木彫り民芸具店『山水堂』
――小さい頃の記憶だ。
岩清水から流れるせせらぎが、涼しげな音をたてている。
緑が溢れる木々の中で、水明は友達になったばかりの女の子と一緒になって遊んでいた。
ここは知っている。
水明の祖父が営む木彫りの店の近くにある鎮守の森だ。
木々や草むらの先、隠れるように剥げた朱塗りの鳥居と小さな社が見える。
苔むした石碑。刻まれた文字は読めない。
ここはお気に入りの場所。
友達と二人で良く遊んだ。
そこにカバンを持った祖父がやってきた。
祖父の元に走っていく。
視界が一気に高くなった。
節くれた大きな手に迎えられて抱えあげられたのだ。
そのまま大きく宙を一周した後、地面に降ろされた。
祖父がカバンから出したものが――
◆◇◆
「なんだか機嫌良さそうね」
台所を兼ねた六畳の食堂で、ちゃぶ台を挟んで向かい合わせ、食べ終わった食器を片付けながら、みどりが言った。
彼女の夫である水明は口に入れかけていた子持ちシシャモを皿に戻すと、
「ああ、やっぱり分かりますか。今朝は少しいい夢を見まして気分が良いんです。ああ、食器は置いておいて下さい。後で片付けますから」
対面に座った作務衣姿の水明は本当に気分が良さそうだ。無精ひげの伸びかけた頬が綻んでいる。
「へえ。で、どんな夢だったの?」
ごはん茶碗と味噌汁が入っていた茶碗を重ねると、湯のみを口につけながら、みどりは問う。何となく、夫が見たその夢に自分がいれば良いと思って。
ところが――
シシャモの尻尾を咥えた夫は少し困った顔をしていた。
「ああ、それが覚えていないんですよね。良い夢だったというのだけは覚えているんですが……」
なんだ。
良い夢を見たと言うからどんなのかと思っていたのに。
必死に夢の内容を思い出そうと水明は、うーんと唸って頭を捻っている。
「まあ、夢ってそういうもんよね」
みどりの言葉に水明は、「はあ」と申し訳無さそうにひっつめ髪の頭を掻いた。
「ああ、思い出したら夕食の時にでも話しますんで」
「別に無理しないでもいいわよ。多分私の方が忘れてると思うし」
妙に凝り性で、変に律儀な所がある夫に苦笑をやると、みどりは左手首の腕時計に目をやった。
「そろそろ行かなきゃ。今日は帰るの少し早くなるから」
横に置いていたハンドバックと畳まれた薄手の上着を手にして席を立つと、水明もあわせて腰を上げた。
◆◇◆
午前七時半の空は初夏の朝らしく爽やかに晴れていた。
「んーっ~」
仕事に出かけるみどりの背を見送った水明は、空に向かって大きく伸びをする。
運動など久しくしていない体は、ポキパキと小気味のいい音をたてた。
「さて……」
背伸びして後ろを振り向けば、そこには水明夫婦が住む家がある。
いや、『家』という表現だけでは正確でない。
玄関を兼ねた擦りガラスの引き戸には、『木彫り民芸具店 山水堂』 という木看板が掲げられている。
名前の通り、木彫り細工の民芸具を販売する店だが、お世辞にも売れているとは言い難い。人や車の往来の少ない峠に一軒だけポツンと建っているせいだ。
辺りにあるのは、深い山と、鎮守の森だけ。
しいて言うなら空気と水がうまいくらいで、他には何も無い所だった。
水明はこの『山水堂』の二代目だ。
先代である祖父が何を考えてこんな辺鄙な場所に店を持ったのかは、本人が数年前にこの世を去ってしまったため問う術も無いが、水明自身はこの土地を気に入っていた。
『山水堂』の前、車二台がギリギリすれ違えるかどうかの道路を挟んで向こうに広がるのが鎮守の森。その奥にあるあすなろの杜が、木彫り物を拵えるのに丁度いい塩梅の木を出すのだ。
だが、いくらいい材料が手に入って良いモノを作ったとしても、客が来なければ何の意味も為さないのが客商売の悲しい所である。
水明の作る木彫り物から収入を殆ど期待できない現状では、妻のみどりが働くしかなかった。
そのため、水明の立場は一国一城の主と言うよりも主夫に近い。
