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朝を呼ぶニワトリ

 お夏婆さんがユリアに向けて両の掌を突き出す。それから呪文の詠唱に入ったのか、聞き取れないほどの小さな声でぶつぶつと何かを唱え始める。

 詠唱無しで転移術を駆使するほどの魔導士が、ここまで長い詠唱を唱えるということは、余程凄まじい威力の魔法を放つつもりなのだろう。

 彼女の詠唱が開始されると、たくさんの観衆の中から十二人の者が姿を現した。全員が時代錯誤としか言いようのない黒いローブを頭からすっぽりと被っている。顔が半分以上隠れているせいで、男か女かも判別できない。十二人はユリアを囲むようにして配置に付き、観衆は十メートルほど後ろに下がった。

 処刑場が拡大した。

 十二人の者たちもまた、ユリアに向けて掌を向け、呪文の詠唱を始めた。彼らは宮上家から派遣された魔導士たちである。一人一人が精鋭の中の精鋭、ユグルズの処刑執行人に選ばれし十二人。

 ユリアはというと、何をすることもなく澄ました顔でいる。吹き抜ける夜の風の感触を楽しむかのように、まるで緊張感がない。

 詠治はこの事態をどうにかできないかと思考を巡らせるが、当のユリアに戦う気が全くないとあっては作戦の立てようがなかった。できることなら、ユリアを抱えてこの場から逃げ出したい。

 ――ちくしょう……ちくしょうちくしょうちくしょう…………僕に力があれば……。

「yoryu kino rensh《ヨリュ キノ レンシュ》!」

 お夏婆さんがはっきりと詠唱を口にした。途端、彼女が広げる掌の前面に魔方陣が展開する。そこからさらに、口が――牙をむき出しにした大きな口が、現出する。

「――――――竜の、口」

 詠治は呆然となってつぶやいた。

 魔方陣からは竜の口だけが飛び出し、恐ろしく鋭い牙をガチガチと言わせながら、喰えるものを捕食せんとしている。

 神暦の時代に存在したというその竜を、時代を超え、お夏婆さんは召喚したのだ。口先だけしか現出していないが、それだけでも僥倖である。

 ユリアは顔色一つ変えずにその様子を窺っている。

「sedukutikyao wiketo kyo yonohurania《セドゥクティキャオ ウィケトゥオ キョ ヨノフラニア》!」

 お夏婆さんが再び詠唱を発した。すると竜が大きく口を開いてみせた。鋭く巨大な牙が並んだ口腔内が剥きだしとなる。やがて喉の奥がほのかに明るくなり――――まばゆく輝いたと感じたときには、ユリアが火の海の只中にいた。

 竜が、口から炎を吐き出したのだ。

 荒れ狂う熱の渦、赤く輝く炎の流動。

 暴風が吹き荒れる轟音が、辺りを包む。観衆は息を呑んで処刑を眺めている。

 続けざまに十二人の魔導士たちも詠唱を終えて炎をユリアに放った。宮上有人が見せた程度の火の玉ではない、極大の熱と威力を伴った一撃である。

 ユリアが立つ場所に一際大きな火柱が立った。何かが燃え、爆ぜる。ユリアは完全に炎に呑まれ、その姿さえも目視できない。

 誰もが処刑は終わったかと思った。肉片など欠片も残ってはいまい、と。だが――。

「よもや竜を呼び出すとは」

 ユリアは健在だった。彼女は炎の中から悠然と歩き出し、姿を現す。その間も竜は炎を吐き続け、彼女はそれを浴びているにも関わらず。

「けれど相手が悪かったようですね。私の祖先は竜殺しの異名で知られる戦士だった。竜殺しの彼が倒したのがその竜です。この鎧が紅いのは、その際に竜の血を浴びたから」

「えっ……」

 お夏婆さんが大きく目を見開く。

 詠治も驚きを露にする。竜の血を引いているとは聞いていたが、甲冑にまで竜の血が及んでいるとは聞いていない。

「つまり、その竜の炎は、この鎧を砕くことはおろか焼くこともできない。それに私自身にも竜の血は流れている。魔法にも炎にも強くできている体なのです。並の炎や魔法では私を処刑することは叶わないでしょう。夏、魔女の血ばかりが力ではない」

「ぐっっっ」

「どうしたのです、夏。この程度ですか? 私はこれしきの熱さ、何も感じませんよ」

 ――嘘だ。

 詠治は思い出す。

 ユリアが語っていた、処刑された日のことを。

 熱かったと言っていた。

 とても、とても熱かったと。

 竜の炎が熱くないわけがない。何も感じないはずがない。

 現に鎧や篭手、脚当ての部分から黒い煙を上げている。頬は黒く汚れ、美しかった髪の毛は、結わえるのに使っていたリボンが焼失して髪がほどけてしまっている。熱風で揺れる頭髪に、今にも火がつきそうだった。

