『彼と同棲しているのです』
詠治の住むアパートはユリアの時代ほど旧時代的ではないが、それでもまあ、言ってしまえばボロい。木造二階建て、築二十五年とのことだが、もう二十五年ほどサバ読んでいそうなほどにくたびれている。
そんな朽ちたも同然のアパートには、当然のことのように風呂はついていない。否応なしに銭湯に行くしかないのだ。幸い銭湯はアパートから歩いて三分もすれば着く距離なので、それだけが救いだ。
ユリアと住むようになってからは、毎晩二人で洗面器を持って通っているのだが、ユリアは長風呂で、詠治はいつも銭湯の入り口前で待つ羽目になる。
今日も待つこと三十分、ようやくユリアが女湯の暖簾をくぐって現れた。湯上りだからか頬を上気させ、湯加減がよくてご機嫌らしく口元を緩めている。髪の毛はしっとりと濡れて艶やかだった。
「遅い」
「良い湯加減でした」
「せめて言い訳ぐらいしろ」
「言い訳をしてもしなくても、いずれにせよエイジは怒るでしょう。ならば、素直に湯の感想を述べたほうがいっそ気持ちが良いです」
「気持ちが良いのは湯上り直後のお前だけだ」
五月とはいえ夜になれば結構冷えるもので、詠治は既に湯冷めしきっている。温かいコーヒーでも飲みたい気分だ。
――コーヒー、か。
「行くぞ」
詠治はユリアに構わず歩き出す。彼の背中に向かってユリアが声をあげる。
「エイジ、帰る方向が違いますよ」
「今日は晩飯を外で食うんだよ」
バイト代も出たことだしな、と詠治は内心でつぶやいた。
*
喫茶無菌室を訪ねると、相変わらず客は一人もいなかった。店主のお夏婆さんはカウンターの内側で椅子に座り、こくこくと居眠り中で、まるで商売っ気がない。
「お夏婆さん」
詠治が声をかけると、口の中で解読不能な言語をモゴモゴと発しながら、お夏婆さんは皺に埋もれつつある小さなまぶたを開いた。「おや、詠治か。そうかぁ、今日は二十五日か」
「……僕が晩飯を食べに来た日で日付を確認しないでほしいんだけど」
「じゃが給料日だから来たんじゃろ?」
「…………」
否定できない詠治であった。彼は不機嫌そうにカウンター席に腰を下ろす。「おい、そんなところに突っ立ってないで、お前も座れよ」
「え、あ、はい。雰囲気の良い店なので、つい見とれてしまいました」
ユリアはきょろきょろと店内を窺いながら、詠治の隣に座った。「良い香りですね。それに音楽も耳に心地良い。しかし奏者がいないのはどういうことでしょう。これも魔法ですか?」
「…………」
まだまだ三百年のブランクは埋まっていないようだ。詠治は店の中のスピーカーとレコードプレーヤーを指差し、簡単に説明した。
「なるほど。それは便利ですね。奏者がいないのはいささか寂しいですが」
「そうかぁ? ――さて、と。お夏婆さん、コーヒー二つとカレー二つ、よろしく」
「…………」
「お夏婆さん?」
お夏婆さんの返事がないので視線をそちらに向けると、彼女は細い目をいっぱいに見開き、口を半開きにしていた。体を小刻みに震わせ、ユリアに見入っている。
「……………………詠治、その娘はどなたかな」
長い沈黙を要して、お夏婆さんは小さく声を出した。
「あ、あぁ」
お夏婆さんは詠治が女性を連れて来店したことに驚いているようだ。いつも一人で来店している詠治が、女性を同席させ、しかも二人とも洗面器を持っている。どう見る角度を変えても二人が親密な間柄だと思われてしまう。
どう誤魔化そうかと考えあぐねていると、ユリアが勝手に名乗り始めた。
「これは失礼しました。私の名はユリア――ユリア・トラドットです」
「ユリア?」
お夏婆さんが首を傾げた。何か聞き違いでもしたかのように。
「はい」
「ええと、お夏さん、あれだよ。ナンパに成功しちゃってさ……」
自分で言っていてなんて低劣な嘘だと呆れている詠治だった。
「ナンパじゃと? はんっ、勉強のことしか頭に無いお前さんにナンパなどできようものか」
案の定、お夏婆さんは誤魔化されることなく鼻で笑っていた。しかし、その割にお夏婆さんの様子には違和感を覚えて仕方がない。
女連れの詠治をからかうわけでもなく、かと言って叱るわけでもない。いつものどっしり構えた様子は消え失せ、むしろ注意力を研ぎ澄ませているかのように顔つきは強張っている。
「本当です、夏」
ユリアが何か言った。
「「は?」」
詠治と夏は声を揃えて聞き返した。こいつ、今何を肯定したんだ? と。
その疑問に、ユリアが淡々と答えていく。
「私はエイジの勉学に励む様子に胸を打たれ、今彼と同棲しているのです」
「「…………」」
詠治と夏が言葉を失ったのは言うまでもない。




