充実した一日の終わり
それからしばらく会話をしながら街を散策していると、鐘の音が大きく鳴り響いた。
三回鳴ったことと、太陽の位置が真上にあることから考えて、正午を知らせる鐘に間違いはないだろう。
ミュウは少しばかり驚いた表情でアルマに視線を向けた。
「もうお昼になったんだね。ねえねえ、どこで食べる?」
「そうだな......。おっ、あそこにしようか」
アルマは辺りに眼を走らせたあと、普段あまり食べない種類の食事を提供する店を見つけた。今日は特にデートの計画を立ててはいないため、その時の気分次第で入る店も変わってくるのは当然のことだ。
この店に入るのは初めてだから、どんな味なのかはもちろん知らない。それに、入った店の料理が不味かったとしても彼女となら楽しむ自信はある。
そう結論付け、アルマはミュウの手を引いて店に入った。
食事を終えて店を出たあと、街の散策を再開した。アルマはミュウの手を握りながらおもむろに空を見上げた。雲ひとつない、快晴だ。それに湿気も少ない。最高の昼寝日和だと弛緩した表情で小さく呟いた。
それを耳にしたミュウは、頭半分ほど背の高いアルマの顔を下から覗きこみながら口元を綻ばせた。
「さっきのお店も中々当たりだったねえ」
そう、気まぐれに入った店が意外に美味く、いつもより多めに食べて満腹になったことも、アルマの思考を穏やかな風を浴びながらお茶をすする老人的なものに変えている要因でもあった。
「そうだな、今度もう一度行ってみようか」
アルマは食事前より若干膨れたお腹をなでながら彼女に答える。
ミュウはそれを見ていたずらっ子のような笑みを浮かべて、アルマのお腹を指でつまんだ。
「うわっ、なにすんの!」
「ん? 最近太ってきたんじゃない? このままだと、行く末はだるんだるんのお腹になるのは目に見えてるね!」
それを聞いて、アルマは焦ったようにお腹をまさぐった。するとそこには見かけによらず引き締まった腹筋。自身の身長も百七十センチと、絶対に太ってはないと思うんだけどな、と首をかしげるが、彼女が言うからにはきっとそうなんだろう。
「まじで? それはいやだな......。今度、トレーニングもかねてダンジョンでも行こうか」
「いいね、遠出でもする?」
ミュウの同調の言葉に、アルマは自分達の実力で安全に攻略できるところがないか、自らの記憶の中から探し始めた。中堅のダンジョンは国からの規制が厳しいから、国に申請してから探検するのに時間がかかるし、二人だけでということも考えると高位のダンジョンはそもそも論外。
そうなると確か、国から規制がかかっていない新発見のダンジョンがいくつかあったはずだ。ではどこにしようかと、一人でうんうんと唸りながら考えていると、ミュウが冗談交じりの声でアルマに進言した。
「それじゃあ『原初のダンジョン』にでも行っちゃう?」
それを聞いたアルマは軽く吹き出したあと、表情を苦笑いのそれに変えた。
「なに言っちゃってるんですか......。自殺志願者ですか、あなたは」
『原初のダンジョン』といえば、この国どころかこの大陸で最も有名なダンジョンである。通称ではなく、そのダンジョンの概要を聞いた方がわかりやすいだろう。
初代魔王のダンジョン。それが『原初のダンジョン』の正体である。
そこは危険度もさることながら、その知名度を大陸一たらしめているのは、なんといっても『異常性』だ。
そのダンジョンにまつわる噂、『都市伝説』はどう考えたっておかしなものばかりなのだ。例えばそのダンジョンに挑んで帰ってきた者はほとんどいないとか、手に入れれば一生遊んで暮らせるだけの金を得ることができる秘宝がごろごろ落ちているだとか、初代魔王は勇者と同じ立場である異世界人だとか、初代魔王は実はロリコンであるとか。
中でも『異常性』が際立っている噂がある。運良く生きて帰ってこれた者たちは揃ってこう言うそうなのだ。なんでも――――
「『一匹のゴブリンに仲間たちを皆殺しにされた――』だっけ......?」
刹那、周囲の喧騒が遠く聞こえた。アルマの頭は、長い距離を走り終えた時のように酸素不足を訴え、くらくらした。視界も少し狭まっている。自分の胸に手を当てれば、激しく暴れる鼓動を感じた。
明らかに体調に異常をきたしている。
そのあまりにも荒唐無稽すぎる『都市伝説』を口にしたミュウは、アルマの大好きないつも通りの可愛らしい顔で、見ていると優しい気持ちになれるいつも通りの笑顔で、耳元でいつまでも囁いてほしいと思えるいつも通りの柔らかい声で、ケラケラと笑っていた。
