表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

夕凪



―― 生きていたくないと思った事がある



―― 死にたいと願った事がある





「ねぇ。一緒に死んでみない?」



 その時の彼女の言葉はあまりにも自然な流れだったため、朝霧は言葉の中の異常性を危うく見落とす所だった。


「え?」


 六時間目の授業が終わり、周りのクラスメート達は帰り支度を始めている。かく言う朝霧も卓上に広げられたノートやらペンケースやらを仕舞っている最中だった。――が。


「あの……失礼だけど、君は……?」



 教室。


 開いた窓。


 夕暮れ。


 茜色。



「私?私の名前は――」



 

膨らむカーテン。


オレンジに染まり――




「――夕凪」


 

 夕凪と名乗った少女は、とりわけて美少女と言うわけでもなく。普段は目立たない、教室の隅っこにいるような。そんな普通の――どこにでもいる感じの―少し無口な女の子だ。

 だけど、今の今まで朝霧は彼女と会話など一回もしたことも無かった。それどころか彼女が誰かと会話している所なんて朝霧は見た事が無い。

 有り体に言ってしまえば、夕凪と言う少女は浮いている。いや、浮いているのでもない。わざと他人の注意から消えるような、空気みたいな存在。

 朝霧は何故、夕凪が自分に声を掛けたか知らなかった。

 彼の記憶が正しければ、彼女が他人とコミュニケーションを取ろうと行動すること自体がまず有り得ない事だから。だから、彼女の口から発せられる声も。あまり―と言うかむしろまったく変化しない表情も。二人で下校していると言う事実も、その一つ一つが朝霧には新鮮だった。


「何故、僕に声を掛けたの?」


 朝霧の隣、1メートル。第三者から見て、二人が一緒に下校していると判断できるギリギリの距離を歩き、少女は俯いたままで答えなかった。

 沈む夕日の沈黙。

 穏やかなオレンジの沈黙。

 そして、黄昏色の沈黙。

 黙々と歩き続ける二人の影。

 朝霧はその無言の空気を破ろうとはしなかった。

 それは少年にとっても不思議と心が安らぐ雰囲気だったから。

 鋼鉄の秩序とも思えた沈黙を破ったのは、驚くべき事に夕凪の方だった。


「匂い」


 ただ、その一言。

 顔を上げ、『何か』を知っているような、そんな黒い相貌を少年に向けて少女は


「――匂いがしたから。私と同じ匂いが」

 


 民家の庭に咲いたコスモス。

 穏やかな風に吹かれ。

 小さな体を揺らす。



「匂い? 僕と君が?」


 少年は視線だけを夕凪に向けた。


「そう。匂い。生きているのに死んでいる。そんな人間の匂い」


 夕凪は朝霧の表情を窺うように頭をほんの少し動かした。

 ボブカットに揃えられた黒髪が動きにあわせて揺れる。



「そんな人間に生きていく価値があると思う?」 

 


 腹は立たなかった。そんな感情など、彼はとっくの昔に―棄てたか―忘れた。

 少年は答えなかった。

 再び、二人の間に現れる沈黙。



 秋色の空。

 うす雲が一つ。

 風に流れて。流されて。



「だから、私と一緒に死なない?」


 少女の提案は、朝霧にとって、至極真っ当で――ひどく魅力的な提案に聞こえた。



 蹴られた小石。

 薄い橙色のアスファルトを転がり。

 他の石とぶつかりあう。



 答えは既に決まっている。




「いいよ」


 

 少女は小さく微笑んだ。心なしか安堵したようにも見える。


「良かった。朝霧君なら、きっと、そう言ってくれると思ってた」


 眼を細める夕凪。そうしていると、年相応の普通の少女にしか見えない。


「僕たちは似た者同士なのかもね」


 クスリと夕凪が笑った。


「そう。きっとそう」


 朝霧も笑った。もう二度と笑う事なんて無いと思っていたのに。


「そうだ。コレを朝霧君にあげる」


 そう言って、夕凪がカバンから取り出したのは何の変哲も無いただのカッターナイフだった。


「何コレ」とは聞かなかった。このカッターの用途が想像できたからだ。

 夕凪は左手のリストバンドを外し、手首の内側を朝霧に向けた。

 少年の想像は当たっていた。少女の細い手首には痛々しい傷痕が何本も走っていたのだ。


「リストカット用のカッター」


 少女は朝霧にもよく見えるように彼の目の高さにまでカッターを持ち上げ、左右に振って見せた。


「ありがとう。大切にするよ」


 朝霧はカッターを受け取ると、それを制服の胸ポケットに仕舞った。

 


