きっかけの思い出
豪華な椅子の上に座り、長い間眼を閉じて身じろぎ一つしなかった青年は、何の前触れもなくまぶたを開けて黒い瞳を光らせた。
アルマである。
彼は辺りを見回し、ああだからか、とどこか得心が行った様子で呟いた。
こんなところで、閉塞したダンジョンの中で寝たからいつもは見ない夢を見たのだろう。とうの昔に捨てた、力がなかった頃の自分の夢。不甲斐ないがゆえに、腹の底から常に沸き上がるどうしようもない苛立ちを募らせていた記憶。
しかし、あの寂れた村から全てが始まったんだ。あそこでアルマは生まれ、成長し、夢を見つけ、そして自分には力が足りないことを自覚し、コサックダンスを覚えた。
自らの過去に思いを馳せ、感慨にふけっていると、そこでふと、彼は首を傾げた。どうしてあの夢を手にしたのだろう。どうしてこの野望を叶えたいと思ったのだろう。きっかけがどうしても思い出せない。
だけど始まりはよく覚えている。まだゴブリンすら殺せないぐらいに小さかった頃の話だ。暖かな陽が差す明くる日に、何の理由もなく気まぐれに森に入り、どれほどの時間が経ったのかはわからないが気がついた時には森の外にいて、既にその夢を小さな両手で大事に抱えていた。
森の中で何かがあったのは確かだ。
アルマはその何かを更に思い起こそうと、眼を強くつぶりしばし唸った。
――やはり完全には思い出せない。だが少しだけ、記憶のほんのひとかけらは取り戻せたみたいだ。暗色の髪をたずさえ、顔はもやがうっすらとかかっているようによく思い出せないが、耳などの身体的特徴から人間だということはわかる。
その人物の名前すらもわからないが、そんなことは些末事だ。
アルマは不意にダンジョンウインドウを開き、とあるアイテムを取り寄せた。アルマが視線を落とせばぼんやりとした光が彼の左手を包んでいた。暖かな光が消えた後に現れたのは、しわの目立つ古ぼけた小さな紙。それは彼が王国トプロンに借りている家に置いてあるものだ。
その紙の表面には、一目で子供が書いたのだろうとわかる下手くそな文字。しかし、拙いながらも一生懸命に書いたという情熱が読み取れた。
なつかしい。アルマが子供の頃に、己の中に生まれた決意を紙に込めたものだ。
彼は数え切れないほどに読み返した文章に再度視線を通し、静かに口許を歪めた。
その表情から覗ける感情は、怒りでもなく、歓喜でもなく、はたまた悲しみでもなかった。そこにあったのは、ひたすらに純粋な照れだ。
それは過去の自分の行動を振り返り、なんて愚かだったんだろうと恥じる行為。アルマもそれと同じように顔を羞恥に染めていた。
彼は照れを絶ち切るかのように、もう一度紙に眼をやった。そこにはやはり、何度みても大きさすら定まっていない不安定な文字。
『おれはぜったいに、ハーレムおうこくをつくる!』
「ふふっ......」
アルマは小さな笑い声をこぼした。馬鹿だ。子供の無い物ねだりでしかない。
「なんだよ、ハーレム王国って」
どうしてハーレム王国なんて求めたのだろう。一体森の中で出会った人間に何を吹き込まれたらこんな発想を持つのだろう。
「ああ......、ハーレム王国なんて自分本位な考えじゃなくて、世界平和を望むような、他人を思いやれる子供に産まれてたらな......」
もっと女の子にモテてたのかな、とアルマは内心で呟いた。ハーレムにしろ、結局は自分本位な思考をしていることにアルマは気付かない。だとしても人間である以上、その思考をとがめることは誰にもできないが。
いや、待てよ。冷静に考えてみれば、今自身が叶えようとしている野望も、最終的には世界平和につながるのではないか?