その笑い声は、周囲の音に意識を向けられないくらいにに余裕をなくしたアルマの耳にも届き、無音をバックコーラスとしてはっきり聞こえた。こっちの顔を覗き見ているミュウの笑顔が、どこかいつもと違う偽物のようにさえ感じる。声も嘲りが含まれているように思える。まるでいつものミュウじゃないみたいだ。
いや、わかっている。ミュウは至って普通だ。いつも通りじゃないのは、アルマの方だ。
そして混乱する思考の中、アルマはあえて考えないようにしていた噂を思い起こす。それはおかしな噂の中で、最も信憑性が高いもの。あれは確か、ダンジョンについて研究している学者が発表した論文が元になった噂だったはずだ。
その内容は、どうやら『ダンジョンの主である初代魔王は生きている』ということだ。
根拠となったのは、世間一般に公表され、認知されているダンジョンのルール。ダンジョン内の魔物たちは外に出ることは絶対にできないが、そこの主が死んだ場合その法則は撤回され、外に出ることが可能になるというものだ。
そして、本来外に生息している魔物よりも、ダンジョンの魔物の方が強い傾向にある。それなのに初代魔王のダンジョンから化け物どもが溢れでてこないのはおかしいではないか、ということらしい。
しかしその論文はダンジョンにおける別の法則、主が死んでもそこの核が破壊されない限りはダンジョンは存在し続けるというものと、初代魔王のダンジョンが発生してから数百年以上も経過していることによる寿命の問題と合わせて根本から否定されたが。
だがアルマや、それと同じ能力を持った者たちは知っている。寿命という問題をあやふやにしてしまう、ダンジョンウインドウに表示されている『寿命延長』というコマンドを――。
しかし寿命を延長する場合、十年程度ならともかくそれ以上となると、ダンジョンのシステム上莫大なポイントがかかってしまうのだ。それはいくら初代魔王といえど気安く消費はできないはずだ。
「――君」
となると、膨大な量のポイントを集めてアルマが手にいれようとしている力と同等の――。
「――マ君」
いや、下手したらそれ以上の――――。
「アルマ君!」
「うぎゃぁぁあああ!!」
悲鳴をあげたアルマがすぐさま声のした方に眼を向けると、そこには全身をのけぞらせ、頬をひくひくとさせているミュウがいた。
「な、なんだ......。ミュウか、驚かせやがって......」
「い、いや......どっちかって言ったら私の方がびっくりしたかなあ、なんて......」
ごもっともだ、アルマは内心一人ごちた。
「で、どうかしたの?」
「どうかしたのって......。ここ、私の家の前だよ......」
八割が呆れ成分で構成された声色を出すミュウ。
アルマはそこでようやく意識を周りに向け、知らず知らずの内に思考の海に溺れていたのかと驚いた。
いつの間にかよく知った場所に来ていたのはもちろん、それよりもあんなに明るかったのに辺りが薄暗くなっていたことにだ。
――いや、今はそんなことよりももっと大事なことがある。
ミュウとのお別れのあいさつだ。それも恋人限定の。
「――ミュウ」
「ん、ど、どしたの」
いつもより真剣な顔をしたアルマの視線を受け止め、ミュウは少しばかりたじろぐ。その頬も心なしか赤く染まっていた。
「さよならのあいさつに、ね?」
「う、うん」
それからアルマはミュウの耳元に顔を寄せ、甘い声で囁いた。
「――脚、なめさせて」
――ください。――
アルマが最後まで言うことは叶わなかった。ミュウの両手が彼の両頬を捕らえたからだ。先程まで薄く染まっていたミュウの頬は、照れとは別の意味で紅潮する。
「まったく、き、君ってやつは......」
「あ、あの......ミュウ、さん?」
アルマの頬に食い込んだミュウの指は怒りによって小さく震える。アルマの頬は青を通り越して紫に近付いていっている。当然、アルマには凄まじい痛みが走っているはずだが、動揺と恐怖で痛みが麻痺しているようだ。
「ムードってものをもっと大事にしないかぁぁあああぁぁぁあああああ!!!」
心の底から絶叫したミュウは、それから豪快なため息を吐き出す。
アルマは茫然自失の体で、終わった......人生終わった、とうわごとのように繰り返した。意識が天に昇りかけていくような錯覚を覚えたあと、くちびるになにか柔らかいものが触れたような気がして意識を取り戻す。
すると眼前には頬を再び赤く染めたミュウがもじもじと視線をさ迷わせていた。
「――じゃあね」
ぱたぱたと家の扉にかけよっていくミュウを眺め、扉が閉まったと同時に、アルマは小さく呟く。
――おっふ、俺、人生勝ち組、と。