Lycanthropes Liberation 08
「私、ワーズワードさんと一緒のおふろに入ってきます」
「待って」
「待てい」
積極的に頑張るという己の宣言を偽りなく実行しようとするシャル。
「あのね。それはどうかと思うよ、シャルちゃん」
「でも私はワーズワードさんの紗群ですので、問題はないと思うんです」
「いや、そういうことではなくてじゃな」
「思うんですっ」
常ではない感じの力技で反論を封じ込めようとするシャル。
自分がワーズワードにちゃんと愛されていたのだという実感が少女を大胆にさせていた。
見た目は線の細い少女であるが、根っこの部分に硬い芯を持っている。こうなるとたとえニアヴであってもシャルを止めることは難しい。
「ワーズワードサンのところに行くの? それだったらボクも行きたい」
「ぬしゃァは黙っとれ!」
「み゛ゃーん……」
ニアヴに一喝されたリストが耳をへしょげさせて、湯の中に沈んでいく。
「よいかシャルよ。男子とは日頃紳士であっても、服を脱ぎ捨てれば一匹のケモノに戻るものじゃ。先ほどのような話を聞いたあとではなおのこと行かせるわけにはいかぬじゃろう」
そう言い聞かせるニアヴ。
だがこれだけの言葉でシャルが考えなおしてくれるかは、ニアヴにも自信がなかった。
とはいえ、ニアヴの言葉を右から左に聞き流すシャルでもない。
反対意見を受け入れる耳をシャルはちゃんと持っている。
しばし考え、そして何かを思いついたようにピコンッと耳を動かした。
「では、これでどうでしょうか――」
◇◇◇
『パルメラ天然温泉』巨石ゴロゴロの湯・男湯サイド
明るい日差しが湯けむりの中を透過する。
それを受ける水面にぽこぽこと気泡が立っている。
大地の熱に温められた地下水が温泉の底から気泡とともに湧き上がっているのだ。
足を伸ばす先の砂地からじんわり伝わる源泉の熱が身体を芯から温めていく。
温泉の山側を見れば、三メートルほどの高さの岩肌から透明な水が流れ落ちている。ミニ滝と言ってもよいほど結構な勢いで冷たい水が流入しているが、それを受け止めるこの窪地『巨石ゴロゴロの湯』は二五メートルプールを越える広さがあるため、最適な温度を維持できているのだろう。
誰の知恵でもない天然の数式により生み出された温度である。
そして、窪地からあふれ出た白い流れもまた同じように山肌を滑り落ち、もっと下方のどこかで元の流れに合流しているのだと思われる。
全身から力を抜く。脱力した俺の身体は湯の中に溶けてしまったかのようにその輪郭を失う。
見上げる先には白煙を上げる雄大な山肌と青い空。視線を変えて下界を見下ろせば、人工物一つ存在しない、生まれたままの自然の地形がどこまでも続く。蛇行する川の流れの、その最源流に身を沈めいているのだと想えば、輪郭を失い溶けた身体が水の中を旅する旅人になって、地平線の先の先まで広がってゆくような――そんな感覚にとらわれる。
天然温泉の解放感と爽快感。今この瞬間は、他に比類できるものの存在しない最高の癒やしの時間だった。
「そうは思わないか、御者くん」
「……」
返答がないので視線を送ってみると、額まで真っ赤に染めて目を回す御者くんの姿があった。
おい。
「大丈夫ですか」
ざばざばと湯をかき分けて駆け寄るフェルナ。
ルネサンス彫刻の中にのみ類似点を求めることのできる均整のとれた肉体が目の前を横切ってゆく。ふむ、やっぱ青いのな。
長湯でのぼせてしまったらしい御者くんを湯の中から引っ張りだし、そのまま涼やかな木陰に移動させる。腰の上にそっと葉っぱを乗せてあげるフェルナの優しさプライスレス。
「意識はありますし、大事ではないようです」
「そうか」
慣れていない温泉初心者にありがちなトラブルだな。
「とりあえず水でも飲ませてやれ」
【ジマズ・ステンレス・カップ/地神不銹鋼杯】のオリジナル・マジックで金属製のコップを生成してフェルナに渡す。
【ウォーターフォウル・ボトル/降鵜水筒】の純水は確かに安全だが、これだけ山の中であれば、そこらを流れる山の湧き水の方がおいしいだろう。
俺からコップを受けとり、ミニ滝の冷水を汲んで御者くんに渡すフェルナ。
水の一杯ですぐさま復活した御者くんがぺこりと頭を下げてくる。
