お夏婆さん、エッゾの魔女狩りを語る
*
図書室。
そこは詠治にとって勉強の場であり、情報収集の場でもあった。図書室にはパソコンが数台設置され、ネットを観覧できるようになっている。詠治は放課後、いつもここで公示結社アースガルズが配信する情報を得たり、勉強に必要な資料を探したりする。
けれどそんなことをしているのは詠治ぐらいのもので、大半の生徒は自分用のタブレットを持ち歩き、常に最新の情報を手にしている。経済的な事情で、詠治には手の届かないアイテムなのだ。
放課後、今日も今日とて詠治は机に向かって授業で取ったノートを広げ、復習に余念がない。できれば家で勉強する時みたいに音読したいところだが、司書や生徒が何人かいるから、そんなことをするわけにはいかない。そもそも恥ずかしくてできない。
「あの……片桐、くん」
今にも消え入りそうな声で詠治に声をかけたのは、草野風香だった。詠治は舌打ちする。
――ったく、人が集中してるっていうのに。
「んだよ」
詠治はノートに視線をやったまま答えた。
「あ、あのね……片桐くん、いつも勉強頑張ってるなぁと思って……それでね――」
「それで僕を笑いに来たというわけか、草野。魔法の授業を免除された知識特待生である僕は、お前の目から見ればさぞかし珍しく、下等な生き物なんだろうな。そんな僕が勉強をしている様は、たしかにお前の立場からなら笑えるんだろうよ。あまり良い趣味とは言えないがな」
「そっ、そんなんじゃないの。あのね、差し入れ、持ってきたの……」
「…………」
詠治は沈黙する。内心では「やっぱりな」と思っていた。
「これ、よかったら食べて。片桐くんの口に合うかどうかわからないけど……」
風香はそうつぶやくと、机の上に花柄模様の布に包まれた弁当箱を置いた。
詠治は横目でそれを見て、思わずゴクリと唾を飲み込む。今日は朝に食べた目玉焼きとパンの耳以外口にしていない。バイトの給料日前で財布の中身が乏しいので、昼は給水機で水を飲んだだけだ。
――……ちくしょう。どうして僕が、草野を頼らなくちゃいけないんだ。
詠治は無言で布をはがし、弁当箱の蓋を開ける。中には野菜やハム、卵が挟まれたサンドウィッチがぎっしりと詰まっていて、端のほうにはから揚げと苺が添えてあった。
彼はそれをむさぼるように口に放り込んだ。
そんな詠治を微笑ましく見ながら、風香は訊ねる。
「あ、あのね……もし片桐くんさえよかったらなんだけど…………勉強が終わったら、一緒に帰らない?」
詠治はそれを聞くと、ピタリと動きを止めた。
――やっぱそう来たか……。
弁当を食べた手前、なんだか断りづらい。――こういうのって卑怯だろ……。
けれど、詠治は誘いを断ることを躊躇しなかった。
「悪い、今日はバイトなんだ。ギリギリまで勉強して、走ってバイト先に行かなきゃ間に合わないんだ」
「そうなんだ……」
あからさまに気落ちした様子の風香を、詠治は忌々しそうに見やった。
風香はことあるごとに詠治に近寄ってきては、彼に話しかけたり助けようとしたりする。差し入れだって、いったい何度目か数え切れない。
詠治が魔女の血を濃く継ぐ者ならわからなくもない。魔女の血が濃い者同士が結びつき、子を産めば魔女の血の濃度は多少は薄くなるが濃い状態を維持できる。
だが、詠治の家系は元々魔女の血の濃度が薄く、詠治の代になってからはもう本当に微弱な魔力しか持たなくなってしまった。そんな詠治に近づいてきたところで、何の得にもならないのだ。
どうして草野は、僕なんかにこうも親切にするんだ。
詠治は理解できないと思ったことは、すぐさま思考を取りやめる。
