イドゥンのリンゴを届けてしまった少女
風香が宮上の屋敷に行くと、何やら騒ぎになっていた。
屋敷の玄関は吹き抜けのホールになっているのだが、二階のほうから有人の悲鳴にも似た叫びが響いてくる。
「あの、何かあったんですか?」
風香が出迎えの使用人の男に尋ねると、使用人は困り顔で首をひねった。
「わかりません……。有人様は先ほど帰られたのですが、すぐにご主人様の書斎に向かいまして今のような状態に……」
有人のわがままは今に始まったことではない。父親にねだり、媚び、何事も優遇してもらう。それが宮上親子のあり方だった。
けれど今日のは様子が普段と違う。聞こえてくるのは罵声とも取れる荒々しい声だ。有人が父親をどう思っているかなど知らないが、少なくとも逆らったり喧嘩をすることは今までになかった。
二階には風香が泊まるときに使う客室もあるため、彼女は気の向かないまま二階へと上がる。有人の声は段々とボリュームを大きくし、断片的ではあるが何を言っているのか聞き取れるようになる。
「――――ユグルズだっ――――ころし――――――きけんだ!」
ユグルズ?
風香はその名を耳にして、すぐに頭の中に歴史上の人物、かつて大魔女エーファを討ち果たした魔女殺しのユグルズを思い浮かべた。けれど、それがいったいどうしたというんだ。
書斎の前を通る。
足取りは無意識にゆっくりとしたものになり、書斎の中での親子の会話に耳を傍立てるような形になる。すると、一際大きな有人の怒声がドアの向こうから漏れた。
「だから、片桐といっしょにいたんだよ! ユグルズがっ! 本当なんだってっっ! 殺さないとヤバイんだ! 俺たち魔女の血を滅ぼす気なんだよ!!」
今度ははっきりと、一語一句聞き漏らさなかった。
風香は思わず歩みを止め、息をするのも忘れてその場に立ち尽くす。
――片桐くんが、ユグルズといっしょに……いた?
そんな馬鹿なことが、と思った。三百年前にいた人間が、現代に存在するわけがない。有人は錯乱しておかしくなっているに違いない。高度な幻覚術でも受けているのかも。
たしかに詠治は見知らぬ少女といっしょにいた。それを有人も目撃したのだろう。有人のことだから、きっとまたちょっかいを出したに違いない。それで詠治に返り討ちに……と思ったところで、風香はおかしなことに気付く。
詠治の魔女の血は薄く、魔法に関してはもう非魔導士すれすれの実力なのだ。幻覚術など、到底発動させることはできない。それともあの少女によるものなのだろうか。
「落ち着きなさい。お前が言っていることはよくわかったから。……これは急を要するな」
有人の父で宮上家の当主、宮上武人の声が落ち着いた様子でそう告げていた。
――ぇ?
風香には信じられなかった。錯乱した有人の言うことを肯定する宮上氏が。
そのとき、書斎の中から水晶玉を起動させた際の魔力の放出を感じた。宮上氏は外部と連絡を取るらしい。
風香はその場を早歩きで立ち去り、自分の客室に入るや否や、バッグの中から水晶玉を取り出した。魔導士は基本的に水晶玉で連絡を取り合えるのだが、自身の魔力を節約するために携帯電話を使っていることがほとんどだ。魔導士の中でも、水晶玉を使う者は年々減っているほどだ。
けれど、逆に使う者が少なければ、盗聴される心配は少なくなる。つまり、水晶玉を使うということは、何か人には聞かれたくない話をするということだ。
風香は机の上に水晶玉を置き、心を研ぎ澄ませる。
そしてイメージする。
周囲の壁を取っ払い、幾線もの糸が交差する世界を。
彼女はその中から、すぐ近くにある線に注意を傾ける。
線は電気を帯びたようにスパークし、青く瞬いている。
そこにそっと自分の線を繋ぐ。
「eito kouse chuo《エイト コウセイ チョーウ》」
彼女は詠唱を短く済ませる。
すると、水晶玉にぼんやりと蒼白い明かりが灯る。映像は映らないが、声はしっかりと聞こえてくる。
勢いでそこまでしてしまってから、風香は自分のやっていることにようやく気付いた。
盗声術。
