私の名はユリア――ユリア・トラドットです
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肩と背中に鈍い痛みを感じつつ、詠治はアパートに帰ってきた。
喫茶無菌室を出てすぐにバイト先から電話がかかってきて、急な荷卸の仕事を頼めないかと言われ働いてきたのだ。短時間だが給料も多いので、詠治に断る理由はなかった。これで次の給料日にはいつもより色をつけてもらえるだろう。
アパートの外階段を上ると、詠治は自分の部屋のドアノブに白いビニール袋がかかっているのを見つけた。
袋の中を覗くと、リンゴが袋いっぱいに入っていた。
――草野だな。間違いなく。
詠治は確信する。このアパートの二階の住民は詠治だけだし、近所とも交流はない。大家は一階に住んでいるが、家賃を払いに行ってもほぼ無言で金のやり取りをするほどに希薄な関係だ。
それに草野からの自宅への食糧支援はこれが初めてではない。以前、一度だけ気まぐれでいっしょに帰ったことがあったのだが、そのときに草野風香とはこのアパートの前で別れたのだ。風香の家がどこだか知らないが、今考えるとあれはただ単に詠治の住処を知りたかっただけなのかもしれない。
とはいえ、食糧支援は有りがたい。
有りがたいが、詠治は自分の不甲斐なさに歯噛みする。どうして僕がこんな惨めな思いをするんだ、と。
魔女の血の濃度、有無で、ここまで現実が見せる色合いが変わるものなのか。それが我慢ならない。この魔法一辺倒の世情を、いつか粉砕してやる。
詠治は凶暴な感情を滲ませつつ、けれど腹は減っているので悔しさを噛み締めリンゴの入った袋を手にして部屋に帰宅する。
制服からラフな部屋着に着替え、冷蔵庫の中の卵を確認する。今朝一つ食べたからあと三つある。本当は労働の後で腹の減りも激しいので、二つ使って目玉焼きとゆで卵を作ろうとしたのだが、リンゴがあるので卵一個で済ませよう。
ゆで卵を調理し、台所に立ったままパクリと口にしながら、袋に入ったリンゴを手に取り――詠治はなぜか目を見張った。
詠治が手にしたリンゴに、これと言って特徴はない。赤い実は艶やかで、大ぶりな実は一つ食べただけで腹を満たすかもしれない。けれどその程度だ。別のリンゴも似たようなものだ。
でも、詠治は手に持ったリンゴから視線を外せなかった。
引き込まれていく。
視界が赤で埋まる。
それはまるで、血の海に沈むかのように。
不思議な魅力を感じて、皮をむくことを躊躇する詠治。
――これは……後で食べよう。なんか勿体無いな。
詠治はそのリンゴを袋の中に戻し、別のリンゴの皮をむき始めた。
――さすがに食いすぎだな。ていうか飽きた。
詠治は丸かじりしたリンゴの芯を皿に放った。それから今朝やっていた歴史の勉強の続きに取り掛かる。
結局リンゴの皮をちゃんとむいたのは最初の一個だけで、残りは全てそのままかじりついた。もう残りは二個しかない。
そのうちの一つが気になって、詠治はなかなか集中できなかった。さっき最初に手にしたリンゴだ。
――……なんかイライラするな。草野のヤツ、変な魔法でもかけたのか? ああっ! くそっ!
苛立ちをピークにした彼は、残りのリンゴ二つを持って台所に向かい、作りつけの棚からミキサーを取り出した。これは去年、商店街の福引で当てたもので、一等の米一年分でなかったことが酷く悔しかったことを思い出させる忌々しいアイテムだ。
――まさかこんな下らないものが役に立つときが来るとはな。
詠治は包丁で乱暴に二つのリンゴを四等分に切り、それをミキサーに放り込んで水を少し加え、スイッチを押した。やかましい騒音と地震を思わせる振動が三十秒ほど続き、リンゴジュースが完成した。
ジュースにしたせいか、もう奇妙な魅力を感じることはなかった。あの鮮血を髣髴とさせる赤い見た目がよくなかったのだろうか。果汁となった今や、その訳は知りようもないが。
リングジュースを大き目のグラスに注ぎ、卓袱台に置いて勉強を再開する。例によって詠治は教科書を音読する。知識を音に、音を耳に、耳から脳へ。
「新暦1635年、スウェイデンのオッド村が大魔女エーファによって焼かれ、村民達は全滅した。それから三ヵ月後、民会によりエーファ討伐が決定し、王もそれを許諾する。エーファ討伐の任を受けたのは、スウェイデン軍ヴァルキュリア隊騎士隊長、ユグルズ・トラドット」
ページの上部にユグルズ・トラドットの顔絵が載っている。名前こそ男性名だが、その顔は少女のそれだった。どうしてこんな年端もいかない娘が戦士となったのか、そこまでの記述は教科書にはないし、記録にも残っていないらしい。
少し気にはなるが、詠治はその絵をちらりと一瞥するだけで、本文の続きを読み上げる。
「ユグルズは隊を率いてエーファ討伐に向かう。道中、魔女狩りを数多く行い、数百人の魔女を切り伏せた。エーファはジパングのエッゾに逃亡するも、後を追ってきたユグルズに討伐される。しかしエーファはユグルズに殺害された直後、その身を魔粒に変え、世界中に飛散させた。魔粒が雪に見えたことから、この事件は『真夏の雪』と呼ばれるようになった。世界中で大勢の人々が魔粒を浴び、魔女となった。どういうわけか女性にしかその効果は現れなかった。ユグルズはその責任を取り軍を追放され、後に魔女たちの手によって火あぶりにされ処刑され――た……」
そこまで教科書を読み上げたところで、詠治の首が舟を漕ぎ出した。眠気が薄い膜になって詠治の視界を覆っているようだ。
急なバイトをしたせいもあるし、詠治は毎朝五時に起き出して勉強を始めている。休みの日も然り。そして今はリンゴを大量に食べて久々に腹が膨れたというのもある。
――馬鹿野郎、眠ってる場合じゃないんだよ。僕は……。
けれど詠治の思いに反して体はもう寝る勉強しないといわんばかりにだるくなり、ついに詠治は意識を失うようにガクリと首を倒し、卓袱台に顔面を強打した。
――がぁっ!
