エティックとエミック 2
さて前回の続きといこう。
今回はエティック・エミックの話からじゃっかんずれてしまうが、少しばかり個人的な意見を書きたい。
国際理解というのは譲歩の上にしか立脚しえない、という理論を展開した。お互いの立場を積極的に否定しない、というスタンスだ。
私はこれについて改めて否定する要素はない。
しかし誰の味方もしないというスタンスには弱いところもある。
たとえば、強力にエミックな論理を展開する人間に出くわした場合である。エミックなもののとらえ方しかできない人というのは、言い換えるなら一つの安定した社会集団に所属して育った人に多い。
そういう人種は文化と一環として「差別」を行う。注目していただきたいのは、彼らは悪意がなく、むしろそれが理性的だと思っているということだ。
彼らには目の敵にしている人々というのがいる。
例を挙げると、パキスタンとインド、ポーランドとチェコ、日本と韓国、タイとラオス、エジプトとイスラエルなど隣国に敵意をむき出しにするパターンが多い。
私はそうした差別には興味がない。そういうエミックな社会現象がある、として受け取るのみだ。
露骨に○○人はどうだこうだ、と差別する人と話すときはできるだけその人に合わせている。彼/彼女のエミックな世界観を否定することでその人が幸せになったりしないからだ。
口に出さなければ腹の中で何を考えても問題ない。
だが、私のようなスタンスの人間は誰にも味方しないせいで、「(彼らの)敵の方に味方しているという形」に受け取られるということもある。
私は「特定の社会集団を支持しないことでいろいろな国の人間と滞りなく接する」ということを目標に掲げているので、どうしても彼らとの着地点が相反するものになってしまう。
彼らは「自らの同族意識を高めるという行動の結果、特定の民族・宗教などを排除する」という思考様式が染みついているので、どうやっても私のような人間は理解できないのだ。
そしてもっと質が悪いのが「悪気がない」ということなのだ。
ここで明確にしておくが、彼らは頭が悪いわけではないし、間違っているわけでもない。
私のような「差別しない」という立場が絶対に正しいなんていうことはない。私はただ、自分の身をおいている環境が人種差別をすることが不利になりうるから、という理由で人種差別をしないだけである。
人種差別以外の差別ならいくらでもしているかもしれない。
私は正義漢ぶっているわけではないし、私の考え方はあくまで私にとって正しいだけだ。
しかし、だからこそ私は他人のスタンスを積極的に攻撃しないしできない。
しかし彼らは自分たちが信じているもの・よいと思うものはすべからくほかの人間もよいと思うはずだというエミックな考え方にたって、私に彼らなりの世界観をしらずしらずのうちに押し付けようとしてしまう。
そして彼らの世界観にそぐわないものをくだらないものと思ってしまう。
私は人様の国にはその国の事情があるし、やたらめったら我々部外者が口をはさむことはできないという考え方で生きているので、どうしても積極的に自分の嫌いなものに文句を言う自大な態度が受け入れられないわけである。
たとえば「フランス語が美しい発音の言語である」というのはフランス人にとっては真理なのかもしれない。しかしだからといって、フランス語以外の言語、アフリカの言語だとかアジアの言語の発音が汚いとするようなそういう尊大な態度は、とても受け入れられないわけである。
だから「お前もそう思うよな?」と同意を求められると困ってしまう。
もちろん彼らが自分たちの中でエミックな論理を展開する分には何の問題もない。
簡単にまとめると、人がいいと思ってやっていることは放っておけばいい、という考え方だ。
私は友人がイスラム教を信じようがどうしようが、その人がそれを信じて幸せなら――たとえイスラム教がどんなに私にとって非科学的で非合理的でも――いいと考える。
人が楽しんでいるものを、横からちゃちゃをいれて冷や水を浴びせる真似はできるだけしたくないのだ。
全ての人間が上記の原則を守ることができれば、たぶんこんな対立は起きないと思う。
しかしそれもまた、彼らに「差別しないという思想」を押し付けていることになってしまう。
難しい話だ。