一話
彼の首筋が好き。
太くしっかりした逞しい首。喉仏。首筋を指先で、てのひらで包むようにしながら辿る。
ふと触れた頸動脈。指の下で張り裂けんばかりに血潮が脈打つ。それは新鮮な驚きと、喜びをもたらしてくれるもの。
口許に薄く笑みが浮かぶ。
ああ、これが、欲しかったの。
「ねえ……目、瞑って?」
一定のリズムを刻んで、押し上げるように脈動する。なんて素敵なんだろう。
ふふ、と唇から零れた笑い。
無防備に目を閉じた彼の首筋に、指に挟んで隠した薄いカッターの刃を押し当て――――
***
空には重く垂れこんだ黒い雨雲。昼間というのに暗く、降りしきる雨で霧がかかったように不明瞭だった。
傘も差さずに部屋から飛び出し、八重洲梓は水溜りを蹴散らしながら住宅街を駆けた。時折背後を振り返るその顔には切迫の色が強く、何かから逃れるかのように無我夢中で足を動かす。
どれくらい走ったか、此処が何処なのか、分からなくなった辺りで梓はようやく失速した。
ふらふらの体を電柱に凭れさせ、肩で息をしながら雨に冷えた体を震わせる。
――それは決して、寒さだけの理由ではなかった。
「……っ」
呆然と見下ろす、自分のてのひら。かたかたと細かく震える両手。
梓は脱力したようにずるずるとその場に座りこんだ。
どうしよう。
その言葉だけが、頭の中を執拗に駆け巡っている。しかし最早、一体何を「どうしよう」なのか、それが分からなかった。走っているうちにとても大事なものを取りこぼしてしまったような感覚だ。
濡れて貼りつく服の不快さも忘れるほど、梓は混乱していた。
大変なことをしでかしてしまったのは事実だ。だから逃げなければいけない。
どこへ?
一体どこへ足を運べば自分に安息が訪れるのだろう。
どうすれば逃げ切ることができるのだろう。
分からない。でも、何とかしなければ。でも、ああ、どうしよう。
梓はぎゅっと脚を抱えて縮こまり、顔を伏せた。
こんな雨の日にこんな場所で傘も差さずに座りこんで、あまりにも不審すぎる。
それにずっとここにいたって仕方がないのに、行く宛てなどはない。混乱しすぎて涙も出ない。
どうしよう。どうしよう。
どうしたらいいの。
全身を雨に打たれながら、梓は電柱の傍で長いこと座りこんでいた。その間に数人が付近を通りかかったが、誰一人として声を掛けようとする者などはおらず、視線さえも寄越そうとしなかった。
足音が聞こえて、去っていく。その繰り返し。
どれくらい、そうしていただろうか。
あるときふと足音が梓のすぐ傍で止まった。
じっとこちらを見つめているかのような気配に、梓はゆっくりと伏せていた顔を上げる。こわごわ様子を窺ってみると、目の前に立っていたのは男だった。
漆黒の長い髪をひとつに束ね、片手でビニール傘を差し、もう一方でコンビニ袋を提げた男がふしぎそうにこちらを見ている。
「……何、してるの」
唇から紡がれた柔らかい声。
梓はゆるく瞬いた。
「あ……」
ぱくぱくと唇を動かす。しかし、それは言葉にならない。
男が首を傾げた。慌てて何か言おうとするのだが、喋り方を忘れてしまったかのように思考だけが空回りする。
どうしようもなさに俯きかけたとき、男は梓の目の前に手を差し出した。
「うちにおいで。風邪を引いてしまうよ」
見ず知らずの相手だ。何を考えているのかなんて分かりもしないし、危険な人間なのかもしれない。
正直言って見た目が少し怪しいし、何か独特のオーラが出ていて不審でもある。
ちょっと優しく言葉を掛けられたからといって簡単に家までついて行ってしまったら、どんな目に遭わされるか分からないのだ。
警戒している様子が伝わったのか、男はふと微苦笑を浮かべた。
「怯えなくていい。君に危害は加えない。約束する」
まるで、捨てられた人間不信の野良猫を拾うかのよう。
梓はそう考えながら、次第に自分の思考がゆるやかに落ち着いていくのを自覚した。
彼がどんな意図をもって梓に接するかは分からない。けれども、今の梓には誰かの助けが必要だ。そればかりは確かな事実で。
梓は震える手を伸ばして、ゆっくり、男の手に重ねる。
握り返してくれるひとまわり大きな手は、冷えた体にはあまりに温かかった。