みどりが仕事に出た後、食器を洗い、掃除をして洗濯をする。空いた時間に木彫り物を作る。昼過ぎにふもとのスーパーまで買出しに出かける。帰ってまた木彫り物を作る。夕食の支度をする。
それが水明の一日の大体の流れである。
「食器でも片付けますかね」
首筋を掻き、サンダルをぱたつかせて水明は店内に戻った。
山水堂が繁盛しない原因の一つは、店主である水明にもあるのかもしれない。
◆◇◆
「…………」
室内に流れる込む隙間風の中に僅かな雨の匂いを感じ、作業の手が止まった。
作業中に流す事が日課になっていたAMラジオの電源を消し、静かに耳を澄ませば、パラパラとトタンを打つ雨音が聞こえる。
「……いけない。洗濯物を取り込まなければ」
水明は彫刻刀を作業台に置くと、手に付いた木屑を払い立ち上がった。
湿気と濡れた埃の匂いが鼻をつく。
重い擦りガラスの引き戸を開けると、飛び込んできた初夏の日差しに目を細めた。
「……ふむ……これは―」
濃い緑の稜線の向こう、青い夏空には、元気な太陽と白い雲。
しかし、陽光をキラキラと返す空中の細い線は紛れも無い雨だ。
天気雨である。
すぐに止むだろうが、それまで洗濯物を雨ざらしにしておく訳にもいかず、水明は作務衣にポツポツと紺の点を打たせながら、干し場へと走った。
洗濯物をかき込み、中に戻ろうとしたその時だ。
「――あのぅ、すいません」
店の入り口で背後から突然声をかけられ、ビクリとする。思わず洗濯物を落としそうになったほどだ。
当然だ。
さっきまでここの近くで『人』の気配などしなかったのだから。
恐る恐る振り返ってみれば、何のことは無い。そこにいたのは一人の青年だった。
背は水明と同じくらいだろうか。中肉中背の学生といった風で、年は二十ほど。肩にはショルダーバッグを提げている。長めの髪を茶色に染めて、いかにも今時の大学生らしい。顔の彫りが浅く、少々つり上がり気味の細い目が特徴的だった。
――天気雨が止んだ。
「……あの、何かご用事ですか?」
水明が尋ねると、青年は困ったように茶色の髪を掻き、下を向いてしまった。
「ええっと……実は今日、姉の結婚式でして……それで、えっと……」
青年はどうにもはっきりしない口調だ。
「それで何かプレゼントでも……と思ったのですが……結局何も見つからずじまいでして……」
「はあ」
「それで、たまたまこの近くを通ったら、それが目に入りまして」
青年が指差した先、そこにあったのは――
「それを売っていただきたいのですが」
指先、長い月日に濁り始めたディスプレイの奥にあるのは、拳一つ分ほどの、一体のキツネの置物だ。全身を丁寧に掘りぬいてあり、柔らかそうな尾の先まで再現されている。
しかし、
(困ったな……)
このキツネの彫り物は『作品』であって『売り物』ではないのだ。
「大変に申し訳ないのですが、これは先代の店主―私の祖父が拵えたものでして、売り物にするつもりはないのです」
そう言うと、青年は「そうですか……」と目に見えて肩を落とした。
「これをお売りするわけにはいきませんが、他の彫り物ではいけないのですか?」
落ち込んだ青年に聞くと、青年は黙って首を振る。
「すみませんが、キツネを彫ったものが良いのです。いえ、申し訳ありません」
青年は茶色い頭を深々と下げ、もう一度、水明に礼を言うと、肩を落としたまま、水明に背を向けた。
その様が、水明にはあまりに気の毒に見えて――
「ああ、そうだ」
思わず口をついていた。
青年が足を止め、振り返った。
そうだ。こうすれば良い。
「あの、これと似たような物なら何とかなりそうですが、それで勘弁していただけませんか?」
青年の表情がパッと明るくなった。
◆◇◆
洗濯物を干し直すと、すぐさま水明は作業台に座って彫刻刀を振るい始めた。
あの青年は、店舗の中にある小物などを手にとっては珍しげに見て回っている。
水明が出来上がるまで少し時間がかかるから一旦戻ればどうだ、と言ったにも関わらず、ならば出来上がるまで待つと言い、ここに残ったのだ。