俺も同じく頷いて、問題ないとの意思を伝える。
「群兜、御者さまは馬車が心配だとのことです。道中危険があるかもしれませんので、私も付き添いたいと思います」
フェルナがさま呼びということはもしかして、高い身分の生まれだったりするのだろうか。もしそうであれば俺も御者くんさんと呼んだほうが良いのだろうか。
「温泉はもういいのか?」
「はい。体は十分に癒やされました」
もう少しくらいゆっくりしていけばいいと思うのだが、そんな俺の価値観こそ押し付けるべきではない。彼らは俺と違い、一度の入浴で満足したのだろう。
「それでいいならいいんだが。ああ、どうせ戻るなら、仕事用のガラス玉を持ってきてくれるか。手間なら後で俺が魔法で運ぶが」
「問題ありません。最近は馬車移動で身体も使っていませんので力仕事はむしろ歓迎です」
「そうか、では頼む」
最初は調査目的でここまで登ってきたわけだが、最高の天然温泉を見つけてしまった以上、今日はここを拠点に作業するしかない。魔法があるので別にフェルナに荷運びを頼む必要はないのだが、今は温泉を出たくない。本人も歓迎だと言っているのでここは甘えておこう。
湯を拭い、着衣した二人が山を降りてゆく。
馬車まで戻ってもう一度ここまで登ってくるにはフェルナの足でも二時間近くかかるだろう。二人には申し訳ないが、俺はまだ暫くこうして温泉を楽しませてもらおう。
なにせこうして足を伸ばして浸かることのできる湯も久しぶりなのだから。
………………
…………
……
フェルナと御者くんさんを見送っておよそ一〇分。いくらでも入っていられそうだ。
パルメラ天然温泉・巨石ゴロゴロの湯は、温泉の中に巨石が幾つも転がっていて、それが向こうとこちらの視界を阻んでいるわけだが、温泉としてはつながっている。
例えばであるが、その間を通り抜ければ女湯の方に移動することだって可能だ。
「…………」
つまり――通常であればあまり想定できない状況であるが――女湯の方から男湯に移動してくることだって不可能ではないということである。
それに気づいた俺は理解し難いながらも念の為に声をかけた。
「なにやってんだ、お前ら」
誰もいない空間を見つめて発した俺の声に反応するかのように、ばちゃりとお湯がはねた。
そこには誰もいない、気配もない。だが、俺の目には源素が見える。色とりどりの明るい源素が。
濬獣ルーヴァ自治区といえども自然に集まる源素の光量ではない。例えるならば、ニアヴとシャルとセスリナと、おまけに多分リストも加えたくらいの光量がそこにあった。
というのはお湯の中にぽっかり開いた四つの凹みから判断したわけだが。
「一応言っておくが、お前らの姿は見えていないからな。……何をどうしたのか大体想像はつくが、女が男湯を覗きに来るとか前代未聞だぞ。バカなことをやってないで早く女湯に戻れ」
俺がそう言うと何かしら言いたいことがあるらしく、ばちゃばちゃと水面が揺れた。
「いや、声も聞こえてないからな。大体、お前らの姿こそ見えないが湯の凹みは視認できる情報のうちなんだぞ。姿が見えないといっても水面をへこませる二つの曲線とか、逆に想像を掻き立てられるからやめろ……って言っているのに近づいてくるんじゃない! そこ、泳ぐな!」
こいつら――ッ
自分たちの姿が見えないことをいいことに遊んでやがる。
男の俺がやったら、条例違反どころか実刑で数年付く悪質な行為だ。
シャルがこのようなことを思いつくはずがないので、ニアヴあたりに脅されて連れて来られたに違いない。
許せぬ性悪狐である。
あの中にシャルさえ混じっていなければ適当な水流操作魔法で全員ぶっ飛ばしてやるのに、姿が見えないのがもどかしい。いや、見えたら見えたでその、なんだ、困るが。
にしても意図が読めない。一体何の嫌がらせで俺の温泉タイムを邪魔しようというのだ。
こうなったら俺も消えてしまおうかと考えた、その時、
『ふぎゃーーーーーーー!!』
野犬の吠え声のようなものが山間に響いた。
◇◇◇
『パルメラ天然温泉』巨石ゴロゴロの湯・パレイドパグサイド
「あーうん。この辺ならいいか」