 このままじゃ、ユリアが、また、死ぬ。

 そう思った途端、詠治の理性は飛んだ。

「ユリアアアアアアアアアァァァァァァァッッッ!!」

 絶叫する。それが自分の声だとは思えなかった。

「責任なんてどうだっていい! お前がそこまで抱え込むことはないんだっ。責任転嫁してるヤツなんて大勢いるっっ。どいつもこいつも腐ってる! だから――」

「だからこそ、己が誇りだけでも堅持せねばなりません」

 ユリアは炎の中から、詠治のほうへ視線を移し、


 笑った。


 火花を舞い散らせる紅蓮の炎が、ユリアの微笑みに血をぶちまけるかのように彼女の笑顔を赤く染める。なびく髪の色も鮮血に漬けたようにどこまでも赤く見える。

「ユリ、ア…………」

 しかしそれも一瞬だった。ユリアは笑みを消し、竜の口に――その背後で魔方陣を維持する夏を睨んだ。

「昔の魔導士は、召喚などせず自らの魔力でもって炎を生み出し、私の身を焼き尽くしました。しかし魔女の血が薄くなった現代では、どうもそれも叶わぬようですね。貴女は竜の力に頼り、他の魔導士などいるのかいないのかもわからない下級魔導士。こんな種火ごときで私を――この魔女殺しのユグルズを処刑しようなどと――」

 ユリアはニヤリと、凄惨な笑いを顔面に貼り付ける。

「三百年早い」

 それが最大の挑発になったことは、目の前の火を見るよりも明らかだった。お夏婆さんは顔を俯け、さっと右腕を払った。竜が魔方陣の中へ吸い込まれ、陣も消失した。十二人の魔導士たちも魔法の詠唱を止める。

「…………歴史に拘りすぎたみたいね」

 お夏婆さんはつぶやいた。怒りを押し殺し、己の内に留めておくように。

「ユグルズ、あんたの処刑が火あぶりだったから同じようにしてみたんだけど、たしかにあたしらの力不足だったことは否めないわ。業腹だけど、認める。でもね、次の魔法で今度こそあんたを殺す。心からね」

 言うや否や、お夏婆さんの足元から黒いヴェールのようなものが噴き出し、彼女の体を包み始めた。筒状に変形していくそれは、五秒もたたないうちにすっぽりと彼女の姿を隠した。内側からお夏婆さんが言う。

「念のために処刑の時間を夜にしておいてよかった。闇を引き出すには暗くないとね」

「闇を引き出す?」

 詠治の疑問に、お夏婆さんは答える。表情はヴェールに阻まれわからないが、その声音にはなぜか苦悶の色が混じっている。

「詠治、闇とは誰もが持っている心の澱のことよ。生まれたばかりの赤ん坊の心は澄んでるけど、人生を歩む中で徐々に汚れていき、それが澱となって底に沈む。あたしは今、自分の中の澱を手元に手繰り寄せたのよ。それがあたしを包んでる闇のヴェール」

 そこまで説明されてもなお、詠治にはお夏婆さんがやろうとしていることが理解できなかった。

「まだわからないみたいね、詠治。心の澱ってのはね、普段は底に沈んで姿を現さないの。もしこんなものがいつも心を満たしてたら、人は生きていけないわ。心から死に、やがてその身も死ぬ」

「まさか……」

「やっとわかったみたいね。そうよ、さっき言ったとおり、ユグルズを、心から殺すの! 食らうがいいっっっ! 三百年かけてあたしが編み出した暗制術あんせいじゅつ――nostalgicノスタルジック darknessダークネス!!」

 お夏婆さんが叫ぶと同時に、彼女を隠していたヴェールがユリアに向けて解き放たれる。

 ユリアはやはり身動きせずに、それを全身で受け止めた。ヴェールはユリアの体に撒きつき、途端黒い炎に変化した。

 漆黒の火柱が瞬時に発生し、ユリアの総身を闇色に覆う。それは先ほどまでの炎とはまるで趣を異にする、身も凍るような冷たい炎だった。

 ――詠唱が魔語じゃない!?

 詠治だけではない。その場にいる魔導士たちも戸惑いを露にした。

 本来呪文とは文字配列を複雑に置き換えられた文言――魔語を唱えなければならない。魔女の血が通常の血とは理を異にする流れだからである。

 けれど今お夏婆さんが発動させた魔法は魔語によるものではない。本来なら魔法が発動するはずがないのだ。だが、魔法は発動し現象化している。

 ――そんなことが有り得るのか?

