二話
手を引かれるままに辿り着いたのは、築数十年と見られる小ぢんまりとした木造アパートだった。
外付けの階段を踏み鳴らしながら上り、奥の角部屋を開ける。鍵を差した様子がなかったのが不思議だった。まさか、施錠していないなんてことは考えにくいのだが。
濡れ鼠のまま部屋に上がるのも忍びなくて、玄関にも入らずおろおろしていると、先に部屋に上がった男がタオルを持ってきた。
毛先から雫を垂らす髪や濡れた顔を拭いて、ふと息を吐く。そして、思い出したように身震いする梓に、男はお風呂を貸すよと言ってくれた。
湯を借りて、冷えた体をゆっくりと温めて、散らかっていた頭の中が少しずつ整理されて鮮明になっていく。
「あの……ありがとうございました」
タオルで髪を拭きながら、梓は改めて男に礼をした。
「服まで貸してもらっちゃって……」
「気にしなくていいよ。それより、男物でごめん。君の服も洗ったらすぐ返すからね」
言いながら、梓の目の前にホットココアを差し出す。
テーブルに着いて、受け取ったカップを両手で持つ。息を吹きかけて冷まし、ゆっくり口をつけると内側から温まるような心地がして、梓はほっと安堵した。
「甘くておいしい……」
つぶやくと、男は柔和な笑みを浮かべてみせる。それで梓もつられるように、ようやく少しだけ表情を緩めた。
「……あの」
カップの中のココアを見つめながら梓は言う。
「どうして私のこと……」
そこから先はうまく言葉にならなかった。
拾ってもらった? 助けてもらった?
しっくりいくものが見つからないが、要はそういったこと。
ああ、と男は察したように言う。
「気になったから」
「気になった…?」
「だって、雨の中で傘も差さずにうずくまってる子がいたら、普通は気になるものだろう?」
小首を傾げながら言う男を、梓は窺うように見つめた。
何か下心があるようには見えない。では、純粋なお人好しなのだろうか。
男は梓の値踏みするような視線を気にしたふうでもなく、束ねていた髪を下ろした。
ゴムが解かれて背中まである黒髪がふわりと広がる。結んでいたときには気がつかなかったが、髪にはゆるくウェーブがかかっていた。
不思議な、独特の雰囲気を持った男。虹彩は深みのあるブルーグレーで、初めて見るような色だと思った。
薄くはないが透明感があって宝石のような細かい輝きが散りばめられている。じっと見ていると吸いこまれそうなそれは、どこか猫の瞳にも似ていた。
「……どうかした?」
声を掛けられ、はっと我に返る。
気がつけば梓は身を乗り出して男の目を見つめていた。
「その……ごめんなさい」
慌てて居住まいを正し、梓は改めて男を見返す。
「私、行く宛てがなくて……もしよければ、なんですけど……しばらくここに居させてもらえませんか?」
元いた場所に戻ることなんかできないし、家にだって帰れない。
どこにも宛てがない自分。けれどもし、ここに居させてもらえるなら。
それなら「大丈夫」かもしれない。
知り合ったばかりの他人でこの男のことを完全に信用しているわけでもないが、危害は加えないと言った。その言葉を信じたい。
「別に構わないよ」
男は淡々と承諾した。拍子抜けするほどあっさりとした回答だった。
「君、名前は?」
「梓……八重洲梓です」
頭のどこかでフルネームを名乗るのは危険だと警告する声が聞こえたような気がしたが、梓はそれを敢えて無視する。
「あなたは?」
問い返すと男は少し考える素振りを見せ、やや間を空けてからようやく答えた。
「僕のことは……そうだね。ナナシとでも呼んでくれないか」
「ナナシ……」
不思議な名前だ。いや、それは本当に名前なのだろうか。
気になったが深く踏みこむことはやめておく。
過干渉が過ぎれば、いずれ自分も襤褸が出る。それだけは避けたかったから。