温泉のへりを歩いていたパレイドパグは巨石の間にやや狭い湯だまりを見つけて足を止めた。温泉の両端に位置する男湯と女湯を間仕切る巨石群の中に見つけた入浴可能なスペースである。
そこは周囲の景色が見えないという理由でワーズワードが通り過ぎた場所であったが、パレイドパグにとっては逆にそれが評価ポイントだった。
再度周囲を見渡し、誰の気配もないことを確認してからパレイドパグはオーバーニーに手をかけた。
幅広の葉を敷き、その上に脱いだ衣服をたたんでいく。この世界の服を着ることもあるが、それは仕方なくだ。地球産の衣服を入手できない環境でもあり、パレイドパグはこのデグマーファッションの衣服を大事にしていた。
デグマーのファッションカラーは原色そのもの。赤は赤く、黄色は黄色く、どこまでもピンクい。
原色の持つ力強さ。全てが飽和し、全てが薄い地球にあって、そのデザインセンスは多くの若者を魅了した。
しかし、パレイドパグはそんな若者たちとは異なるサイバー世界の住人である。
部屋からだってそんなに出ないし、女の子ファッションにも興味がない。見せる相手がいないのだからあるはずない。
だが、
『そういえばお前のそのパグ犬のぬいぐるみアバターはデグマーデザインなんだな。なかなかいいセンスだと思うぞ』
『ああ? あったりまえだろうが、このアタシを誰だと思ってやがる。……キャハハハハハ!』
なにデグマーデザインって。知らない。しらなーい。うん、知らない。『STARS』がアタシに付けたパレイドパグの識別名に合わせて作ったんだっけ。頑張って自作したよね、えっへん。アバターくらい子どもでも作れるくらいなんだから余裕です。子どもにしてはなんで今どきテキストチャットかな。でもあれで大人だったら気持ち悪いよね。ほんとほんと。じゃなくて、デグマーってなんなのって話! ワーズワードに呆れらちゃうよ! それはダメっ。調べようか。そうだね。そうそう。えっと、フランス人。テオル・デグマー。新進気鋭のデザイナーだって。服も作ってるよ。ふーん、ワーズワードはこういうのが好きなんだ――
アバターのデザインはネットで適当に拾ったイラストを参考にしただけでデグマーの名を知らなかったパレイドパグである。
うん、そう言われればかわいいかも。
彼女の中に新しい風が吹き込まれる。
自分以外何もなかった少女は、ワーズワードの好きなものを自分も好きになったのだ。
初めて機能性ではなくデザイン性で服を買ってみた。もちろんネット通販で。
着てみたはいいが、これが自分に似合っているのかどうか全くわからない。その上、サイズ合わせをしていない衣服は彼女には少し大きかった。
「かわいい、よね? デグマーだもん」
ワーズワードがいいと言ったのだから、絶対にかわいいのだ。
ワーズワードはアタシを下に見ないで声をかけてくれる。向こうから挨拶してくれて、お喋りしてくれて、遊んでくれる。
つまり、ワーズワードはアタシのことが好きなのだ。愛しているのだ。
ワーズワードに愛されていることを疑わない彼女は情報セキュリティの壁を超えて、自分を迎えに来るワーズワードの姿を夢想した。白馬にまたがるポリゴンの粗い男性体アバター。現実のワーズワードがアバターの姿のままであるはずないのだが、他にワーズワードに関する情報を持たない彼女にはそれが精一杯の想像だった。
いつかワーズワードに会えたら――
「けっ。だってのになんなんだ、あの野郎。全然、アタシのことなんてよ」
現実のワーズワードと初めて対面したときの苦々しい記憶を思い返して、パレイドパグはバシャリと湯面を手のひらで弾いた。
ワーズワードは残念ながらパレイドパグにそれほど過大な関心を持っていなかった。ついでに言うと、デグマーの服もスルーだった。
どういう理屈かはわからないが、この異世界には服以外は何も持ち込むことができなかった。銃や電子機器を詰め込んだリュックサックもポケットの中の財布も転移時になくなってしまっていた。
でも一番の宝物だけは残ったのだ。初めて自分で洗濯するくらい大事なデグマーなのである。
思い返せば苦々しいが、現実の世界でもワーズワードはやっぱりワーズワードだった。
『エネミーズ16』の中身が自分みたいな小娘だと知った今でも、下に見ないで声をかけてくれる。向こうから挨拶してくれて、お喋りしてくれる……ただ、あんまり遊んでくれない。
