風香の後悔
十日前のことだ。
風香は学校帰りに宮上の屋敷に赴いた。また例によって家族ぐるみの交流をするらしく、その日の夕食は宮上の屋敷で取ることになっていたからだ。
風香は屋敷に着くと、いつも使う客室に行こうと二階へ上がった。絨毯敷きの広い廊下を歩き、書斎の前を通り――どういうわけかそこで足が止まった。
書斎の向こうから、不思議な力を感じる。
引き込まれるような、魅力。
吸い込まれるような、引力。
そして、魔力。
風香は書斎に入った。幼馴染で婚約者の有人の屋敷には、もう幾度となく来ているし。今では半ば自分の家のように出入りすることも当たり前の風香だ。
それでも、書斎は別だった。
そこは宮上家当主の仕事部屋である。勝手に入っていいものではないはずだ。普段の風香なら、そういうまともな判断が働いた。
でも、そのときは違った。得体の知れないものに絡み取られ引っ張られるように、風香は躊躇なく書斎のドアを開け、中に入った。
そこは壁一面が本棚で、中央にガラステーブル、それを囲む黒皮のソファがL字型に構えている。書斎というだけあって、奥にある机と椅子は重厚そうなものだった。
ガラステーブルの上に、フルーツの盛り合わせがあった。パイナップルにグレープフルーツ、オレンジ、キュウイ、ピーチ、そしてリンゴ。
どの果物も何らかの魔法的作用が施されているようだ。宮上氏は様々な魔導具のコレクターだから、これもそういったアイテムなのだろう。その中でもリンゴはそれらとは一線を画していた。
膨大な魔力が感じられるわけではない。
ただ何か、不思議な魅力があった。そうとしか言いようがなかった。
それは大ぶりのリンゴで、見た目はごく普通のそれと変わりなかった。けれど、じっと見ていると鮮血をイメージせずにはいられない、それほどまでに濃厚な赤色をした実だった。
それを、
風香は、
持ち去った。
気がつけば宮上家を出て、自分の家に、自分の部屋にいた。
こっそり持ち帰っていたのだ。
それでも風香はまだ自分の窃盗行為に考えが及ばなかった。一つぐらい持ち帰ってもいいじゃないか、程度にすら考えていた。
続いて思ったのは詠治のこと。
このリンゴを片桐くんにあげたい、風香はそう思わずにはいられなかった。
けれどリンゴ一つでは男の子のお腹はいっぱいにならないかも、と考え、風香は別の店でリンゴを買い、その時もらったビニール袋の中に、書斎から持ち去ったリンゴもいっしょにしたのだ。
――たぶんそれが、イドゥンのリンゴ。
宮上氏らの会話から察するに、死者を蘇らせることが可能らしい。信じられないが、もし神暦の時代の物ならば、それも可能かもしれない。
神暦の時代の物など、いったいどこで入手したのかは定かではないが、とにかく宮上氏はイドゥンのリンゴを手中に収めた。
思えばここ一年ほどの宮上氏は、あまりジパング国内にいることがなかった。彼が諸外国に仕事で赴くのは珍しいことではないので、その仕事の内容を訊く者はなかったが、おそらく海外の何処かでイドゥンのリンゴ探しに奔走していたと、今なら考えられる。それもかなり内密に行っていたと風香は推察する。
レキ・アースガル、彼が関わっているというのがその良い証拠である。
レキ・アースガルは、公示結社アースガルズのジパング支局長で、表舞台にはほとんど現れないがその影響力は絶大であることを、風香は父親から聞いたことがある。
レキは魔女の血を持たぬ非魔導士。となれば自然、彼が宮上氏にイドゥンのリンゴ探しを依頼したという推理も成り立つ。優秀な魔導士による探索術は、宝探しにはうってつけだろう。どういう目的かはわからないけれど。
そうやって秘密裏に一年かけて手に入れたイドゥンのリンゴだったが、宮上氏はあの実が発する魅惑の呪いにかかり、こともあろうに書斎に飾っておいた。
――それを、私が……。
そして風香も、その呪いにかかってしまった。
そういえば、風香が書斎からあのリンゴを持ち出した日から宮上家に来るのは、今日が初めてだ。三日に一度はある宮上家での夕食会も、ここ十日間はなかったのだ。
もしかするとその間に、宮上氏が血眼になってイドゥンのリンゴを探していたのかも――。
風香は一人、客室の中で青ざめている。
公示結社アースガルズ・ジパング支局長、レキ・アースガル。
ジパング屈指の魔女の血を誇る宮上家当主、宮上武人。
後から聞こえてきた女の子は知らないが、レキ・アースガルがへりくだって話していたほどだから、彼女も相当な大物に違いない。
そんな大物三人による、いわば密談だったのだ。盗み聞きしたことを、今さらながら後悔する風香。
しかも聞いてみれば、全ての原因の発端は自分にあるようだった。イドゥンのリンゴを持ち出したばっかりに。どうしてあんなことをしてしまったんだと、今さらながら後悔に後悔を重ねる。
まるで記憶が欠落してしまったかのように、書斎からリンゴを持ち出したことを忘れていたのだ。自分でも信じられない風香だったが、魅惑の呪いの効果が続いていたというほかない。
風香はそう思考し、自分の後悔を軽くしようとする。けれど、そう都合良くはいかなかった。
さらに大きな後悔が一つ、積まれる。
これから先、詠治に何か、良からぬことが起こってしまうかも……、と。




