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ある少女の視線

 喫茶無菌室の斜め向かい側に、一軒の書店がある。その店でかれこれ一時間近く立ち読みをしている少女がいた。彼女は道路に面した雑誌コーナーで、さして興味もないファッション誌を広げている。

 けれどその視線は雑誌ではなく、ガラス張りの壁面の向こうに映る景色に注がれている。もっと言えば、喫茶無菌室のドアを注視している。

 ――あっ。

 彼女は声を漏らしそうになるのをどうにか内心に留めた。喫茶無菌室のドアが開かれたのだ。

 店の中から出てくる二人。

 一人は片桐詠治、彼は少し癖のある髪の毛を手でクシャクシャとさせている。本人は気付いていないのかもしれないが、苛々するとよくそうしている。

 もう一人は、知らない。

 ――誰なんだろ、あの子。

 彼女は詠治と一緒に出てきた少女に不安げな視線を送る。

 少女は亜麻色の髪の毛を後ろで一本に結って背中に垂らしている。とても整った顔立ちで、鼻は少し上向いて高く、瞳は深海のように青い。

 二人は店の前で二言三言言葉を交わしているらしい。それから詠治が歩き出そうとしたところ、少女が立ち止まり、周囲を見渡す動作を示した。

 ――気付かれた?

 彼女は咄嗟に読んでいた雑誌で顔を隠した。もし二人を覗いていることが詠治にばれたら、きっと彼から軽蔑される。それは彼女にとって、何よりも恐ろしいことだった。

 どれぐらい顔を隠していただろう。

 恐る恐る雑誌をずらしてみると、もう喫茶無菌室の前に詠治と少女の姿はなかった。

 彼女は慌てて雑誌を平台に放り出し、書店を出る。するとすぐに、商店街の中を並んで歩く詠治と少女の姿を見つけた。

 ――並んで、歩いてる。

 彼女はその光景をぼんやりと眺めていた。詠治がどんどん遠くへ行ってしまう。それは数字では表せない距離である。

 彼女――草野風香は、見えない壁に阻まれているかのように、その場からしばらく動けなかった。



 一週間前のことだ。

 風香は詠治のために夜食を作って家を抜け出し、彼のアパートを訊ねた。もう晩御飯は食べて終えてしまったかもしれないけど、片桐くんのことだからきっと夜も勉強してるはず、風香はそう考えたのだ。

 アパートの敷地に入ろうとしたところで、ドアがギイと軋む音が聞こえた。音源のほうを見やると、アパートの二階、詠治の住む部屋だった。

 詠治が洗面器を抱えて外に出てきた。――あぁそうか、これからお風呂に入りに行くんだ。お風呂がないアパートだってぷりぷり怒ってたっけ。

 風香は少し迷ったが思い切って声をかけようとした。詠治はいつ話しかけても不機嫌そうだから、第一声にはいつも風香は緊張する。

「かたぎ――――」

 風香はそこまで言って口をつぐみ、慌ててアパートの門から飛び出した。

 彼女は見たのだ。

 詠治のほかにもう一人、彼の部屋から人が出てくるのを。

 女の子が、出てくるのを。

 詠治と同じように、洗面器を持って。

 風香は混乱した。差し入れの夜食を持ったまま走って家に帰り、気分を落ち着かせようとベッドにもぐって目を瞑った。けれど、混乱は去ることを知らず、そのまま風香の中に居座った。

 風香はその日以来、詠治のアパートを見張ったり、彼の行動を監視するようになった。あの知らない少女はどういうわけか夜になると詠治といっしょに姿を現している。

 二人で銭湯に通い、

 二人でアパートに帰る。

 二人で。

 ――その子は、誰なの? 片桐くん……。

 ずっといっしょに住んでいたのだろうか。それとも最近になっていっしょに暮らすようになったのだろうか。

 それ以前に、二人はどういう関係なのだろうか。

 積み重なる疑問に、風香は答を見つけられずにいる。見つけたいのかもわからない。

 自分にとって都合のいい答が用意されているとは、思えないから。


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