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赤い傘 光る水たまり


『――天稜市に降り続ける雨は三週間経った今でも、止む気配がありません。この雨により、増水。地滑り等の事故が多発しています。周辺住民の皆さんは、十分に注意して下さい。この異常とも言える雨に対し、気象庁は――』


 地方ニュースのキャスターはまだ喋り足りないようだったが、仕方が無い。見る人間が居もしないのにテレビをつけておく道理は無い。――少なくとも彼はそう思っていた。

 ガスの元栓を確かめ、部屋の明かりを消す。ハンガーに無造作に引っ掛けられたナイロンパーカーを引っつかみ、これまた無造作に袖を通す。

 横目で時計の針を確かめつつ、彼は狭い玄関へと飛び出した。

 慌ただしい動作で靴を履く。もちろんその間に備え付けの鏡で寝癖を手櫛で整える事も忘れない。

 そして彼はアパートのドアを乱暴に開けて我が家を出ると――数秒もしないうちに引き返してきた。

 下駄箱を兼ねた傘立てからこの前コンビニで購入した半透明のビニール傘を取り出し、キィキィ悲鳴を上げるドアを閉める。

 と、傘を差す余裕もなく、霧雨の貴婦人が冷たい抱擁を求めてきた。

 服に付いた雨粒を恨めしげに見つめると、彼はすっかり空に張り付いてしまった曇天へと視線を移した。





―― この雨は三週間も前から止む事無く降り続けている ――



 


 彼の記憶が確かならば、日本と言う島国には雨季が存在しない筈だった。

 ――しかし、この状態はもう雨季と言うよりほか無い。

 最初に雨が降ったのは三週間前だった。梅雨時だし雨が降るのは当然だろうと誰もが皆そう思っていた。人々の顔色が変わり始めたのは一週間を過ぎた当たりからだ。

 この雨は止む事が無い。時折雨脚は弱まる事も有るが、昼夜を問わずに振り続けている。

 晴れ間を見ることも無く、家庭を預かる主婦の皆さんはさぞかし頭を抱えていることだろう。

 農作物にはすでに影響が出始めているらしい。

 そして奇怪な事に、この雨は天稜市にしか降っていないのだ。例え全国ニュースで「今日は日本全国、晴天でーす」と言われても、天稜市は晴天など望む事も出来ない。

 この奇妙な雨は専門家にも説明出来なかった。中にはこの雨を驕り高ぶった人間に対する大自然の罰だと言う者まで現れた。


(あながち外れでもないかもしれない)


 彼は前方の閉ざされた踏み切りをビニール傘越しに見ながら、嘆息混じりに思った。

 振り続ける雨はアスファルトの上に水溜りを作り、順調に領土を拡大させている。彼の靴とジーンズの裾は水を吸ってすっかり変色していた。

 『彼女』と出会ったのはその時だった。

 踏み切りの向こう。霧雨のベールの向こう側に『彼女』はいたのだ。

 この視界を遮る雨の中でも、しっかりと自己主張をする黄色が、『彼女』の存在をかろうじて支えていた。

 電車が彼の前を横切り、一瞬『彼女』の姿を消す。

 静かに、しかし面倒くさそうに持ち上がる遮断機。

 知らず彼は『彼女』のすぐ傍まで歩み寄っていた。

 五、六歳くらいのオカッパ髪の少女だ。黄色い傘に、黄色い雨合羽を着込み、左手に、その小さな体に不釣り合いなほどの赤い大人用の傘を持っている。

 小さな可愛らしい瞳で彼を見上げる少女。彼は目の高さを少女に合わせると、


「どうした? 誰か待っているのか?」


 少女は答えない。

 否、答えることが出来ないのだ。


「そうか。ママを待ってるのか」


 だが、彼には少女の言いたい事が分かった。

 にっこり無邪気に微笑む少女。

 彼はゆっくりと膝を伸ばすと、


「じゃあ、俺これからバイトがあるから」


 少女は少し寂しげな顔をするが、すぐに元の表情へと戻った。


「いい子だ」


 ふっと微笑み、少女の頭を撫でようとする。

 が、その手が少女に触れる事は無かった。

 その場を立ち去る彼。少女は彼の背中に向かってしきりに手を振る。

 少女と十分な距離を取ると、彼は無言で毒づいた。

 少女の小さな小さな足首には鎖が巻きつけられていたのだ。




 霧雨はいつの間にかスコールへと変わり、土砂降りの――ありきたりながらバケツをひっくり返したとしか表現できない雨の中、彼はナイロンパーカーで頭を隠して、水溜りの水を蹴飛ばしながら走っていた。

