三話
それは何とも妙な具合の共同生活だった。
ナナシは基本的に一日中どこにも出掛けず、パソコンと向かい合っている。遊んでいるのかと訊いてみると、心外そうな声で仕事だと答えた。
「君こそずっとうちにいるけど、大丈夫なの?」
「わ、私はいま大学が秋休み中なの!」
ふうんとナナシは素っ気ない返事をした。何日か一緒に生活してみて打ち解けたというかある程度気兼ねなく話せるようにはなったのだが、ナナシのことはあまりにも不明な点が多すぎる。
歳はいくつくらいなのかと訊けば、少し考えたのちに梓とほぼ変わらないくらいだろうと答えた。
「ほんと? 私、二十一なんだけど」
「そうなの? じゃあもう少し上かな」
なぜ明確な年齢を言わないのかとか、ナナシから見て梓はいくつに見えたのかとか、聞きたいところは色々あったが黙っていた。
自分が幾つなのか上手く把握していない様子のナナシが不思議で仕方なかったが、年齢不詳的な雰囲気もあることだしそれでもいいか、なんて思う。大概適当な思考になってきた。
首を傾げるようなことはたくさんあっても、数日間のうちに此処が少なくとも安全なのだと分かった。
脅かすもののない平安な生活。それは梓の望むところだった。だが一体脅かすものとは何か、梓にとって危険なものは何か、依然はっきりしないことは多い。
家に帰れないと思うのはなぜなのか、秋休みが明けたときに梓はどうするのか。
梓は頭を振る。――いまは考えたくない。
『……次のニュースです。今月十二日に都内のマンションで大学生が殺されるという事件について、目撃者の証言によると――』
感情のない声で原稿を読み上げるアナウンサーの声に、梓は思わずびくりと身を縮めた。
「あ……」
爪先から這い上る悪寒。指先が冷たくなって、血の気が引いていく心地がした。
ニュースが怖い。
どうして?
どうしてこんなに体が震えて止まらないのだろう。
「梓?」
自分の体を抱きしめるようにしてがたがたと震える梓を見て、ナナシがそっと寄ってきた。
「どうしたの。ニュースが怖いの?」
梓は答えない。否、答えられない。
かちかちと歯の根が合わないほどに怯える、尋常じゃない様子の梓。
ナナシはテレビを一瞥し、無言で手を伸ばす。その先にはテレビのリモコンがあった。
ぷつりと途切れる映像と音声。梓は浅く呼吸を繰り返している。
「見たくないものを見る必要はないよ」
言うとナナシは梓の手を握ってみせ、震える背中を軽く慰撫した。
「ナナシ……」
涙の滲む目でナナシを見つめて縋れば、ナナシは優しげな視線を向けて抱き締めてくれた。
「君が怯えるのも無理はない。何しろ酷い事件だったからね」
恐怖が去るのをやり過ごそうと、ナナシの声を聞きながら目を瞑る。
柔らかい口調。ほっとする。このままじっとしていれば、きっと悪寒は過ぎ去ってくれるはずだった。
「被害者の大学生は頸動脈をばっさりやられてたそうだね。争った様子もなかったそうだよ」
穏やかな声で言われたその言葉に、梓がぴくりと小さく反応する。
「不思議なことに、現場にはそれほどの量の血痕はなかったんだって。どういうことかわかる?」
ニュースを見せないようにとテレビを消したくせに、ナナシは淡々と言った。
細かく震える梓に、気づいているのかいないのか。
「犯人はその全身に血の洗礼を受けたってことだね」
視界が染まる。鮮やかな紅へと。
充満する鉄の臭い。
狂った笑い声。
誰のもの?
だれの、もの?
鼓膜に伝わるナナシの心音。
血液を運ぶ心臓の。
脈拍音。
脈。血潮。
鮮血。
くれない。
こわい。
……怖い。
しずかに。
おとが。
今は、怖い。
しずかに。
しずかに。
しずかに!
梓は顔を上げ、ナナシの落ち着いた表情を見上げた。
両腕を伸ばす。
ナナシの、首に。
そして、
梓はその両手に力をこめた。
がたん、という音ではっとした。
仰向けに倒れたナナシ。
目を瞑って、ぴくりとも動かない。
首についた指の跡。
てのひらに残る、絞めた生々しい感触。
「あ……あぁあああっ……!」
梓は震えながら自分の両手と動かないナナシを見つめ、それでもどうすることもできず、ベッドに逃げこむと頭から布団をかぶった。
嘘。こんなの嘘だ。
どうして?
怖い!怖い!怖い!!
ころしてしまった。
ナナシを殺した。
いやだ。嘘だ。
ねえ、嘘だと言ってよ。
助けて。誰か、助けて!
怖い!
だれか、
だれか!