作業台の前には手本として、祖父が彫ったあのキツネの置物が置いてある。
このキツネの置物。
一体どうして祖父が作り、あのディスプレイに並んだのだったか。
何か特別な理由があったはずだ。
だから祖父はこのキツネを手放さず、手元に置き続けた。
必死に記憶を手繰り――
彫刻刀を繰る手が止まった。
「……ああ、そうか」
思い出したその記憶は、鮮明だった。
せせらぎや、葉すれの音、草や土の匂いまで思い出せるほどに。
それもその筈、それは今朝見た夢の内容。
あの時、祖父がカバンから取り出したのが、このキツネの置物だったのだ。
その細やかな作りに、祖父が作る木彫りの美しさに、まだ幼かった自分は生まれて初めて感動を覚えたのだ。
そして、その時一緒に遊んでいた女の子も喜びの声をあげ――
そうだ。
女の子がいた筈だ。
自分と同い年くらいの。
もう随分と会っていない。
彼女は今どうしているだろうか。
ふと思い、椅子を軋ませて暖簾越しに店舗にいる茶髪の青年を見る。
青年の横顔に、彼女の面影を見た気がした。
「……まさか……ね」
そう言って息を一つつくと、水明は再び彫刻刀を振るい始めた。
◆◇◆
振り子時計の長針が二周する間、集中力は途切れる事無く続き、木彫りのキツネは完成した。
椅子に腰掛けたまま背伸びをして、凝り固まった筋肉をほぐす。心地よい痺れが猫背気味の体に満ちた。
作業台の上には、三体のキツネが並んでいる。一体は祖父が。もう二体は、水明が拵えたものだ。
ただのあすなろの木片から生まれた二匹のキツネ。つがいを為すキツネは寄り添うように尻尾を絡ませ、顔を寄せ合っている。
まだ木の粉が匂うそれの出来に、水明は満足の笑みを浮かべた。
祖父の作品ほど立派で精緻な出来栄えとは言い難いが、心を込め、技術の限りをつくした二匹のキツネは、紛れも無く水明の最高傑作であった。
「よし」
手の木屑を払うと、店舗で待つ青年に声をかけた。
驚くべき事に、青年は二時間もの間ずっと小物や彫り物を眺めていたのだ。よく退屈しなかったものだ、と店主でありながら水明は思う。
「すいません、お待たせしました」
言って、出来たばかりの二匹のキツネを見せる。青年は「ほう」と感嘆の息を漏らした。
「ああ、結婚式の贈り物だと言う事で、夫婦で彫ったのですが、どうでしょうか?」
「いえ……これはスゴイですよ。飾られていたキツネも立派でしたが、コレも負けていない。きっと姉もお義兄さんも喜ぶと思います」
手渡されたキツネを胸に抱き、青年は深深と頭を下げる。逆にこちらが恐縮してしまいそうなほどだ。
「よかった。満足していただけたようで、私としても幸いです」
水明は充足感と言いようのない喜びを覚えていた。こういった気持ちを持つのも、随分と久し振りな気がする。つまりはそれだけ客の縁遠い店だという事になるのだが。
「そうだ。お代を――」
と、青年は慌て気味に、カバンから財布を取り出そうとし、水明がそれをやんわりと手で制した。
顔を見上げる青年に、水明はひっつめ髪を掻きながら言う。
「ああ、お代なら結構ですよ。何と言うか、私もアナタのお姉さんを祝福したくなりました。それに……アナタも初対面とは思えなくて」
水明の言葉に、青年はまたも茶色い頭を深く下げた。本当によく頭を下げる青年である。
ふと、思い立つ。
自分がみどりと結婚した時、指輪に何かメッセージのようなものを掘り込んでいた。
「ああ、そうだ。結婚式の贈り物なら、何かメッセージとか名前とかを掘り込んだ方が良いんですかね? 木彫り物にメッセージを掘り込むなんて話、あまり耳にしませんが」
苦笑を混ぜた水明の提案に、青年は少し考え込んで、
「ええと、それじゃあ名前をお願いして良いですか?」
「はい。いいですよ。お名前は?」
青年は微笑みを浮かべ言った。
「浄水院門前稲荷です」
◆◇◆
淡く浅い夢を見ていた。
その夢は子供の頃の記憶だ。
