劣等性は金が欲しい
――現代。
片桐詠治は卓袱台に広げた歴史の教科書を読み耽っていた。
彼は勉強のとき、教科書やノートを音読する癖がある。知識が音となり、音が耳に入り、耳から脳に伝わり浸透していく、ような気がするのだ。
この勉強法の効果かどうかはわからないけれど、詠治は優秀である。あくまでも知識の面では、だが。
「新暦1635年、スウェイデンのオッド村が大魔女エーファによって焼かれ、村民達は全滅した。それから三ヵ月後、民会によりエーファ討伐が決定し、王もそれを許諾する。エーファ討伐の任を受けたのは――」
そこまで教科書を読み上げて、詠治はふと携帯電話を開いて時間を確認する。
――ちっ、もう七時かよ。
詠治は立ち上がり、台所に立って朝食の支度をする。冷蔵庫を開けると、卵の棚のところに四個の卵があった。それを一つ取る。
――まだ余裕はあるな。
ちなみに卵の棚以外はほとんど何も入っていない。マヨネーズが無造作に放り込まれているぐらいだ。
詠治はささっと目玉焼きを作り、昨日パン屋で格安で買ったパンの耳を用意する。めでたく卓袱台の上には皿に乗った目玉焼きとパンの耳という貧相な食卓が完成した。
詠治はその光景を見て、不機嫌そうにため息をつき、無言で食事を開始する。
パンの耳をかじりながら、詠治は何気なく部屋を見渡した。と言っても、見渡すほど広くはないが。
詠治が住むアパートはワンルーム、と呼べば少しは聞こえはいいが、この部屋は四畳半の畳の部屋だ。それに申し訳程度の台所が付いている。それだけだ。トイレは共同のが廊下を出た突き当たりにある。風呂はないので銭湯に行かねばならない。
実家からの仕送りは雀の涙ほど。バイトをしないととてもじゃないがやっていけない生活。
――ちくしょう……。
もっと良い部屋に住みたい。
金が欲しい。
魔女の血が欲しい。
地位を僕によこせ。
くだらない下種どもが上でのさばっているのが我慢ならない。
そんな怨念めいた不満を内心に渦巻かせながら、詠治は目玉焼きに箸を突き刺した。黄身が血のように流れ出し、パンの耳を黄色く染める。
詠治は五分で食事を終えると、制服に着替えて部屋を出た。
学校へ行く途中、祈りを捧げる連中を目にした。家の窓から顔を出して祈る者、公園のベンチに座って祈る者など、各々スタイルは違えど、やっていることは同じである。
朝の祈り。
この国――魔法大国ジパングを支える魔力を思念で送る、魔導士たちの儀式である。この国のエネルギーはそのほとんどが魔力でまかなわれているため、魔女の血を引く者たちは幼子から老人まで老若男女問わずこの儀式に参加することを義務付けられている。
例外もあるが。
朝に行うことには意味がある。
太陽の光、とりわけ朝日を浴びると、人間の体には何かと効用がある。例えば人間の体内時計は本来二十五時間周期だが、朝日を浴びればそれを修正し、本来の時間の流れに帳尻を合わせることができる。
そういった効用が、魔女の血にも作用する。朝日を浴びると、魔女の血の血流がわずかだが加速するのだ。血流の加速は魔力を引き出す際に不可欠。朝に祈りを捧げたほうが効率的なのだ。
人々の魔力は魔導省管轄のエネルギー貯蔵施設に向けて送られ、そこでまた、別の魔導士によって様々なエネルギーに変換される。電気、ガス、水道――生きていくうえで必要なライフラインとなって、国民に送り届ける。
魔導士は、ジパングにはなくてはならない存在なのだ。
詠治は知らず知らずのうちに、祈りを捧げる者たちを険しい眼つきで睨んでいた。彼は祈りを捧げることなく、通学路を歩く。
*
詠治が宮上魔導学校の校門をくぐったのは、午前八時五分前だった。
この時間はまだ登校する生徒も少なく悠々と歩けるから、彼は好んでいつもこの時間に登校している。
――魔女の血の濃度ばかり鼻にかける低脳どもなど、顔も見たくないからな。
詠治は心の中で毒づきながら、下駄箱で靴を上履きに履き替え、階段を上がって教室――二年B組へ向かう。
教室に入ると、既にクラスメイトたちの何人かは来ていた。彼らは詠治のことなどいないかのように振舞う。詠治も詠治で、クラスメイトなど死に絶えたかのように見向きもせずに自分の席へと向かい、異変に気付いた。
椅子が、ないのだ。
廊下のほうからクスクスと小さな笑い声が聞こえ、そちらを向くと、宮上有人と彼の友人二人がニヤニヤと品のない笑みを浮かべている。
――下種どもが。
詠治はスクールバッグを置き、有人のほうへ足を向ける。クラスメイトたちは目を合わせないように詠治の動向を視界に入れている。
「僕の椅子はどこだ」
詠治は無感情なふうに訊いた。
すると有人は眉間に皺を寄せる。詠治があまりにも落ち着いているからだ。有人は詠治がもっと驚き慌てる様子を期待していた。
彼はセンタパートで分けた長めの髪をかき上げ、ぶっきらぼうに答える。
「椅子? 俺が知るかよ」
「知っているはずだ。こんな下らないことをするのは、宮上魔導学校広しといえど、お前ぐらいしか思いつかない。僕らはもう今年で十七歳なんだぞ? まったく、呆れるを通り越して可哀想に思いえてくる。無駄なことに、脳を使うな」
「てめぇっ――」