その可能性に思い至ったアルマは歓喜した。己に宿った大きな使命感にもだが、なにより異性から見れば魅力的に映ることを確信して。
アルマは胸を踊らせながら、その目的に近づくために必要なことを高速で脳内の『これから僕がやることリスト』にまとめる。それから手慣れた様子でダンジョンウインドウを呼び出した。
「よっしゃ、みなぎってきた! やっぱり世界に必要なのはハーレム王国なんてつまらないものじゃなくて――」
薄い青色に光る半透明の板の前で右手を踊らせ、目的の項目を探す。五秒も数えない内に外部転移の文字を見つけた。
「――生脚王国だよなっ!」
アルマは腹の底から吠えた後、薄く発光し続ける文字に右手の人差し指を力強く叩きつけた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
彼は見慣れた光景を視界に収める。初期型のクーラーボックス、一人用のベッド、小綺麗な部屋。言わずもがな、彼の自宅である。
まだ朝も早い。恐らく七時もまだ回っていないかもしれない。王国の人達にとってはそれなりにいい時間だが、時間にとらわれないアルマにとってはまだ寝てても構わない時間だろう。
だがダンジョンの中で決意を固めたぼかりなのだ。両手で頬を叩いて気合いを入れ、二度寝するよりも身体を鍛えることにした。
「――ふう」
それから、十分も腕立て伏せをした頃だろうか。彼は心地好い疲労を腕に感じながら、訓練を止めて唐突に立ち上がる。最初は順調にトレーニングを重ねていたのだが......。
「飽きた......!」
アルマは、そもそも訓練による筋力の上昇を計るより、ダンジョンの能力で筋力値をブーストし放題なことに気付いた。元々飽きっぽい上に自己正当化が大好きなアルマがこの事実に思い至れば、後はもう早かった。
すなわち、もうやんなくていいや、と。この結論にたどり着くのに時間はそうかからなかった。アルマは無駄な努力はしない主義なのだ。
軽く背中を伝う汗を、タオルでごしごしと拭き取った。少し湿ったハンディタオルを右手で振り回しながら、口を覆いもせず大きなあくびをして天井を見上げる。
――なにをしようかな。数少ない友人を遊びに誘おうかとしばし悩むが、今日はとてもだが遊びに行く気分にはなれなかった。
それに一時間ほど前に決心したばかりではなかったのか?
自分にできることをしようと。目的のために自分に必要なことをしようと。筋力トレーニングは結局意味をなさなかったし、それの代わりになるものはなんだろう。頭脳でも鍛えるか?
よし決めた。アルマは景気付けと言わんばかりに指を鳴らす。小気味良い音に満足しながら、誰に言うでもなく呟いた。
「――酒場でも行くか」
まだ朝だとか、昼飯も食べてないのにとか、そんなことは関係ない。アルマは今日一番に淀みない動きで外への扉を開け、酒場へと足を進めた。
それからしばらく道を歩いて、行き付けの酒場に到着した。いつもより少し時間がかかった気がする。
今日は人がやけに多かった。理由はわからないが、恐らくそれのせいだろう。こういうときに、酒場の近くの路地裏に転移できれば楽なんだがなあ。もっとも、人通りが少ないだろうとはいえ昼間。そんな無駄な危険はさらさら犯すつもりはないが。
そんな思考を意識の隅に追いやり、アルマは目の前のやや古びた扉を押し開ける。蝶番が錆びているのか、金属が擦れあう甲高い音を背に浴びた。
昼間だからか、中にはほとんど人が居なかった。
「やあマスター」
グラスをシワひとつない綺麗な布で磨いてた壮年の男性はアルマの姿を視界に捉えると、少しばかり苦笑しながら顔を上げる。
「アルマさん......、また朝から飲むんですか」
いいのいいのと、アルマは照れを隠すかのように右手をぱたぱたと振った。
「今日は暇だからね。それより、なんか今日人多くなかった?」
それを聞いたマスターは落ち着いた表情の中に、驚きや、呆れのような色を覗かせた。
「――アルマさん、聞いてないんですか?」
「ん、なにが? あ、それより焼き鳥ちょうだい」
アルマは疑問を顔に浮かべ、首を少し傾げる。しかし朝飯を食べてないことを思い出し、腹ごしらえを優先させるべく、マスターに注文をつけた。
マスターはそんな彼の姿に、歪みねえなと苦笑交じりに呟く。それから大型のクーラーボックスから鶏肉を取り出し、客の要望に応えるべく包丁を構えた。