もっと自分を見てほしいと思う。もっと話をしたいし、遊んでほしい。でも、それを口にできない。
脳内ではありとあらゆる会話シミュレーションを行っているのに、ワーズワードの前に立つと言葉が出なくなってしまうのだ。
相手の顔を見ながら話をするのがこんなに難しいなんて知らなかった。ネットの中であれば、こんなことはなかったのに。
自分のことを見てほしい。だけど、本当に自分の顔を見られるとどうしても恥ずかしくて、つい憎まれ口でごまかしてしまう。
なにがこんなに恥ずかしいのか。生身で他人と接する経験のなかった彼女にはその理由がどうしても解析できないでいた。
「うー、やめやめ」
湯をすくってそんなもやもやする思考共々自分の顔を洗い流す。
「うえ。やっぱ臭いがあるよなあ。それになんかぬるぬるする……なんでこんな気持ち悪いトコに入りたがンだ、ニホン人ってやつは」
硫黄泉になど入ったことのないパレイドパグである。
嫌なら入らなければよいだけであろうが、その案は脳内ディスカッションで否定されていた。パレイドパグの主人格では『オルトリンデ』の美肌最強理論を論破できない。ホットパンツ+オーバーニーというパレイドパグのファッションもオルトリンデの「男の人は女の子の太ももに残る日焼けラインに興奮するものなのです」という謎のネット知識が信任を得た結果であり、この恋愛脳な擬似人格の発言権は侮れない。
並列思考――相互会話可能なレベルまで脳機能の独立性を高めるBPM(ブレイン・パーソナライゼーション・メソッド)の方法論がパレイドパグという少女の人生に与えた影響は非常に大きい。
誰にでも噛み付く野犬さながらのこの少女が、ネット上にBPMの理論を残した名も知らぬ『天才』にだけは、唯一絶対の尊敬の念を抱いている理由もわかろうというものである。
それはそれとして、シャルにニアヴにセスリナ。それにもう一人、雪豹娘のリストまで増えてワーズワードの周りには悔しいが美女が多い。地球人であり同じエネミーズである自分の方が立ち位置としてずっとリードしていることに疑いの余地はないが、色々と気になるし、気に入らない。
特に化け狐は気に入らない。
これ見よがしに胸元の開いた服で、ワーズワードの視線がたびたびそこに流れているシーンを目撃するたびビキリとくる。
一方、自分にあのような視線が注がれたことは一度もない。オルトリンデ調べなので間違いない。
キツネは敵。これもまた脳内一致の結論であった。
「デカいだけの胸なんざ、ネットの中でいくらでも見れンだだろうが」
そう毒づきつつ己の胸元を見下ろせば、そこに広がるのは山なき谷なき大平原である。
…………。
「本当にあいつ、こんななんもねェのが好きなのかよ!」
もしワーズワードがそれを聞けば、甚大な風評被害について、口にしたことであろう。
虚しい以上に馬鹿馬鹿しくなって、パレイドパグはざぶんと湯の中に頭ごと潜り込んだ。本人としては頭を冷やすつもりで。だが、果たして温かい湯の中で頭が冷やせるのかは疑問である。
息止めは一〇秒も持たず、パレイドパグが頭を出す。
荒く息を吐くその表情を見れば、とりあえず益体もない思考系からは脱したようではあった。
「にしても、美肌効果ねぇ。……これ、どれくらい浸かってればいいんだ?」
さすがのパレイドパグもそこまでの知識は持っていない。
それは誰の回答も求めていない呟きだったが、その意に反して巨石の陰から思わぬ返答があった。
「――入湯三到。『身到』、身を沈め。『眼到』、景色を楽しみ。『心到』、心を楽にすればおのず良い効果がある。時間で測るのではなく、心で測ればよい」
「だ、誰かそこにいンのか!?」
驚いたパレイドパグが顔の半分まで湯の中に沈める。白濁した湯がパレイドパグの身体を隠す。
閉ざされた入浴スポットとはいえ、巨石同士の隙間は大きい。源素の見えるパレイドパグであっても石の裏までは透視できない。
気付かなかったが、同じ場所に誰かが先に入っていたのだろう。
とりあえず声の持ち主は女性のようであるが、聞いたことない声だった。
胸元にタオルを引き寄せ、注意深く巨石の裏側に回りこむパレイドパグ。
