秘密の産卵
アパートの裏には一本の姫リンゴの木がある。結構な大きさに成長し、夏は日陰となってこの下で読書をすると心地良い。
詠治は今、木の下に佇み、念をこめている。まだ午前三時だから辺りは静寂に包まれている。たまに遠くのほうで、車のエンジン音が風に乗って流れてくるぐらいだ。
体の中に熱の塊を複数感じる。その数、四。
――僕とユリアで、二つずつか。……いや、あいつを三つにしてやるか。
詠治はそう考え、昨夜のユリアの落ち込みようを気にする。昨夜のグレムの一件から、ユリアはいつにも増して表情を消した。まあ、普段から表情に出すヤツではないが。でも雰囲気で落ち込んでることぐらいはわかるまでに、ユリアのことを理解しているつもりだ。――せっかく買ってやったケーキも、まだ冷蔵庫に入ったままだし。ていうかケーキの存在自体忘れてた感じだったな。美味い物でも食わせて無理やりにでも元気にさせないと。あぁ、出し撒き卵でも作ってやるかな。
などと考えつつ、詠治は胴体と羽に力を入れる。
まず熱源の内の一つが、体外に放り出された。――一個目、と。
続いてもう一つ――と、力もうとしたところで、いきなり首を絞められ、体ごと持ち上げられた。
――あがっっっ!
眼前にユリアの顔があった。彼女は無表情に詠治の首を絞め続けている。その力は詠治の呼吸を閉ざし、死の扉を叩く。
――ばか、やろ。
詠治はすぐさま変身を解いた。全身の毛が逆立つような感覚がトサカから足の爪まで走り、彼の体が光に包まれる。やがてそれは鶏から人型へと変形し――
「エイジ!?」
ユリアが大きな声を上げて驚いた。それから慌てて首を絞めていた手を離した。
「がはっ!」
ようやく酸素を取り込み、荒く呼吸を繰り返す詠治。「はぁ……がはっごほっ」
「だ、大丈夫ですか! 申し訳ないっ、まさか貴方だとは知らず……その…………」
「ごほごほっ、はぁはぁ……し、絞めて鶏肉でもしようと思ったのか」
「……はい」
「フンッ」
詠治はユリアから視線を逸らした。「どうしてお前がここにいるんだ。寝てたんじゃなかったのか?」
「そうなのですが、ドアの開けられる音と階段を降りる音で目が覚めまして、そうしたらエイジがいないではありませんか。何かあったのかと思い周囲を見回っていて、鶏となった貴方を見つけたのです」
「…………今、何て言った?」
「何かあったと思い周囲を――」
「その後だ!」
「えっ……その、鶏になった貴方を――」
「ちっ」
詠治は苛立った様子で姫リンゴの木を蹴った。
「あ、あの……首を絞めてしまったことは謝ります。本当に申し訳なかった」
「違う! そんなことどうだっていい!」
詠治は声を荒げ、ユリアを睨んだ。「お前、どう思った? あんなちんけな姿を見て」
「いえ、私はちんけなどとは――」
ユリアの言葉は、詠治には全く届いていなかった。
詠治の体は小刻みに震え、拳は固く握られている。
そして彼は咆哮する。
「僕は……僕は…………あんな魔法使うのが精一杯なんだよっっっ!」
「エ、エイジ?」
「悪かったなっ、醜くて! 大したことなくて! 僕の家系はな、魔女の血が薄いんだ。三百年前の『真夏の雪』の時点でなっ! 運悪く僕の祖先はエッゾから随分遠い地域に住んでたんだとよ! 魔粒を少ししか浴びることができなかったんだっっ! そのせいで僕の両親は下等な魔導士にしかなれなくて大した仕事も与えられていない……。そして僕の代になったら見ての通りなんだよっ。魔導士としての資質は絶望的だ……僕はこんな下らない変身術をするのが限界なんだ……ちくしょう…………」
「エイジ……」
「宮上がほざいていただろ、僕の魔女の血は水のように薄いって。あいつはどうしようもない馬鹿だが、そのことだけは事実なんだ。それほどまでに、僕の中に流れる魔女の血は濃度が低い。あまりにも、低すぎる……」
詠治の声が尻すぼみになっていき、やがて小さな嗚咽が漏れ聞こえてきた。俯いて誤魔化そうとするが、流れる涙を隠すことはできなかった。
情けなさでどうにかなってしまいそうだった。
そんな詠治の背中に、ぽん、とユリアが掌を乗せる。その掌の小ささに、詠治はびっくりした。戦士の掌とは思えなかったのだ。
ユリアは優しい声音で語りかける。
「私はこのような暖かな魔法を初めて見ました。私の見たことのある魔法は、どれも破滅をもたらすものばかりでしたので」
「…………僕は――」
「大事なのは、血などではありません」
「じゃあ何だって言うんだ!」
詠治は顔を上げ、ユリアを睨みつけた。ユリアは毅然とした様で、答える。
「誇りです」
「馬鹿がっ。そんなものがあったって、微塵も役に立たないんだよっ!」
「いいえ、人は誇りを拠り所にして生きていると私は確信しています。そしてエイジは、既に誇りにすべき物を持っておられる」
「変身術のことか? フンッ、あんな下等な魔法のどこが誇りにできるっていうんだ!」
「劣等感を感じることなどありません。では上等な魔法とは何なのです? あの宮上有人という者が見せたような炎ですか? もし貴方がそう思っているとしたら、それは大きな勘違いです。大きな炎は村を焼き払い、稲妻は人を焦がし、氷の刃は肉体を貫く。そんな魔法を習得して、いったい何になるというのです。失うばかりではないですか。けれどエイジの魔法は違います」
ユリアは詠治が生んだばかりの卵を拾い上げ、掌の上に載せて詠治に示した。
「何かを生み出す、それはまさに奇跡です」
ユリアはニッコリと、笑って見せた。それは初めて見るユリアの満面の笑顔だった。「誇って、いいのですよ」
「でも、僕は――」
「魔女殺しを繰り返し、挙句火あぶりの刑に処された私が言うのです。間違いありませんよ」
「…………」