 時刻は夜九時を回っていた。

 元々、遅い時間の上、とどめとばかりにこの豪雨。すれ違う人もいない。時折、車が無遠慮に真横を過ぎていくだけ。

 踏み切りに近づいてきた時、彼は走るのを止めた。

 雨に霞んだ街灯の下に、あの少女の姿を見とめたのだ。

 濡れるのにも構わずに近づく。

 少女は泣きそうな顔をして彼を見上げた。

 最初に会った時のように視線の高さを合わせる。


「ママ、用事があって来れないんだって」


 彼は出来る限り優しく、そして言い含めるように言った。

「なぜ?」と、少女の無言の視線が聞いてくる。


「ママはきっと君の事を心配しているよ。君も、何時までもここにいないで、自分の居るべき場所に帰った方がいい」


 少女は心配そうに聞いてきた。もちろん、声は無かったけれど。


「大丈夫。怖くないよ。って、俺もまだ行った事ないけどな」


 少女の表情が緩み、クスリと笑った。

 彼も笑う。

 と、その時、少女は彼が持っていた傘はどうしたのかと聞いてきた。


「ああ、あの傘はどっかのバカが間違えて持っていきやがった。おかげでこっちは濡れ鼠だ」


 しばし逡巡する少女。だが思い切ったように、左手の赤い大人用の傘を差し出してきた。


「いいのかい? その傘、ママのだろ?」


 少女は首を横に振った。

 仕方なく傘を受け取り、差してみる。服はもう、雨水を吸いまくって飽和状態。あちこちから水が滴っていた。やはり今更感が拭えない。

 満足したように微笑む少女。

 その刹那の事だった。

 少女の小さな足に巻かれた鎖が音を立てて砕けたのだ。

 黒雲とも、夜空ともつかない空を見上げる。

 雨雲が裂け、月の光が差し込んだ。

 雨脚は明らかに弱まり、今は小雨ぐらいになっていた。

 彼は少女の方を見やる。

 少女の体は、淡い蛍のような微光を発し、体の節々は小さな光の粒子となって、少しずつ辺りの風景へと溶け込んでいく。


「元気でな。は変か。これからあの世に行っちまう人間に対して」


 少女はまたクスリと笑って小さな手を振った。

 彼も倣って手を振ってやる。

 聞こえるはずの無い少女の声が確かに聞こえたような気がする。



――ありがとう。お兄ちゃん。バイバイ 

  



 

『――天稜市に降り続けていた雨は昨夜から止み、今朝は三週間ぶりに太陽が姿を現しました。駅前には久しぶりに傘を持たずに出勤するサラリーマンや、通学する学生達の姿が目立ち――』


 地方ニュースのキャスターはまだ喋り足りないようだったが、仕方が無い。見る人間が居もしないのにテレビをつけておく道理は無い。――少なくとも彼はそう思っていた。

 ガスの元栓を確かめ、部屋の明かりを消す。ハンガーに無造作に引っ掛けられたナイロンパーカーを引っつかみ、これまた無造作に袖を通す。

 横目で時計の針を確かめつつ、彼は狭い玄関へと飛び出した。

 慌ただしい動作で靴を履く。もちろんその間に備え付けの鏡で寝癖を手櫛で整える事も忘れない。

 下駄箱を兼ねた傘立てからいつもの半透明のビニール傘ではなく、あの赤い傘を掴むと、そして彼はアパートのドアを乱暴に開けて我が家を出ると――数秒もしないうちに引き返してきた。

 傘立てに赤い傘を戻した。今日は傘の必要ない。いつの間にか習慣になってしまったようだ。

 キィキィ悲鳴を上げるドアを閉める。

 と、眩しい日差しと、あの雨の名残の水溜りの照り返しが、彼の目を眩ませた。

 彼は目を細めると、本当に久しぶりに見る透き通った青空へと視線を移した。




――今日はいい天気だ


             

    ――了

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