彼は弁当を平らげると、再び目の前のノートに向き直り、勉強を再開した。集中してしまえば、周りなど見えなくなる。
そうして詠治が勉強にキリをつけノートを閉じた時には、すでに風香は帰った後だった。風香のしょんぼりした背中が目に浮かび、詠治は舌打ちした。
*
「今からおよそ三百年前、ワシは当時六歳じゃった」
カウンターの内側で、お夏婆さんがまた例によって昔話を始めた。またか、と詠治は力なく首を振り、カウンターの上にスウェイデン語の単語帳を広げる。風香にはバイトだと言ったが、それは言うまでもないが嘘である。
ここ喫茶無菌室は、詠治が住むアパートの裏手に立ち並ぶ商店街の外れにある小さな喫茶店である。カウンター席は七席、テーブル席が二つあり、いつ来ても九割がたの席は空いている。
人嫌いの詠治にとっては好都合な場所で、図書室に次ぐ第二の勉強施設として利用している。とはいえ来たからにはコーヒーの一杯ぐらいは頼まなければならないので、毎日利用できないのが残念だ。
コーヒーの香りに控え目な音量で流れるジャズ、木目調のテーブルは年季の入った色合いに落ち着いている。勉強をせずとも、ぼうっと思索に耽るにもうってつけだ。
ただ、この店の唯一の欠点は、店主のお夏婆さんだ。
彼女は来た客には必ず昔話を聞かせる。それも彼女の場合はノンフィクションだ。
お夏婆さんの年齢は三〇六歳。
魔女の血が濃い者は総じて寿命が長いのだが、お夏婆さんはその中でも飛びぬけて長い。それは彼女が魔女の血を引くことになった『真夏の雪』に大いに関係がある。
詳しくは放っておいてもお夏婆さんが語るので、続きをどうぞ。
「ふと窓の外を見ると、何やらキラキラと輝くものが見えた。それは太陽の光に反射した無数の何か――そう、雪じゃった。真夏なのに、雪が降っておった。ワシは雪が好きでな、大喜びで外に飛び出したんじゃ。雪は遠くどこまでも降っているようじゃった。ワシは駆け回りながらその雪を浴びた。今考えるとそれが大きな間違いじゃった――」
「どうしてそれが間違いなんだよ」
詠治は単語帳から顔をあげ、お夏婆さんを遮った。どうせ最後まで聞かずとも話はわかる。
「その雪が『真夏の雪』で魔粒なんだろ。大魔女エーファが殺されたときに、ヤツの体が魔粒になって世界中に飛び散ったっていう。その殺された場所がエッゾだった。だからジパング、とりわけエッゾの人間たちはたくさんの魔粒を浴びてほとんど純潔に近い魔女の血をその身に宿した。お夏婆さんだってそうだ。僕が言いたいのは、それはどう考えたって幸運だってことだ。ただ浴びるだけで血が魔女化するなんて、反則だろ」
魔女の血が薄い詠治にしてみれば、喉から手が出るほどに羨ましい出来事だ。
魔粒。
それは魔女の血の源であり、本来ならば死と共に失われるはずのもの。けれども三百年前、大魔女エーファは倒された際にその身を魔粒に変化させ、世界中に飛散させた。魔粒を浴びた女たちは、魔女の血を宿らせた。お夏婆さんもその一人だ。
大気中を舞う魔粒が雪のようで季節が夏だったから、その歴史的大事件は『真夏の雪』と呼ばれるようになった。
「もしまた魔粒が降れば、今度は女だけじゃなくて男にだって力が宿るはずだ。魔女の血が流れている男なら、血の中の魔粒が反応して魔女の血の濃度が上がる」
「そう言われてはおるのぉ」
諸説あるのだが、もしまた魔粒が降るようなことがあれば、詠治が言ったように男性(魔女の血を流している者に限るが)にも恩恵があるとされる。
あくまでも〝もし〟という仮定だが。