緑が溢れる木々の中で、葉と葉が擦れ合う音と、岩清水から流れるせせらぎが、涼しげな音をたてている。
ここは知っている。
水明が祖父から受け継いだ山水堂の近くにある鎮守の森だ。
ここはお気に入りだった場所。
友達と二人で良く遊んだ。
水明の前、茶色の長い髪の女の子が、細い目を弓にしならせ言った。
「あんなあ、ウチなあ、おおきゅうなったらミーちゃんのお嫁はんなんねん」
草むらでバッタを探す事に夢中になっていた幼い水明は顔を上げる。
「え? ボクのお嫁さんになってくれるの?」
女の子の笑みが深まる。
「そうやぁ。やからミーちゃん浮気とかしくさったらウチ許さへんでー」
女の子の向こう、木々の先、剥げた朱塗りの鳥居と小さな社が見える。
苔むした石碑に刻まれた文字。
今は読める。
『浄水院門前稲荷』と――
草を踏む足音に振り向くと、そこにカバンを持った祖父がいた。
バッタ探しを中断し、大好きな祖父の元に走っていく。
節くれた大きな手に抱えあげられた。
白髪混じりの髭に隠れた口が動いた。
「水明。『杜』の友達と仲良くやっているか?」
水明は「うん」と大きく頷く。
そのまま大きく宙を一回りした後、地面に降ろされた。
祖父がカバンから何かを取り出した。
子供でも見事だと分かるその精緻な作り。
思わず感嘆の声を上げる。
それは一匹のキツネの彫り物だった。
祖父は目を細めて言う。その声はどこかに寂しさを含んでいた。
「お前の見る『友達』を私は見ることが出来ないが、紛れも無く、この杜にはいらっしゃるのだろう。鎮守の森に住まう神が」
キツネの彫り物を受け取った水明は、女の子にも良く見せてあげようと、社の方を振り返り――
「あれ?」
幻のように女の子はいなくなっていた。
水明の足元に、一匹の子狐がちょこんと座っている。
その子狐は、祖父が彫り上げたキツネとどこか似ていた。
◆◇◆
「……ん」
薄ぼんやりとした頭のまま、作業台に突っ伏していた体を起こす。
集中したせいで、知らず神経を使っていたのかもしれない。いつの間にか寝入ってしまっていたようだ。
目を擦り、壁にかけられた振り子時計を見やる。
あの青年が礼を言って帰ってから、まだ一時間ほどしか経っていなかった。
と、店の引き戸が開く音が聞こえた。
お客さんだろうか。だとしたら今日は千客万来ですね、そう思いながら、水明は席を立った。
ふと、言いようの無い懐かしさを感じた。
この雰囲気――
「ミーちゃん。ホンマ久し振りやなあ」
暖簾をくぐった先、木彫り細工が収められた棚に挟まれた店舗に、白無垢姿の細面の美女が立っていた。
「ああ、やっぱりアナタでしたか。本当にお久し振りですね」
水明はひっつめた頭をかきながら言った。
自分はまだ夢を見ているのだろうか。それすら分からなかった。
この空気に混じるかすかな匂いは白粉だろうか。
窓の外では、快晴にも関わらず降り始めた小雨がポツポツとガラスを打っていた。
「さっき店に来た若者は、アナタの弟さんだったんですね」
美女は、鮮やかな朱を引いた唇を笑みの形にした。
「せやせや。一番末の弟や。なんかえっらい世話なったみたいで。どんくさいやっちゃろ。ま、そこが可愛い思うんやけどな。末っ子や言うて甘やかしすぎたわ」
言ってクスクス笑う。
その笑い方に、彼女は記憶の中の女の子から全然変わっていないと思った。
「どやミーちゃん。ウチ別嬪さんになったやろ?」
彼女は白無垢の袖を、同じく白く細い指で掴み、微笑んで見せた。
水明はありのままに答える。
「ええ、とってもキレイですよ。白無垢の衣装もよく似合っている」
「またまたーお世辞ばっかうまなってー」
美女は白粉の塗られた頬に少しだけ朱に染め、照れくさそうにした。
と、顔を上げ、
「そやミーちゃん。ウチらジャリん時結婚の約束したん覚えとる?」
「覚えてますよ。と言うかついさっき思い出したというか」
水明の言葉に、彼女は安堵したように元から細い目をさらに細くしならせる。
