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ななしのワーズワード  作者: 奈久遠
Ep.7 黒い瞳のジュリエット
90/143

Jet-black Juliette 21

 北辺衛星都市・サイラス『とある路地裏』。

 

「ああ?」


 そんな声を上げたのは、酒場の店主・ドルトンだった。

 

 白煙を上げた倉庫の爆発はその後被害を拡げることもなかったようで、街は落ち着きを取り戻していた。土の市のことはドルトンも知っている。獣人奴隸が騒ぎを起こしたらしいという噂も耳にしたが、領主であるサイラス伯爵が直接現場に向かったという話も一緒に伝え聞けば、それ以上の不安を覚える要素はどこにもなかった。

 となれば、ドルトンにはいつも通りの仕事が待っている。

 十日で一樽。それがこの店で消費される酒の量だ。これが三日で一樽になれば儲けも大きいのだが、最近は法国ヴァンス国内が活況であるのに対し、他国――特に大紗国ドルク・アルス同士の関係は悪化している。他国からやってくる旅行者の数は減少の一途を辿っており、それは国境近くの街であるここサイラスで商売をする者にとっては生活に直結する経済問題になってきていた。

 だが、今日の注文数は三樽だ。いつも通りの客数であれば三樽目を消費できるのは一ヶ月後となる計算である。酒問屋にあるような低温を維持できる地下倉庫はドルトンの店にはない。そんな長い期間開けた樽を置いていては酒の味が落ちてしまう。場合によっては悪い菌が繁殖して、樽ごと捨てざるを得ない状況も考えされる。通常であれば、一度に三樽も注文することはない。しかし、今日は凱旋行進の日だ。戦場から帰還した兵士は酒に飢えており、財布の紐もゆるくなる。自分の店にも多くの客が押し寄せるはずである。

 ドルトンは裏路地に面した出入口を足で蹴り開けた。注文しておいた酒樽の配達の時間だったからだ。

 そして、声を上げたのだ。

 

 吐瀉物や汚物の匂いが交じるいつも通りの殺風景がそこにあるはずだった。

 それが、ない。

 目の前の景色が一変していた。わけがわからない。

 

「こいつぁ、一体どうなっちまったんだ……」

 

 と、そこに丁度馴染みの問屋が姿を見せた。


「おい、ドルトン。今日の配達はなしだ。伯爵様が凱旋行進の祝いにタダ酒を振る舞うんだとよ。ありがてぇ話だが、お陰でウチの倉庫はもう空っぽだ」

「なんだと!? そんなことされちゃ、商売になりゃしねぇぞ!」


 思わぬ話にドルトンが怒鳴り返した。


「俺に文句を言ったってどうしようもあるかい……って、なんだ、こりゃあ? ここで何があったんだ」

「知るか! くそっ、商売にならねぇってんなら俺も飲むしかねぇ。覚えてやがれ伯爵、俺から奪った酒は全部俺が飲み尽くしてやるからな」

「お前が本気で飲むのなら、明日は店があかねぇな。次の注文は明後日にでも聞きにくるぜ」

「おう、そうしてくれ」


 目の前の異変などもうどうでも良かった。こうなりゃトコトン飲んでやると唸りながら乱暴に扉を閉め、ドルトンが店内に戻る。

 残された問屋の若者は改めてあたりの様子をぐるりと見渡したが、まだ次に向かう先があるらしく一つ耳を竦めただけで足早に路地を立ち去ってゆく。

 二人の姿が消えた裏路地に静寂が戻ってくる。

 

 そこはワーズワードがリゼルという名の少女を伴い、アーティファクトの起動実験を行った場所だった。



 ◇◇◇



「我は獅族のレオニード・ボーレフである。我々のために集まっていただいた皆様にまずは感謝を述べる」


 紋切りの定型謝辞から始まったレオニードの言葉だが、そこに拍手を送るのは同じ獣人たちだけである。

 あとはつられ拍手をする者がぽつりぽつり。獅子の鬣をもつレオニードは当たり前ではあるがどこからどう見ても獣人であり、法国の耳の長い人たちからすれば、蔑視すべき存在に変わりはない。

 獣人奴隸が何を話そうというのかねと、軽薄ながらも興味を持ってもらえるならばまだましで、獣人の演説に最初から無関心な者は、まだ蓋も開けられていない酒樽の周りに集まり始めている。

 無論はじめからわかっていた状況である。敢えて言おう、想定内ですと。法国における獣人の地位はすべからく低いのだ。

 ゆえに、それでレオニードが怯むことはない。俺を信じて自分の役目を果たすと宣言した通り、威風堂々と演説台についた。

 

「この法国に住まう皆に語りかけたい、我ら獣人族のただ願いは一つ。この国で我らの仲間である獣人族を奴隸と見ることをやめて欲しいということである。獣人族は人族との友好な関係を望んでいる。『竜国ガーディア』をよく知らぬ者は、そこが獣人だけが住まう国だと考えるかも知れぬが、それは違う。王都・エイピアには、多くの人族が住んでいる。我が国では獣人族は人族とは互い差別することもされることもなく生活している。両者の友好は成り立つのだ」


 そんな真摯な演説を耳で笑う者、反射的に罵声を上げる者。そんな反応が五割だ。

 残り五割は獣人に興味のない無関心層である。ただ、領主に言われるまま広場に集まっただけで、それ以上の関心はない。


「竜国は『南の法国イ・ヴァンス』に対し、常に友好を呼びかけてきた。それを拒んできたのは常に法国側である。そして此度の竜国に対する通知もないままでの一方的な国境侵犯。ラシャの村を襲い、多くの村人を連れ去った事実。これが四方位名を冠する大紗国の行いであろうか。我はこのような無法には断固の抗議を行うものである」