詠治の抗議に、お夏婆さんはゆっくりと首を横に振る。
「詠治よ、お前さんもさっき言っておったろう。魔粒なんてものは反則なんじゃ。だからエッゾは滅ぼされたんじゃろう、きっと」
「…………」
詠治は押し黙る。たしかに、いくら魔女の血を得られても、滅ぼされては意味がない。
魔女の血は代を経るごとに薄くなっている。この国――魔法大国ジパングが抱えている致命的な問題である。三百年前の愚かなジパング政府を、詠治は呪った。
――先見の明がなさすぎだ。
「そう険しい顔をしなくてよい、詠治。時代が違ったんじゃ。今でこそ魔女の血は重宝されどこからも歓待されるが、昔は蔑視されどこからも拒絶された。魔女狩り、知っておるじゃろう?」
お夏婆さんは丸いしわしわの顔を歪ませた。「世界中で魔女狩りが行われた。いや、魔女に関わる者全てを殺し尽くそうとした。魔女の家族も魔女扱いも同然じゃった……」
お夏さんはそこまで喋ると、もう疲れたのか目を瞑って眠るようにカウンターの内側に佇んだ。こうなるともう何を話しかけても返事をしないので(それも店主としてどうかと思うが)、詠治はスウェイデン単語の暗記に戻る。
けれど、なかなか頭に単語が入ってこない。
お夏婆さんに視線を移すと、こくこくと舟を漕いでいる。その姿はとても疲れきっていて、無防備だった。
魔女狩り――ジパングでは『エッゾの魔女狩り』と呼ばれるそれは、魔粒を浴びたエッゾの民のほとんどを滅ぼしたという。その唯一の生き残りが、今居眠り中のお夏婆さんだ。
世界が魔女狩りに奔走する中、ジパングだけは途中で魔女狩りを取りやめ、彼女らを利用することにした。これが功を奏し、現在の魔法大国ジパングの繁栄がある。だが魔女狩りを中止した時にはすでに、エッゾは死地と成り果て、本領の最北端でも魔女狩りが行われていた後だったという。
お夏婆さんも昔は想像を絶する魔法を駆使する魔導士だったらしいが、今ではその面影がまるでない。魔導士というのは大抵年老いてくると魔力も弱ってくるのだが、若返り術を駆使することによってそれを乗り越えている。
若返り術は寿命は延ばせないが、外見は若い頃に戻り、魔力も年相応となる。ある程度の魔女の血を引く者ならば可能だ。実際、多くの魔導士が若返り術を駆使している。
もちろんお夏婆さんなら容易いはず。
けれど、お夏婆さんは若返りなど知らんといわんばかりに、年老いてくままに身を任せ、今では腰は曲がり、髪は真っ白に白髪で埋まり、クシャクシャの紙屑同然の顔つきだ。詠治にはそれがどうにも理解できなかった。
でも理解できなくてもいい、と詠治は思っている。お夏婆さんはこの魔法一辺倒の国では珍しく、決して自分の魔女の血の濃さをひけらかしたりなどしないのだ。『真夏の雪』の日、魔粒を一番多く浴びた彼女のこそ、間違いなく世界一の濃い魔女の血を誇っているというのに。
詠治はお夏婆さんのそういうところが好きで、喫茶無菌室に通っているのかもしれない。
当初は、歴史の生き証人にたくさんの知識を与えてもらおうと目論んでいたが、お夏婆さんは『真夏の雪』の話ばかりして、それ以外のことは全く語ろうとしなかった。
けど、別にいい。
ここのコーヒーは美味いし、たまにしか食べられないけどカレーも絶品だ。
カレーのことを考えたせいか、ぐうぅぅ、と腹が鳴った。店の中にある柱時計を見ると、もう六時を過ぎていた。そろそろ晩飯か。
けれどカレーを注文するほど金に余裕はないので、詠治はコーヒー代だけカウンターに置いて立ち上がる。
「お夏婆さん、ご馳走様」
完全に寝入ったお夏婆さんにそう声をかけ、詠治は店を出た。