「ま、しゃーないわ。ミーちゃんもお嫁はんもろとるし、ウチも嫁いでもうたし。婚約自然解消かなーなんて。なんか寂しいわ」
冗談めかせて言った彼女の言葉で、二人は小さく笑った。
幼い頃の無邪気な約束。
叶う筈など最初からなかったのだ。
「あんなぁ、ミーちゃん」
そう言って彼女が取り出したのは、先ほど水明が作ったつがいのキツネだ。差し出された彼女の重ねられた白い掌の上で、仲睦ましく並んでいる。
「これなあ、弟がくれた時、すぐ分かったんよ。ミーちゃんが作ったんやーゆうて。ホンマ、ミーちゃん全然変わっとらんねぇ」
彼女の目は自身の手に載せられたキツネを見つめる。
無邪気さだけだった笑みに、長い年月を重ねてできた、慈愛のある、やさしい微笑みだった。
「この雄キツネの方な、ウチの旦那によー似とる。不思議やね。ミーちゃん会ったことない筈なんに」
そこで、彼女は一旦言葉を切った。
顔を上げる。
細く吊り上がり気味の彼女の目が僅かに潤んでいた。
「――大事にする。ミーちゃん。ホンマおおきに」
かける言葉など一つしか見つからなかった。
あの日一緒に森で遊んだ少女は大人になり、別の誰か―きっといい人なのだろう、その人を伴侶にし、これから彼とともに歩んでいく。
「おめでとう。どうかお幸せに」
「おおきに。ホンマおおきに」
涙を含んだ声を呟き、彼女は何度も頷いていた。深く下げた青年の茶髪を思い出す。
彼女の末弟が、何度も頭を下げていたのは、ひょっとしたら遺伝なのかもしれない。
と、彼女が目元を押さえながら言った。
「アカン。泣いたら折角別嬪にしてもろたのに化粧が落ちてまうわ」
水明は苦笑。
本当に彼女は変わっていない。
「もう行かな。これから新婚旅行かねて伏見の本家へ挨拶や」
彼女は満面の笑みで緩やかに手を振った。
水明は目を瞑る。
きっともう彼女に会う事は無いだろう。
何故かそんな気がした。
最後に見た彼女の笑顔をずっと覚えていられるように。
たっぷりと時間をかけて、ゆっくりと目を開ける。
そこにあったのは、木彫り細工が収められた棚に挟まれたいつもとなんら変わるところの無い山水堂だった。
一人取り残されたような気持ちを抑えつつ、水明の唇は言葉を綴る。
同じセリフを。
もっと強い気持ちを込めて。
「おめでとう。どうかお幸せに」
天気雨はいつのまにか止んでいた。
濃い緑の稜線の向こう、青い夏空をキャンバスに、輝く虹が架かっている。
◆◇◆
「ただいま~」
みどりが家に帰ったのは、大分日も暮れはじめた夜の七時すぎ程だった。
仕事に疲れた彼女を出迎えるのは、もう専業主夫と呼んでも差支えない気がする夫のいつもと変わらぬ笑顔と、この家で一番大きな皿に山盛りに積まれた大量のいなり寿司の山だった。
夕食にいなり寿司をつまみながら、ちゃぶ台の向かいに座る夫に、忘れずに取っておいた朝の夢の話の続きを振ると、彼は穏やかに笑いながら、
「結局思い出せませんでした」
と言った。
だけど、何か良い事はあったようだった。それが何かまでは分からなかったけど。
「何か良い事でもあったの?」
そう聞こうとして――
「?」
みどりの目が、水明の後ろにある茶棚の上で止まった。
アレは確か水明の祖父が作ったとか言うキツネの置物だ。あの古ぼけたディスプレイから外に出ているのをみどりは初めて見た。
そして何よりも不可解だったのは、その置物の前に供えるようにしていなり寿司が小皿に載せてある事だ。
「……ねえ、アレ何?」
箸でキツネの置物を指してやる。
水明は首を後ろの茶棚に向けて、
「ああ、ご祝儀……ですかね」
「ご祝儀?」
「それと、まあ、ご利益ある気がしませんか? 商売繁盛の」
水明は冗談めかして言った。たとえ彼が本気で言っていたとしても、水明の口からでは冗談にしか聞こえなかっただろう。
先代店主の作った置物にご利益も何も、と言う気もしたが、それはそれで良いのかもしれない。
ようは気持ち、だ。
そう思ってみどりは、大皿に盛られたいなり寿司の山に箸をのばした。
――おわり




