き下がらなかった。
「……も……っと別の理由があるはずだ。君は苦しむ為に生まれて来たんじゃない。そんなの間違ってる」
「いいや。間違っちゃいない。俺はそれだけの為に生まれてきた」
それでも少年は貫く。自分の存在理由を、生まれた意味を。
「僕は……強くなる。君にも負けないぐらい。君だけに辛い思いは絶対にさせない」
強く言い放った。それは誓い、宣言だ。
「もしお前がそうでありたいと望むなら俺は素直に嬉しい。が、そこで俺の生まれた存在理由は意味をなさなくなってしまい俺は消えるだろう。お役御免と言ったところか」
「そんな……」
それを聞いた夜行は絶句した。消えて欲しくないのだ。自分の代わりに辛い目にあってきたもう一人の自分。このまま辛い思いだけを感じ消えていくのは酷だと夜行は思った。
「なぁに、お前が負い目を感じることはない。元々いなかった存在だ。こうして少しでもお前の役に立てて良かった」
その表情は儚く悲しげだった。
「そんな事はさせない」
「はい?」
「そんな事はさせない。消えさせない。絶対に。君はこれから楽しい事をいっぱい知るんだ。辛かった分、楽しい事をいっぱい経験するんだ。僕はまだ一人でなんて生きていけない。君がいないと生きていけない。君が必要だ。君が必要なんだ」
叫び息も切れ切れだった。最近、言葉を喋れる様になった夜行にとっては始めての経験だった。
自分の想いを言葉に乗せて相手にぶつける。簡単な様でとても難しい。相手にしっかりと伝わってるのだろうか。そんな事を思い少年を見た。その顔には呆れと嬉しさがこみ上げていた。
「全くお前と言う奴は……。俺の大切な主人格様は手がやけるな」
自嘲を浮かべて笑っている。
「だからお願いだ。力を貸してください」
夜行はもう一人の自分に深々と頭を下げた。それを見た少年は笑みを浮かべて答えた。
「もちろん」