300年前を語る少女
「え・い・じ」
「ん……」
聞き覚えのある不愉快な声が耳に入り、彼は目を開けた。視界に映る図書室はどういうわけか明かりが消され、窓から差し込む夕焼けによってどこかノスタルジックな景色に様変わりしていた。
「おはよーっ」
ナズナが詠治の傍らで元気に声をあげた。「やっとお目覚めだねっ」
「目覚めて早々お前なんかを見る羽目になるとは。僕もとことんついてないな」
詠治はそう言うと、立ち上がり、本を棚に戻すために歩こうとする――が、彼の足は動かなかった。まるで足の裏を床に貼り付けられてしまったかのように、一ミリも動いてくれない。
「ぐっ、どうなって――」
その時になって、詠治はようやくナズナから放たれている魔力の波動に気がついた。微力ではあるが、彼女の体から詠治の足に向かって魔力の放出が感じられる。
「…………お前の仕業か」
「詠治酷いよ。盆栽同好会なんて嘘ついてさぁ」
「僕の話を聞け、宮上ナズナ」
「宮上ナズナ? 誰それ」
ナズナは首を捻って明後日の方向を向いた。
「ふざけているのか? まったく、時間の無駄だな。お前のことだ。どうせ自分の魔力と魔法が一流だということを示したくて、僕を床に固定したんだろう。ただこんなことをされなくても、宮上家の魔女の血がどれほどのものかぐらい、僕にだってわかっている。さあ、これで満足だろ。この下らない魔法を解け」
「ぶっぶー。はずれー。あたしはそんな小さなことのために、魔法を行使したりしませーん。それに――」
そこで彼女は声を低くする。「あたしは、ふざけてなんかいない」
「ふざけてるさ。僕に言わせれば、宮上家の存在自体がふざけて――」
「詠治よ、娘相手なのじゃからもう少し柔和な口調にはできんのか」
「えっ――」
唐突に口調を変えたナズナに、詠治は言葉を詰まらせた。声音こそ少女のままだが、その言葉遣いに詠治を呼びかけるときの響き、それに目を細めた表情を、彼は知っていた。
まさか、と思う間もなく、ナズナが種を明かす。
「ワシじゃ。喫茶無菌室の主、夏じゃ」
「お夏婆さん!?」
「ふふふ、驚いておるようじゃのう」
少女の顔で『じゃのう』などと言って笑っているお夏婆さんは、ちぐはぐな印象を詠治に抱かせ、彼の混乱をより大きくさせる。
お夏婆さん自身も少女の声音での語り口ではないと思ったらしく「この姿だとなんでか喋り方まで少女っぽいほうが楽なんだよねー」と口調を元に戻した。
「ど……どうして、そんな顔に」
「若返りだよ」
「は!? どうして今になってそんなことをっ。お夏婆さん、今まで一度だって若返ろうとしなかっただろ。それにあそこまで歳を取ったら、もう魔力も落ちて若返りなんて――」
「忘れたの? あたしは『エッゾの魔女狩り』唯一の生き残り。『真夏の雪』の日、魔粒を多く浴びたエッゾの民だよ? 現存する魔導士の中でも、あたしほど濃い魔女の血、魔力、それに知識と経験を持つものはいない。たとえ三百歳を超えても、どの魔導士にも負ける気なんてしないね。ただし、魔女殺しを除いては、だけどね」
「魔女、殺し……だって?」
「そう、魔女殺しのユグルズ――ユリアのことだよ」
「…………!」
「あの子に勝とうと思ったら、若返りも止む終えなかった。大体このぐらいの年の頃が、あたしの力が最も高かったからね」
アハハッ、と高笑いするお夏婆さんを、詠治は脅威に感じないわけにはいかなかった。往年のお夏婆さんは純血の魔女に近い魔導士だったと聞く。宮上家の魔女の血なんかとは比べ物にもならない。
今すぐこの場から逃げ出し、ユリアのところに行かなければと気が焦る。けれど足は詠治の意思とは裏腹に、磔にされたように固定されてぴくりとも動かせない。
「……僕とユリアが喫茶無菌室に行った時に気付いたのか? あの時、あんたの様子はおかしかった。いつも話す昔話がなかったぐらいだからな」
「そう。あれにはさすがのあたしも度肝を抜かれたね。……忘れもしないよ、あの顔は」
「生前のユリアを見たことがあるのか?」
「あるよ。何せ、あたしはあの子の処刑に立ち会ってるから」
「まさか! あいつの処刑はスウェイデンで行われたはずだ。ジパングにいるお夏婆さんが行くには無理が――」
――お夏婆さんの姿が、何の前触れもなく消えた――
最初からそこにはいなかったかのように、図書室に並ぶ本棚が詠治の視界に映る。
「詠治、こっちこっち」
「えっ――」
斜め左後ろから声がしたので振り向くと、そこにはお夏婆さんが立っていた。
「て、転移術……」