 その疑問に答えたのはお夏婆さんだった。否、別に疑問に答えたわけでないのだろう。彼女はあくまで、ユグルズ・トラドットへ向けて声を発したのだ。

「ユグルズ、この魔法はね、人間の闇――過去なんだよ。今のあんたの心は当時のわたしの心に置き換わっているんだよ。だから魔語で語ることはできない。闇は――過去は、万人にわかる人語でなければその効果を発揮できないからよ。この魔法を唱えるには、全身の魔女の血を分解し、配列を組み直す必要がある。これをマスターするのに、三百年かかったわ。あたしはね、あんたを殺すことを想像しながら、この魔法を編み出していたの。それがあたしの、唯一の慰めだった……」

 魔女の血の分解、配列の組みなおし。

 そんな荒業をやろうとする魔導士など、古今東西いなかったに違いない。下手をすれば魔女の血そのものが異常をきたし、命だって落としかねない。

 そんな危険を冒してまで編み出していた、慰めとしての魔法。

 決して発動させることなどなかったはずの魔法。

 それは、ユリアが冥界から呼ばれた時点で、変わってしまったのだ。

「………………ぁ……ぁ」

 ユリアが苦悶の声を漏らすのに時間はかからなかった。わなわなと体を震わせ、彼女は呆然と立ち尽くしている。堂々とした態度はどこかへ吹き飛び、今は泣き出しそうな子供のように表情を歪ませている。

「早速闇に侵食されてきたみたいだね。それがこの魔法、nostalgicノスタルジック darknessダークネスの効果だよ。あんたにもわかるだろうっ。あんたにもわかる言葉で、悲劇がその脳裏に映っているはずなんだから!」

「う、あぁ、……あぁぁ」

「悲しそうだね、ユグルズ。心が泣いてるんでしょ? 軋むんでしょ? それはね、あたしの闇なの。あんたは今、何を見てるの? 母に向けられた侮蔑の眼差し? それとも首を吊った母の骸?」

 お夏婆さんはどこか愉快そうに語りかけている。その姿はもうヴェールに包まれておらず、竜の召喚の時と同じようにユリアに向けて掌を突き出している。

「……あ、あ、あぁ、――――うわああああああああああああぁぁぁぁっっっ!」

 ユリアが、声を上げて泣き叫んだ。

 あのユリアが。

 いつも心に波など立てないユリアが。

 迷子の幼子のように。

 闇の炎の中で。

 詠治は泣き叫び涙を散らすユリアを、そこから引きずり出したかった。

 ユリアはいつも暗いところにいた。

 日の光を浴びたいと願っているのに、目にするのはいつも月と星、それに闇。

 ――挙句、あんなどす黒い炎にあぶられるなんて……いっそのこと…………。

 詠治の中で、一つの奇策が形を成した。闇を消すだけの輝きを、光りを、詠治は呼び出す方法を知っているのである。けれどそれは、犠牲があまりにも大きすぎる。

 ――上手くいったとしても、消えるのは闇だけじゃない……。

 詠治の葛藤をよそに、お夏婆さんが高笑いを響かせる。

「アハハハハハハッ、『エッゾの魔女狩り』を見てるんだね! ユグルズ! その身をもって知るといいわ! あたしの苦しみをっ! エッゾの民の苦しみを! トドメはあんた自身の闇で刺してやるっ!……うっ……か、覚悟するといいわ!!」

 お夏婆さんからも嗚咽が聞こえた。見れば彼女も瞳から涙を絶え間なく流していた。頬を濡らし、目を潤ませながらも、魔力を集中させ思念の全てを闇の炎の維持に注いでいる。

 おそらく、自身の闇の澱と向き合ったため、お夏婆さん自身も己の過去を見る羽目になったのだ。闇を素手で掴み投げつけるような魔法であるが故の、犠牲ということだ。

 互いに涙するユリアとお夏婆さんを見て取って、詠治の迷いは消えた。

 ――まったく、どいつもこいつも、

 お夏婆さんが自分の闇の重圧――過去に潰されそうになる。泣きはらした瞳は赤く腫れて、ギラギラとさせながらユリアに闇の澱を送り続ける。

 ――無駄なことに、

 ユリアは幼子のように泣き喚きながらも、一切動こうとはしなかった。ここに至ってもまだユリアは自分の責をまっとうしようと耐え続けている。

 ――脳を使いやがって。

 詠治は左右にいる黒スーツ二人に聞こえないように、小声で魔語を唱え始める。

 ――そんな下らない闇。

「ああああぁぁぁぁぁ――――――!」

「闇に埋もれて死ねユグルズゥゥゥゥ!!」

 ――この僕が、消してやる。

 詠治は変身術で鶏に姿を変えた。変身するのに三秒もかからなかった。魔女の血が薄い彼だが、これだけは得意な術だ。もっとも、姿は鶏に限定されるが。

 黒スーツの男二人が何事かとぎょっとする。彼らが挟み込んでいた詠治は姿を消し、足元には一羽の鶏がいるのみ。この状況下で、誰が鶏に姿を変えるなどと思うだろう。

 その隙を突くかのように、詠治は空に向かって鳴き声を轟かせた。

 毎朝鳴いていたように。

 ユリアに朝が来たことを告げる。

「ko-ke・kokkoコーケ・コッコーおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

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