と、そこには確かに湯の中に身体を沈める何者かの姿があった。
薄く瞳を閉じて、巨石に背をもたれ、温泉に浸かるその人物には一つの大きな特徴があった。
首から上だけしか見えない状況でも明瞭とわかるその特徴的な『白い獣耳』が――
「脚下照顧。足元に気をつけたまえ。そのあたりには熱泉が湧いている」
「きゃっか? なにを――」
その助言はやや遅きに失したかもしれない。あるいは難解な物言いがなければ。
問い返す前にパレイドパグの足はポコポコと気泡の立つ砂地を踏み抜いてしまっていた。
温泉全体としては三九度前後の入りやすい湯温であるが、湯の湧き出す源泉地点はその限りではない。
「ふぎゃーーーーーーー!!」
絶叫を上げて、目の前の巨石にしがみつくパレイドパグ。
巨石と言っても湯の上に出ている部分は精々人の背丈程度だ。自然石であるため、足をかけられるデコボコも十分ある。
絶叫はワーズワードのいる男湯にまで届いた。
否、巨石の仕切りで見えなかっただけで存外近い場所だったというべきだろう。
それこそ巨石を隔てて隣り合うくらいに。
◇◇◇
場面は少し戻る。
「えへへへ。ワーズワードさんと一緒のおふろです」
「一人だけ? ほかの二人は一緒には入ってないのかな」
「ふむ、【マルセイオズ・アフォーティック・ゾーン/水神黒水陣】の魔法道具のう。考えたものじゃな。姿さえ見えねば、まあよいじゃろう」
「シャル姉サンすっごーい。これでワーズワードサンからは見えないんだ。でも、こっちになにか言っているね。本当に見えてないのかな」
「うん。見えてないって言ってるみたい」
シャルの首飾りに付与された【水神黒水陣】の魔法効果で姿を見えなくすれば、ニアヴが危惧するような問題は発生せず、シャルも自分の希望を満たすことができる。
一〇〇%自分の希望通りではないが、相手の意見も聞き入れた上で両者の妥協点を見つけるというこの問題解決方法はワーズワードと長く一緒にいるうちにシャルが自分自身で学び取ったものだ。少女も成長しているのである。
そして、その他二人はなんだか面白そうという理由でついてきただけの興味本位だ。
ワーズワードに女湯に戻れと言われたシャルが慌てて返事をする。
「すいませんっ。もうちょっとだけ――もうちょっとだけ近くで一緒に入ったら戻りますのでっ」
それはシャルの譲れぬ妥協ラインだったが、ワーズワードには聞こえていない――正確には魔法効果で声音に対する認識が阻害されている――のであまり意味のない宣言であった。
「どうせ見えてないんだからこうやって泳いでも大丈夫なの。ざばざば~」
「くふふっ、姿の見えぬ妾たちに慌てふためいておるな。目の前にはこんなにあられもない姿の妾たちがおるのに見えぬのではのう。しかし、あのような無防備な姿も新鮮じゃな。これはこれで……」
「ニアヴサマ、なんだか嬉しそうー」
「ぬ、ぬしゃァは黙っとれ!」
「み゛ゃーん……」
相手に姿が見えない安心感からか、四人とも好き勝手である。
もし地球に【水神黒水陣】の魔法が持ち込まれたならば、誰もが女湯を覗き放題になってしまうのでは、という問題点についてワーズワードが言及したことがあったが、まさか男湯の方が覗かれてしまうなどとは当の本人にとっても想定外であろう。
『ふぎゃーーーーーーー!!』
四人がその声を聞いたのは、その時だ。
驚いて振り返れば、そこには一糸まとわぬ姿でわたわたと大きな石の上に立ち上がるパレイドパグの姿があった。
あんぐりと顎を落とすニアヴ。
「はわわわっ」
「な……なにをやっておるんじゃ、あの野犬娘はッッ!」
◇◇◇
突然目の前の――と言っても多少の距離はあるが――巨石の上に源素が膨れ上がった。
あれだけの源素光量を纏うのは俺を除けば一人しかいない。
源素の眩しさがやや邪魔をするが、それでもその一人が素っ裸でいることだけはわかった。
……裸になるのは恥ずかしいと言っていた割には、ワイルドな温泉の楽しみ方をしているじゃないか。
「あっちィ! ふざけんな、殺す気かッ」
よくわからんが向こう側に何かを吠えている。
突然の出来事に一瞬思考停止していた俺に、じゃばばばっ、と湯が浴びせ掛けられた。わっぷ。