 血液を十倍くらいに水で薄めた感じの赤い空には青白い月が浮いていた。



 まず、『死』を語るには、痛みの中で目覚める快感を知らなければならない。と夕凪は言った。

 最初の出会いから数日が過ぎていた。

 特に意識している訳ではないが、朝霧と夕凪は今日のように三日おき程のペースで自分達の人生に相応しいピリオドの打ち方を考えている。

 その間に夕凪の左手の傷が一本増えている事を朝霧は気づいていた。

 自殺の方法を楽しそうに話す少女は、とても『負』の感情に突き動かされているようには見えなかったが、着実に、確実に彼女が立てた『決行』の日は近づいている。


「僕たちの死は、周りの人たちにはどう映るかな」


 下校の最中、若干、隣を歩く距離が縮まった少女に、朝霧は聞いた。


「死んだ後の事なんて関係ないよ」


 夕凪の態度はそっけない。


「じゃあ、人間は死んだらどうなるのかな。死後の世界を夕凪は信じる?」


 話題を少し変えてみた。が、


「死んだ後の事には興味ない」 


 彼女の返答はさっきとまったくと言っていい程同じだった。

 その事が朝霧には少し意外に思えた。自殺を希望し、道連れまで求めているのに、この少女は死んだ後の事をこれっぽっちも考えていないのだ。

 胸に溜まったこれらの事を、朝霧は包み隠さずに夕凪に言った。

 夕凪はそれこそ意外だと言う風に、


「別に次の人生を求めて死ぬわけじゃないし」


「じゃあ、夕凪は何故死のうとするのさ?」


 この質問は、愚問だった。彼にとっても。彼女にとっても。

 

 

 朱い葉を透かした紅い木漏れ日が

 その儚い命を自らの手で散らそうとする

 少女の髪を照らして




「この世に生きる価値があると思う?」



 夕凪の回答―質問を質問で返しているが――に朝霧は苦笑で答えた。

 この少女は自分と同じ事を考えている。

 その事実が何よりも少年の心を満足させた。



 夕凪とは途中まで帰り道が一緒だが、住んでいる町内が違うため、中途で分かれる事になる。

 別れ際に夕凪は、


「いよいよ明日だね」


 そう、ついに明日は『決行』の日なのだ。


「そうだね。準備は整っている」


 朝霧は夕凪に頼まれていた全ての品物を時間を掛けて調達していた。


「約束だよ」


 少女は今日何度目かの言葉を口にした。


 約束――一緒に死ぬ約束。

 朝霧も望んだ結末。

 彼は、小さくなる夕凪の背中を彼女の姿が見えなくなるまで見送っていた。




 朝霧は非常灯の出す緑色い光で照らされた待合室の長いすで、時計の針が動くのをただ見つめていた。

 数十センチの間合いを空けて椅子に座るは、夕凪の両親で、―成る程、言われれば母親と夕凪の面影が似ている――こちらは落ち着き無く視線が移動している。

 けして広いとは言えない待合室を支配しているのは、静寂でもなく、やたらと大きく聞こえる時を刻む秒針の音だけ。もしも、この音すら無かったとしたら――

 そこで朝霧は考えるのを止めた。考えても詮無い事だと気づいたから。

 そして同時に、自分の胸の奥底、心の底辺に積もり始めた、澱のようなものの存在にも気づいていた。


 二時間程前、朝霧は夕凪との待ち合わせの為、夕凪の指定した深夜の公園にいた。

 公園と言っても、住宅地の一角に申し訳程度に用意された物で、そんなに広くも無い。

 小さなブランコに気持ちだけ揺られながら、朝霧は少女の到着を待っていた。

 白く輝く街灯に、蛾や羽虫が群がり、小さな音を立てる。

 待ち合わせの時間が十分過ぎた後、朝霧の携帯電話が鳴った。


 それは、夕凪が事故にあったという知らせだった。



 電話を掛けてきたのは、夕凪の母親。酷く慌てていて、最初の内はまったく要領が掴めなかったが、それでも事態は飲み込めた。

 


 夕凪は、酒に酔った大学生の運転する車とぶつかった。

 頭部を強く打ち、意識不明の重体。

 彼女の手には、朝霧に電話する寸前の携帯電話。


 

 夕凪はもしかすると死ぬかもしれない。

 

 何も考えられなくなった。


 

 

 手術中の灯火が消え、中から、眼鏡を掛けた医師が出てきた。


「娘は……」


 椅子から立ち上がり、娘の安否を気遣う夕凪の両親。

 医師は眉間に深い皴を刻むと、首を横に振った。


「大変申し訳ありません……当方としては手を尽くしたのですが……」


 「わあっ」と泣き崩れる夕凪の母親。


「心中、お察しします」


 医師は続けた。

 何も言わずに、夕凪の父親が頭を深く下げる。


「あの……」


 医師は即座に朝霧の考えを汲み取ったようだった。夕凪の眠る集中治療室に通される。


「あまり、時間はかけないように」


 年配の看護婦が出際に釘を指した。


「……夕凪」


 白い病衣を着て、清潔なベッドに半身を出して寝かされた夕凪は、本当に眠っているようにしか見えなかった。

 何重にも巻かれた包帯からはみ出したやわらかな髪を手ですくってやる。


「夕凪……良かったね。これが君の待ち望んでいた『死』だよ」


 語りかけずにはいられなかった。

 彼女が眼を開けないと知っていても。


「でも、僕は……とっても自分勝手で我侭だけど、君に死んでほしくないと思っているんだ」


 夕凪の細い左手を握る。何度も繰り返された自傷の痕が、今更ながら朝霧の心を傷つけた。


「なぁ、夕凪。一緒に死ぬ事が出来るなら、一緒に生きていく事だって出来たんじゃないかな?」 


 答えは無い。

 ある訳が無い。

 もう、彼女はここにはいないのだから。

 


 朝霧は、胸のポケットからカッターナイフを取り出した。

 あの日、夕凪が彼に渡したカッターだ。

 何の迷いも無く、彼はキチキチと刃を押し出して左の手首に当てると、力強く押し引いた。


            








 ――生きていきたいと思った事がある












         『―夕凪―』―了



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