有人は激昂しそうになるが、それをどうにか抑える。「ふん、俺は脳なんか使ってないぜ? 使ったのは魔法と魔力だ。おーっと、失礼。脳しか使えないどこかのペーパーテスト馬鹿にはできない芸当だったかな」
「ペーパーテストができるということは、馬鹿じゃない。馬鹿はお前だ、宮上。宮上魔導学校も、お前みたいな屑が跡取りじゃお先真っ暗だな」
「この野郎!」
「有人くんっ、ここはマズイよ。人が多いっ」
今にも魔法を唱えそうな有人を、傍らにひかえる友人の一人が慌てた様子で止めに入った。
「くそっ」
「どうでもいいが、僕の椅子をいい加減出してくれ」
「けっ、探索術を使えばいいだろ? すーぐ見つかるぜ?」
有人がそう言ってくるだろうことを、詠治はわかっていた。わかっていたが、それに対し言い返すことも探索術を使ってみせることもできない自分を呪った。
――くそったれ……どうして僕の魔女の血はこんなにも薄いんだ…………。
「はははっ、探索術も使えないなんてな。お前の魔女の血はどれだけ薄いんだよ! 魔法の授業は受けられねーだけでなく朝の祈りすらも免除されてるぐらいだしな。使えない野郎だぜ! ハッ、知識だけじゃこの学校ではやっていけねーんだよ。知識特待生君! ひゃはははっ!」
「くっ……」
知識特待生とは、宮上魔導学校に入るための特別枠の名称である。
本来ならばペーパーテストをパスし、さらに魔女の血の濃度を計測して一定の値を超えなければこの学校には入学できないのだが、ペーパーテストの成績いかんで、知識特待生枠で魔女の血の濃度が基準値より下回っても入学できる。それが知識特待生枠だ。
だがその枠で入った者はこれまで一人もいなかった。全教科パーフェクト、一問も違わずに正解せねばならないからだ。宮上魔導学校は一流の学校とあって、入試はハイレベル。もはやそんな枠のことなど、誰もが忘れていたほどである。
それを詠治は成し遂げてみせた。
小学校の頃から勉強漬けの日々を送り、中学時代も部活などせず宮上魔導学校の入試のことのみを考えていた。
――魔女の血の薄さをカバーするにはこれしか方法はない。
この思いが強迫観念となって詠治を知識特待生にさせたのかもしれない。学歴に『宮上魔導学校卒』の文字が並べば、それだけで高いステータスとなる。
たとえ魔女の血が薄い詠治であってもだ。
そんな魔女の血の薄い詠治は、魔法の授業と朝の祈りを免除されている。
魔女の血が薄い彼にとって、宮上魔導学校の魔法の授業――実技は、あまりに高度でついていけないのだ。たちまち魔力不足に陥って昏倒することが目に見えている。
だから詠治はクラスメイトたちが実技の実習中は、一人静かに自習に取り組んでいる。まさかの知識特待生出現に、教師陣もどう対処していいか困った挙句の処置である。
また詠治は朝の祈りも免除されている。
詠治の魔女の血の薄さは極端で、朝の祈りをするのにも支障が出かねない。朝日を浴びて血流を加速化させても、引き出せる魔力量はごく僅かなのだ。それを祈りによって放出してしまっては、詠治の体への負荷も大きい。
だから彼は、特別に祈りを免除されている。もちろん、こういった者は詠治だけではなく、ジパング全体で見ればほかにもいる。だが、一流の魔導学校である宮上魔導学校においては、詠治ただ一人だ。
魔法の授業と朝の祈りのことを言われてしまっては、詠治には反駁しようがなかった。
「…………」
悔しさが憎悪となり、
憎悪が渇望となる。
魔女の血が、欲しい。
叶わぬ願いとわかっていても、欲してしまう。
けれど詠治はすぐにそう思考した自分を立て直す。叶わぬ願いを想うぐらいなら、より実際的に動くべきなのだ。
――……ちっ、宮上のせいで無駄なことを考えちまった。
有人が教室の中へ入っていく。その背中を付き人のように友人二人が後を追っていく。
廊下に残された詠治は溜息をつき、頭をかきむしった。詠治にとって有人の嫌がらせはもはや日常茶飯事だ。知識特待生という変わった立ち位置で目立っているせいか、詠治は入学してから早々に有人たちに目をつけられ、たびたび下らない悪戯の被害に遭っている。もう慣れてしまったが、それでもいい加減うんざりしていた。
――たしか二階に空き教室があったな。そこから一つ持ってくるか。
詠治は空き教室に歩みを進めようとしたが、横合いから声がかかったので足を止めた。そちらに視線を移すと、草野風香が胸の前で手を組んでいた。
サラサラとした長い黒髪に整った顔立ち、ジパング的な美人顔である。大きな黒目はどういうわけかうるうると水分を含ませている。
もじもじとした様子で、彼女は何かを言おうとしている。
「何だよ、お前」
詠治は苛立ちを隠そうともせずに言った。風香のこういうはっきりしない態度に、詠治はいつも腹を立たせている。
「う、うんっ。あのね……あったよ、片桐くんの椅子。探索術で、わたし、見つけたの。ええと三階のね――」
「余計なことするな」
「え……」
「草野家も宮上家に負けずとも劣らない魔女の血の濃度が高い家系だ。探索術などお手の物。どこかに失せた僕の椅子なんて、容易に探せるわけだ。僕のようにカスみたいな魔女の血しか流れていない人間には、無理だがな」
「わっ……わたしは別にそんなつもりじゃ…………」
慌てて弁解する風香を無視して、詠治は空き教室に行った。
――くそっ……どいつもこいつもふざけやがって……。今に見てろよ。