その振動で、教科書の横に置いておいたグラスが倒れ、リンゴジュースがこぼれた。しかもこともあろうに歴史の教科書に思い切りかかってしまった。ページはぐっしょりと濡れ、本文といっしょに載せられていたユグルズ・トラドットの絵はしわしわに寄れてしまっている。
「ああクソッ!」
詠治は声を荒げ、卓袱台に拳を叩きつけた。
――ちくしょうちくしょうちくしょう……ちくしょう…………今に、見てろよ――
その時、視線の先が急に輝きだした。
詠治がハッと顔を上げると、リンゴジュースでびしょ濡れになった教科書がふわりと浮き上がって光を明滅させている。
青く、赤く、青く、赤く、赤く、赤く、赤く赤赤赤赤赤赤赤赤赤――――
光は赤一色となった。こんな感じの赤を見たことがあるような気がしたけれど、今の詠治にそんなことを思考する余裕はなかった。
詠治の目は、赤く輝く教科書に引き込まれていく。血のような、赤。
そして――爆発するような光の奔流が四畳半いっぱいに溢れた。詠治は思わず腕で顔をかばい、目をぎゅっと瞑った。
――カシャ。
そんな、金属と金属が触れるような、硬質な音が鳴るのを耳にした。
恐る恐る目を開けて腕のかばいを解くと、卓袱台の上にひとりの少女が立っていた。赤い甲冑姿で、兜はつけておらず顔は晒している。年のころは詠治と同じ十七歳ぐらいだろうか。
「貴方ですね。私を冥界から現世に蘇生させたのは」
少女が喋った。
人が喋るのは当たり前だけど、その当たり前すら認識できないほどに詠治は驚いていた。女が口にしたことも全く聞こえなかったかのように頭に入ってこない。
「耳が悪いのですか? もう一度訊きます。私を冥界から現世に蘇生させたのは、貴方ですか?」
女がまた質問した。
「だ……だ…………だ――」
「はい?」
詠治の反応に、少女は首を傾げる。
「誰だよお前っ!」
ようやく彼は今一番問わなくてはいけないことを吐き出したのだった。だが叫んだ直後、詠治には目の前の少女が誰なのか、その心当たりがあることに気付いた。
年頃は詠治と同じか一つ上ぐらいか。少女は亜麻色の髪を後ろで一本にくくり、凛とした表情を浮かべ、青い瞳は澄んだ湖のような輝きを放っている。肌は白く唇は引き結ばれ、形の良い鼻は少し上向いている。
そんな顔を、ついさっき歴史の教科書で目にしていた。
絵で、だが。
「まさか…………ユグルズ……?」
半信半疑ながらもそう訊ねる。
そんなことがあるわけがないと思いながら。けれど、この魔法と科学で繁栄を遂げた時代と世界において、こともあろうに鎧姿でいるなど、現代を生きる人間とは思えない。それに彼女はこう言った。
蘇生、と。
「これは失礼しました。まず最初に私のほうが名乗るべきですね。貴方としても、目の前の人間が蘇生させたい相手かどうかを見極めたいでしょうし」
いや、そんなことは考えちゃいないが。
「貴方の仰るとおり、私は以前ユグルズと呼ばれていました。しかしスウェイデン軍を追放された後に、その名は捨てました。今は本名を名乗るようにしています」
「本名?」
ユグルズに本名があるなんて、教科書には書いてなかった。おそらくどの教科書にも、どの文献にも載ってはいない未開の事実だ。本当のことだとしたら、だが。
「じゃ、じゃあ……お前の本名は?」
震える声音で詠治はそう訊ねた。
「私の名はユリア――ユリア・トラドットです」