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血塗られた首  作者: K
6/8

六話

 「ねえ、なんだか私……おかしくない?」

 ある日堪らず、梓はそう言った。

 自分ばかりじゃない。色んなことがおかしい。

 例えばこの、あまりに現実感のないふわふわとした日々。今日が一体何日で、飛び出してきたあの日から何日が経ったのか、分からないということ。

 時は確実に経過しているはずなのに妙ではないか。ひどく鎖されている感覚を受ける。

 それなのに此処はその歪みをひた隠しにしようと、無理矢理平常を貼りつけているようなものだった。

「そう?」

 変わらずナナシは素っ気なかった。

「おかしいって、何が?」

 静かな瞳に見据えられ、梓はしばらく逡巡する。しかしそのまま黙ってもいられなくなり、とうとう口を割った。

「ナナシを殺すゆめをみるの」

 そう言いつつ梓にはそれが夢だと確信を持って言うことはできない。

 最早すべてが疑わしい。

 五感すらも。

 この目に映っているのは、果たして「真実の姿」なのだろうか。

 此処こそが永久の夢の中なのではないだろうか。

 この部屋には、世界には、肯定も否定もない。

 微温湯すら一定温度まで冷えていけばただの冷水になる。

 そういうこと。

「不安なんだね」

 梓は頷いた。それは、確かだ。

 ならば、とばかりにナナシは梓を抱き寄せて背中を撫でる。

(違うそういうことじゃない、)

 梓は歯噛みしたい衝動に駆られた。

 駆られながらも、どこかいつものように絆されてしまいそうになる自分は、望むお菓子を与えて貰い満足している幼子のようだ。

 気休めの優しさは所詮一時の幻。

 お菓子がなくなると子は泣きだす。寂しい寂しいと泣き喚く。

 欲しいのは甘いお菓子じゃない。

 そうじゃない。

 そうじゃない、ナナシ。

 本当に欲しいのは、


 本当に欲しいのは?


「……ねえナナシ」

「ん?」

「私のこと、すき?」


 ひとみをとじて、耳はナナシの胸に当てたまま問う。

 心音はいつも揺るがない。同じリズムで脈を刻み続ける。いつ、いかなるときも。


 ことこと、ことこと。


 少女だったころの梓は思った。

 この愛らしい子犬の体の中には、一体何が詰まっているのだろう。

 一体何がこの愛すべき音を生むのだろう。

 不思議で仕方がなかった。

 子犬は名を呼ぶといつも嬉しそうに尻尾を振って寄ってきた。

 梓が何処へ行くにもその後ろをよちよちとついてまわり、ぱたぱたと尻尾を揺らしながら純真な真っ黒の目をこちらに向けるのだ。

 あんまりに、いとしすぎてあいしすぎて、

 好奇心、

 衝動、

 独占欲、

 ゆえに。

 ある日梓は過ちを犯してしまった。


 少女は無知が故に残酷だった。

 子犬の頭を撫でてやりながら、笑顔で、如何にも自分は敵じゃないとばかりに訴えかけながら、笑顔で、子犬の首を針金で絞めた。

 The poor puppy has died.

 少女は純粋が故に愚かだった。


 数あるマザーグースの唄の中に、「女の子は何で出来ている?」という詩がある。

 お砂糖にスパイス、それに、素敵なものすべて。そういうもので女の子は出来ているんだよ。

 梓はそんなマザーグースの詩をまるきり信じているようなもので、子犬の中には何か夢みたいなものが詰まっているのではないかと思っていた。

 ロマンチックなことを信じる夢見がちな年頃だったのだ。


 少女は好奇心と期待に満ち溢れて子犬の解体に臨んだが、それは結果として虚無を与えるだけに終わった。 きらきらしたものや、ふわふわしたものは、そこには存在しなかった。

 ただ赤黒くぬるぬるした見るに堪えないものが入っているだけだった。

 少女の愛した音はもう聞こえない。

 そうなると、少女は落胆の溜息を禁じ得なかった。


 ふと、

 理想の泡が弾けて少女は我に返る。

 そうして冷静に見下ろしてみると、足元にはひたすら陰惨な光景だけが広がっていた。

 白い毛並みを赤く汚したそれは仰向けに転がり服従のポーズを取りながら、内容物を白日の下に曝している。

 足元を、お気に入りの白い靴を濡らす大量の赤。

 紅に染まる視界。

 少女は思わず口元を抑えたが、一歩間に合わず、小さなてのひらに胃の中身を吐き戻すこととなった。

 唐突に自分の犯した罪の重さに押し潰され、少女はその場にぺたりと腰を抜かした。

 最早どうすることもできないそれの恐ろしさに怯え、気がつくと記憶に鍵を掛けていたのだ。

 深層では囚われたまま。



「好きだよ」


 柔らかな声を認識して、梓は病んだ眼を見開いた。

 見上げるとナナシは微笑んでいる。

 微笑んですらいる、何も知らないナナシ。

 ――鍵は見つけた。引き出しは開いた。

 本当に欲しいもの。梓が心から望んで止まないもの。


 与えて貰えないのならば、自力でこの手に得よう。


 ポケットの中に無造作に手を突っこむと、指先を微かな痛みが走った。

 指についた赤い線も気にすることなく梓はそれを指の間に挟む。

 「それ」は分解したカッターから得た、薄い剥き出しの刃だった。

 ナナシの頬に左手を添えて、顎を上向かせる。

「あず……」

 名を呼ぼうとしたナナシに梓は笑みを返して、極めて的確に頸動脈を一閃した。

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