五話
曜日感覚や時間経過が曖昧になってからもう随分と経つ。
梓はナナシに懐いていた。それは文字通り「懐く」というものだった。
擦り寄れば、ナナシはその大きな手で甘やかしてくれる。まるですべてを赦すかのような、慈愛に満ちたてのひら。もたらされる安堵感は、梓にとってかけがえのないもの。
梓が何をしてもナナシは決して拒まなかった。ある種無関心とも同義と言えたが、それでも傍に居られるだけでよかった。
「ナナシ」
呼ぶとナナシが振り返った。
「好きだよ」
まっすぐ目を見てそう言う。対するナナシの瞳は朝の湖面のように静かだった。
その落ち着いた表情に、梓は「場慣れ」している印象を抱く。何に、ではなくあらゆることにだ。ナナシのそれはどこか達観しているように思えてならない。しかし、それが不満だと思ったことはなかった。
「ありがとう」
ナナシは曖昧に微笑った。ただそれだけで、他には何もない。
けれど梓にはそれで充分だった。呼べば応えてくれる、そんな関係でいられることに充足していたから。
梓が時折襲ってくる不安や恐怖に身を縮めていると、ナナシは察して胸に抱いてくれる。
その行為に疾しさは感じない。まるで肉親かのように、梓を甘えさせてくれる。
さらさらと髪を梳かれる感覚に幼いころに戻ったかのような気分になりながら、全幅の信頼を寄せてナナシに凭れる。
胸から鼓膜に響く、一定のリズム。穏やかなそれは梓の心を何より落ち着かせ、
また、騒がせる。
幼いころ、梓は犬を飼っていた。
真っ白い毛並みのふわふわしたまだ小さな子犬。抱っこするとてのひらに伝わる、ことことという心音。
大好きだった。
本当に大好きだった。
これほど依存し好意を寄せているにもかかわらず、気がつくと梓はナナシを手にかけてしまっていた。
記憶の空白があり、ふと我に返ってみるとナナシはいつもぴくりともせず転がっている。まるで眠っているかのような顔をして息絶えているのだ。
そのたび、梓は発狂しそうになった。自己嫌悪と後悔と悲痛にただ頭を掻き毟った。
一体どうしてこうなってしまうのだろう。
何度も何度も悲観し、絶望に打ちひしがれた。
しかし次に気がついたときには、ナナシは何事もなかったかのように生活しているのである。
もう、わけが、わからない。
一体
なぜこれほどまでに大切に想っているナナシのことを殺してしまうのだろう?(それが幻覚だとしても。幻覚ならば尚更そういう願望が強いということになる)
ナナシ自身に対する不満などはないはずだ。
起伏のない日常に、何の憤りを感じるだろう。ナナシと過ごす淡々とした日々は梓自身満足感を得ており、気に入っているのだから。
考えれば考えるほどわからない。しかしそれは、まるで大切な玩具を使いぬいて、結果壊してしまう子どもに似ている。
なくしたくない、たいせつなもの。
大事すぎて、いとしすぎてあいしすぎて、“ ”ゆえに壊してしまう。
梓にはこの空白に当てはまるものが何なのか皆目見当もつかない。
きっと自分の中にあるに違いないのに、それをしまっていた引き出しの鍵を失くしたかのような。
自分はおかしい。
おかしい。
なぜだろう?
おかしい。
おかしい。