それは付近の水晶玉が交わしている交信に、自分も加わること。この魔法の特徴は、あくまでも自分は受信に徹することができる点にある。もし自分も発信してしまえば、たちまち交信中の魔導士たちに存在が露見してしまう。
――わ、わたし……何しちゃってるんだろ…………。
でも、風香は自分を止めることができなかった。詠治が関わっている。それは間違いない。それに、あの少女も。
水晶玉からは二人の男のやり取りが聞こえてくる。その内容の機密さに、風香は言葉を失いながらも耳をすませる。
『レキ・アースガル、私です。宮上です』
『これはこれは宮上さん、どうしたのですか、こんな夜更けに』
『……はい、イドゥンのリンゴの件なのですが』
『見つかりましたか!?』
『…………いえ、それが既に使われてしまわれたらしく、生き返ったのはこともあろうにあの魔女殺しのユグルズだとのことです』
『…………ユグルズ。それはまた、よりにもよって彼女とは』
『えぇ、私も驚きました……レキ、誠に申し訳ない。私があのリンゴの魅力に取り憑かれたばかりに……』
『イドゥンのリンゴに魅惑の呪いがかけてあったなど誰も知りえなかったこと。私どもの古文書にもそのような記述はありませんでした。貴方が気にすることではありません。とはいえ、一年かかってようやく手に入れたイドゥンのリンゴを、よもや書斎に飾っておいたというのはいささか無防備に過ぎたとは思いますが。貴方ほどの魔導士を惑わすとは、さすが神暦の遺物というほかない』
『面目ありません……』
『済んだことを謝罪されても何も解決しません。それより、ユグルズが生き返ったというのはたしかな情報なのですか?』
『まだ確認したわけではありませんが、間違いはないかと。すぐに数名の魔導士に調査させます』
『そうですね。早急にお願いします。もし本当にユグルズならば、それはそれで別な手もありますし。あぁ、言うまでもありませんが、調査に当たらせる魔導士は腕利きの者でなければいけませんよ』
『はい。それは承知です。……ただ、あのユグルズ相手ではどんな腕利きの者でも……』
そのとき、ジリジリとノイズ音が混じった。断片的に宮上氏の声、それに少女のような声音が聞き取れはするものの、もはや会話の態を成していない。誰かが宮上氏とレキ・アースガルの会話に乱入してきたのだ。
風香は目を瞑り、自分が繋げた線を確認する。やはり乱入の影響で、風香の線が少し解れてしまっていた。彼女は思念を集中させ、その細く繊細な糸を再度、会話の交わりに繋ぎ合せる。
音声はすぐにその質を戻したが、宮上氏の上擦った声でノイズ交じりのように聞こえたままだった。話を追えなかったのは十秒足らずだが、その間に事態はその様相を変えたらしい。
宮上氏が叱責するかのように少女を問い詰める。
『まさか…………そんな、なぜそんな姿にっ!』
『うるさいヤツだなぁ。静かにしてよもう。耳に響くでしょ。大体どんな姿になろうと、あたしの勝手じゃない。ていうかそんな些事はどうでもいいのっ。宮上、その役目、あたしに任せてよ』
知らない女の声だった。声音からして快活な雰囲気が窺える。
『い、いや……しかし』
『腕利きの魔導士でなきゃ駄目なんでしょ? ほら、あたしに適任じゃない』
『それはそうだが……レキ・アースガル、聞いていますか』
『ええ、私のほうにもこのお嬢さんの映像は届いております』
『いかがなさまいしょうか』
『お嬢さんに任せましょう。私も彼女が適任だと思いますよ』
『ひひひ、話に分かるお偉いさんでよかったよ。公示結社の役員ともなると、器の大きさが違うねー』
『お褒めに預かり光栄でございます』
そこで会話は途切れた。交信が終了したのだろうか。それにしては唐突に過ぎる終わり方である。けれど風香が回線を確認しても、もう三人の交信はどこにも見当たらなかった。
風香は盗声の術を解き、水晶玉を片付けた。水晶玉を持つ手が、小刻みに震えている。
自分のやってしまったことに、恐れおののいている。
盗声を行使したことではない。
詠治に、イドゥンのリンゴを届けてしまった自分に。