詠治は震える声でつぶやく。己の身を違う場所へ瞬時に転移される魔法。それは膨大な魔力を消費し、術者に相当な負荷をかける。その消費魔力の膨大さもあって、呪文の詠唱も相当に長くなるのが欠点である。
けれどもお夏婆さんは詠唱なしで転移してみせた。それはもう、魔女の血が濃いというレベルではない。純潔の魔女ではなかろうかとさえ疑ってしまう。
「これで納得した? あたしに国境なんて無いも同然。超えられない距離なんか絶無。だから真実。ユグルズが魔女たちに護衛を申し出たという遠方の魔女たちの囁きが、あたしにはたしかに聞こえたの。その方角へ転移したまでのことよ。そうしたら魔女殺しのユグルズの処刑を行うっていうから、あたしも是非にと参加を願い出たんだけどね、異国の者でしかも幼いとか言われて、結局あの村の魔女たちは処刑要員にあたしを加えてくれなかった。ユグルズが焼かれる様を、ただ憎しみを持って眺めていただけ……」
お夏婆さんが語ることに、矛盾は一つもなかった。何よりも、ユリアが魔女たちの護衛を申し出たことは公にはされておらず、歴史の教科書にも載っていないのだ。そんな歴史の裏事情を把握しているお夏婆さんを、疑うことなどできるだろうか。
「ここ最近、僕の周りが騒がしかったんだけど、それは全部お夏婆さんの仕業か?」
「うん、まあね。あまり気は進まなかったけど。ほかに方法がなかったんだよ。許してね」
「宮上家の血縁者だって言うのは……」
「もちろん嘘に決まってるじゃないの。あんな下等なヤツらとあたしが血縁者なんて有り得ない」
「――お夏婆さんは、ユリアを殺す気なのか?」
「ユリアじゃないよ。あの娘は、魔女殺しのユグルズ」
「…………」
詠治は沈黙する。
ユリアをユグルズだと断じるお夏婆さんは、姿こそ少女だが、その顔にはもはや十代の若々しさなど微塵もなかった。怒りと悲しみに瞳を曇らせた、三百六歳の一人の老魔女がそこにはいるだけだった。
「――三百年。あの悲劇から三百年も経った。その間、あたしがどれだけのものを失ったと思ってるの? わかる、詠治? 想像もつかないだろうね。もし、ユグルズをこの手で殺すことができたなら……と何度思ったことか。でも、そんな積年の恨みも今夜、晴らすことができる」
「今夜だって!?」
「悪いけど詠治、あんたを利用させてもらうから。こんなことはしたくはないけど……。許して」
お夏婆さんが「入れ」と声を発すると、図書室のドアが開かれ、ダークスーツに身を包んだ二人の男が入ってきた。つかつかと踵を鳴らし、詠治に近づいてくる。彼らが漂わせる威圧感が危機感となって詠治の焦りを煽る。
「き、聞いてくれ。お夏婆さん! あいつはもう戦士は辞めたんだ。今はユリア・トラドットなんだよっ。もう魔女殺しじゃないっ。今アイツが現世にいるのだって、イドゥンのリンゴとかいうわけのわからんものが僕の手元に偶然転がってきて、僕の不注意で本人の意思に関係なく生き返ったただけで、だからユリアは――」
「だからユリアは悪くない、とでも言うんじゃないよね? 詠治」
「…………」
詠治は口をつぐむ。そんな彼を冷ややかな目で見つめながら、お夏婆さんは言う。
「偶然であれなんであれ、あの子がユグルズであることに変わりはないわ。あの女がエーファを滅ぼしたことにも変わりはない。あたしの積年の恨みにも、変わりはない」
ダークスーツの男達が近づいてくる。彼らが只者ではないことは、その雰囲気と気配から嫌でもわかる。しかも目の前には往年の力を取り戻したお夏婆さんまでいる。
――どうやっても僕に勝ち目はない、か。このまま捕まれば、いずれユリアは異常を察してやってくる。でもいくらあいつが強いからって、こんな連中相手に丸腰じゃどうあっても不利だ。
詠治は制服の上着の内ポケットから卵を取り出した。それはユリアの甲冑が封印された物で、いつも携帯するようにしていた。
――たとえユリアが近くにいなくても、救難信号の役割ぐらいは果たせる。
彼はそれを床に叩きつけた。卵はグシャッと鈍い音を響かせ、殻をあたりに散らせながら割れた。途端、淡い光の塊がそこから浮遊し、まるで突風に煽られるようにその場から流れ、図書室の壁を通り抜けて外へ出て行った。
「ん? 詠治、今の卵には何が封印されてたの?」
「さあ、なんだろな」
虚勢を張って、詠治はお夏婆さんから視線を外し、窓の外を見やった。夕方のオレンジ色の光が、詠治の体を燃やし尽くす。
「へー、何か企んでるんだねぇ?」
さっきまでの憎悪に満ちた顔はどこへやら、お夏婆さんはニヤニヤと唇を曲げる。
詠治は沈み行く太陽を眺めながら、一抹の不安に襲われる。
そもそもユリアは戦うのだろうか、と。




