七話
驚きに目を瞠ったナナシの首から、勢い良く赤いものが迸る。
それは傍に居た梓を濡らし、また、部屋の壁にべたりと貼りついて重力に従い落ちていった。
「……あ、」
何か言おうとしたナナシの唇から逆流した血液がごぼりと吐き出される。
喉からはひゅうひゅうと空気が漏れているかのような妙な音を発し、しかしそれもすぐ弱々しくなり途絶えてしまう。
ナナシはがくりと首を反らした。虚空を見上げた瞳孔は開ききっている。
もう何の光も浮かばないそれを淡々と見下ろし、梓はナナシを横たえるとおもむろに立ち上がった。
台所へ向かって、手にしたのは包丁。
ナナシの服をまくし上げて日に焼けていない白い肌を露にさせると、一片の迷いもなく包丁を皮膚に突き立てた。
凶器を握る手に力をこめ、肌を切り裂いていく。そうして皮膚を捲ってお目当てのものを見つけると、梓はまるで道端に花でも見つけたかのような笑顔を浮かべてみせた。
「これだぁ」
あのころはわからなかった、「音」の「元」。
梓は躊躇うことなく指を突っこむとお目当てのそれを掴んで引き摺り出した。
「私がずうっと、欲しかったもの」
脈拍の大本。梓が最も安心できる八ビートのリズムを刻む音源。
血と脂で汚れるのも構わず、梓はそれに頬ずりした。
――温かい。
そう、これが欲しかったのだ。なのにちっとも思い至らなかった。ただ自分は、脈に血潮に固執しているものだとばかり思っていた。
その認識も間違いとは言えないが、本当に欲していたのは別だった。
だから満足し得なかったのだ。犬のときも、彼のときも。
いとしいおと、つかまえた。鳴らなくたっても仕方がない。
大切に、大切にしよう。どこかになくしてしまわないように。
とくん。
「…………?」
ふいに、手にした心臓が震えたような気がして梓は目を丸くした。
まじまじと見つめているともう一度。弱々しく、しかしはっきりと、それは震えた。
そのうち沈黙の感覚は短くなっていく。
ゆっくり、しかし次第に心臓は八ビートを取り戻しはじめた。
梓の、てのひらの中で。
「……もう、いいかな」
ぽつりと呟かれた言葉に梓はぎょっとして声のする方を向く。
見れば、仰向けになったままのナナシがこちらを静かに見つめていた。
「ひっ、」
思わず声が引き攣って、梓は息を呑む。
そうしているうちにも手の中の心臓は平常を取り戻し、ナナシがゆらりと幽鬼さながらに上体を起こした。
ぬっと手を眼前に差し出され、梓はびくりと震える。
頸動脈を裂かれた上に胸まで裂かれて、あまつさえ心臓を引き摺り出されているというのに、ナナシは動じた様子なくただ梓に向かって手を差し出している。
梓は訳もわからず、がたがた震えながら焦点の合わない目でナナシを見つめた。
ナナシは、もう片方の手で困ったように首の後ろを押さえた。
「返してくれないかな。それ」
ないと困るんだよね、とナナシはごく普通に言った。まるで日常で使う生活用品のような言い方だった。
梓が震えながらも脈打つ心臓を手渡すと、ナナシは胸の空洞にそれを詰めこむ。ずいぶんと無造作だった。
捲れた皮膚を元のように戻し、ぺたぺたと触る。
皺にならないように伸ばして馴染ませるかのように撫でつけると、それはいつの間にか治癒しており、梓は息を呑んだ。
同じようにごしごしと首を擦れば、傷痕などもとからなかったかのように綺麗さっぱり消え失せた。
これでナナシの襟元や服の一部、壁や床に血糊が付いていなければ、まるで夢か幻の中の出来事のよう。
そうか、と梓はようやく理解した。
自分は今まで決して幻覚を見ていたのではない。
本当にナナシを何度も絞め殺し、そしてその都度ナナシはこうして甦生していたわけだったのだ。
「さすがに今日はやりすぎだよ」
ナナシが困ったような顔をしてそう言う。
「いくら僕でも心臓がないと大変なんだから。あんまり猟奇的な方向に走るのはやめてくれる?」
あまりに普通に、ナナシが窘めるものだから。
梓は思わずじわりと涙を浮かべた。
「なん、で……? なんでなの……!?」
どうしてナナシは今まで一度も梓のことを責めなかったのだろう。
どうして何度絞め殺されても、ごく普通に接してくれた?
今だってそう。なぜ、簡単に赦すの。
わかっている。自分がどうしようもなく狂っていることくらい。こうして少しでも落ち着いてしまえば、いやでも異常だということがわかる。
それなのに、どうして。
どうしてナナシは拒まない? 追い出さない?
そもそも、
これは一体どういうことなんだ。