「いきなりはやめろ」
と思わず漏れた俺の声に、駄犬の背筋がビクンと反応した。
ゆっくりと、そしておそるおそる首から上だけでこちらを振り返る。
「あ、あ、あ……」
戦慄く口元に犬歯が覗く。目付きの悪い三白眼であるが、今は少し涙目のようだ。駄犬の頬が熟したりんごよりも更に真っ赤に染まっていく。うん、温泉で十分に温まったのだな。血行促進の温泉効果が出ているんだな。
俺は悪くない。絶対的に悪くないという前提で、俺は自然体の挨拶を行った。
「よう駄犬。……えーと、大丈夫。源素の明るさであんまりは見えてないから」
「――――ッッッ!!!」
駄犬の声にならない絶叫と同時にこれまでにない最大級の源素嵐が吹き荒れた。
「うおっ」
幾つもの魔法発動光が閃き、温泉に渦が巻いた。風を舞い上げて、炎が立ち、紫電が走る。足場の巨石にヒビが入り、その一部が温泉に落ちて、飛沫をあげた。
源素嵐――無軌道な精神の暴走によりランダムに接続された源素がなんらかの魔法効果を連鎖発動しているのだ。
「くっ、まずい」
俺は脳内にこれまでで最大級のアラームを鳴らした。ジャンジャックなど比ではない脅威度だ。
「暴走をやめろ、パレイドパグ。これ以上は俺が許さない」
最上泉質の『パルメラ天然温泉・巨石ゴロゴロの湯』はなんとしても保護・保全していかなければならないものだ。それを破壊する一切の行為は許されない。
温泉を脅かす全ての者は俺の敵だ。
大切にストックしていた虎の子の黒源素を解放する。ここ一番で全力の行使を自重する俺ではない。
「俺は全身全霊を込めてこの温泉を護る――絶離せよ【アンク・サンブルス・アンリミテッド/孵らぬ卵・限定解除版】」
魔法の【コール/詠唱】、そんな不要なアクションすらスムーズに出てしまう。
効果範囲を拡大した虹の結界が、温泉のすべてを包む。
「そして、『反魔法』」
『俺以外全て敵』と識別して発動する『反魔法』の魔法効果が駄犬の源素嵐を瞬時にかき消す。
『エネミーズ16』パレイドパグとて魔法さえ使えなけれればただの小娘。
一切の魔法を無効化する【孵らぬ卵・限定解除版】さえあれば、この程度の危機はなんでもない。
そう、一切の魔法を――
あっ。
「男子の前で、あのような……ッ、信じられぬ阿呆じゃ!」
「落ち着いてください、ニアヴさまっ。今は聞こえないですっ」
「ふわああ~。お湯がぐるぐる回って~、目がまわるよう~」
「あははははは。おっもしろーい」
阻害されていた俺の認識が戻ってくる。これまで聞こえなかった声が聞こえ、見えなかったものが見えるようになる。
立ち上がり腕を振り上げるニアヴ。
体を張ってニアヴを押しとどめるシャル。
目を回して湯の中にへたり込んでいるセスリナ。
そして、もこもこのしっぽで水面をパシパシ叩きながら、笑い転げているリスト。
そのような姿である。
俺と同じく認識を取り戻したパレイドパグがぎょっとした表情を見せ、自分の状況も忘れて叫び声を上げる。
「はあ!?? テ、テテ、テメェら どこから出てきたッ!? ってか、ワーズワードのいる男湯でなにやってやがんだ!」
「えっ」
ビシリと指を突きつけるパレイドパグに、今度はシャルたちの方が驚きの声を上げ、動きを止めた。
自分の手足を確認し、しばし周囲をさまよった皆の視線が最後に俺と交差した。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
ニアヴの戦慄く口元に鋭い牙が覗く。縦に割れた獣の虹彩の中に俺の姿は映っているな。狐の頬が熟したいちごよりも更に真っ赤に染まっていく。うん、お前も温泉で十分に温まったのだな。血行促進も温泉効果が出ているんだな。
「はわっ」
皆より少しばかり早く我に返ったらしいシャルがまたも体を張って、皆の姿をその背中に隠そうとする。
ちょっと待って、まず自分から! 故事に従って『先ず隗』から!
だか俺は悪くないので、ここで視線はそらさない。
日本人は混浴を否定しない。男としては歓迎ですらある。
だが歓迎すべきはあくまで温泉の楽しみを共有する気持ちであり、こんな混乱しか生まない状況を作った元凶どもには、一言言ってやらねばならない。
「お前ら全員、恥を知れ」