 おっと、それは余計だな。そういうのは民衆の反感を買うだけだ。


「なんだあ? 獣人風情が偉そうにッ」

「これだから野蛮な獣は嫌いなのですわ」

「人と獣が友好など結べるものか!」

「俺たちの国で餌がもらえるだけありがたく思え、卑しい獣人め!」


 危惧したとおり、途端火の出るような怒声が飛んできた。

 舞台に投げつけられる小石を、レオニードは避けることなく己の身で受けた。頭部にあたった小石が薄くレオニードの額を切る。

 レオニードはただ耐えるだけだ。

 一人でやるには躊躇われる野卑な罵声や挙止も群集心理の後押しがあれば、なんら恥じることなくできてしまう。

 サイラス伯の顔には満面の笑み。民衆を敵に回すレオニードの拙い演説を聞いて安心したのだろう。

 広場の一角を占める獣人たちも自分たちを取り巻く敵意を感じ取り、抱きあうように小さくなって身を竦めていた。獣耳な人々の中でニアヴがただ一人堂々としたものであるが、舞台を見る目は厳しいものに変わっている。

 舞台上の俺の視線に気づき、耳をピクピク動かして、大丈夫なのじゃろうなと問いかけてくる。いや、そんな耳だけで表現されても。

 

 レオニードがどんな言葉で何を主張するのか、事前のすり合わせは行っていない。ただ、主張すべきことを堂々と主張し、どんなことがあっても最後まで壇上を離れるなと言っただけだ。

 額に血をにじませながら、レオニード主張を続ける。

 

「獣人族は誇り高い種族である。無法に対して無法で返すことはせぬ。我々は平和な世界を望んでいる」

「お前らがいなくなれば、平和になるだろうよ!」

「奴隸の分際でなにが平和だっ」

「そうだ、そうだッ」

「我々は奴隸ではない。奴隸にはならない。肉体を縄につなごうと魂まで隷属させることはできない。それが獣人族全ての声である」

「うるさい、とっとと舞台から降りろ獣人!」

「早く俺に酒を飲ませろッ」


 ここまでヒートアップすると、もはや何を言っても無駄という雰囲気。

 声をあげたい獣人は多かれど、ここにいるのがレオニード以外の誰かであったなら、この押し寄せる獣人否定の集中砲火には耐えられなかっただろう。

 必要なところに必要な人材がいた。それを運命とは言わないが、運が良かった、くらいであれば言ってもいいだろう。


 演説開始から、おおよそ一五分の時間が経過していた。

 ……たった一つ、懸念があった。それは伯爵権限で演説を途中で打ち切る、あるいは兵士を乱入させるような強硬手段でぶち壊しにくるという状況。主張は許したがそれは一〇秒だけだ、などという難癖をつけてくることも考えられた。ここはサイラス伯の街だ、邪魔するつもりがあれば多少の無理は通してきただろう。

 だがレオニードを――獣人を侮るばかりにそのチャンスを見逃した。

 一五分という時間、伯爵自身も聴衆に混じり一切の邪魔を加えなかった。



 つまり……俺を信じて、最後まで耐え抜いたレオニードの勝利だ。



「これだけ持てば十分だ。あとは俺が代わろう」

「おお。ワーズワード様、お願い致します」


 唐突な割り込みにも、何の疑問も差し挟まず指示に従うレオニード。

 こういった聞き分けの良さ、素直さは獣人の好ましい資質であるが、言葉をかえれば奴隸適性の高さだとも言えてしまう。この国が獣人奴隸制度を手放せないのはこういったところにも理由があるのかもな。ウルクウットもそうだったが、彼らは良くも悪くも一度受け入れた環境に対しては従順なのだ。

 レオニードの影から抜けて、演説台に立つ。


「あっ、ワーズワードさんっ!」

「ワーズワードさまー」


 まず飛んできたのは俺の名を呼ぶ黄色い声だった。

 いや、シャルさん。そんな嬉しそうにぶんぶん手を振られても。

 シャルの声に呼応するように、残りの獣人たちも勇気を振り絞り、にゃーにゃーと精一杯の声援を送ってくれる。


「ワーズワード?」

「あの男の名か」

「そういえば、あの獣人と一緒に上がってきたな」

「ワーズワード……一体何者だ?」


 そこでやっと会場の皆は俺の存在を思い出したようだった。ずっといたんだけどな。位置的にもレオニードの背面に隠れていたので、存在を忘れられていたのも仕方ない話か。

 もっとも、最初から俺の動きにのみ注視しているヤツがいたとしたら、それは別の話である。


「ほっほう。動きましたな」


 かの側近殿は、俺がレオニードに声を掛けたタイミングで既に動き始めていた。伯爵へ報告を行い、舞台袖で待機していた兵士に合図を送られる。俺の動きに不都合があれば、即座に介入してくるだろう。

 そんな周囲の動きの全てを確認した上で、俺はゆっくりと口を開いた。

 

「既に名前が出たが俺はワーズワードという。この国を訪れたのは初めてだが、俺が見るに、この国は寒く閉ざされた冬の国だ。この街も一見大変賑やかで活気があるように見えるがそれもまた薄氷の繁栄でしかない」

「冬? 氷?」

「何の話をしているんだ」

「こんなに暖かい季節だというのにな」

「全く」


 そんな声も聞こえるが、俺はその全てをスルーする。


「しかしここで暮らす皆は俺の言う寒さを感じないだろう。春の暖かさを知らないのだから、それも当然だ。春とはなにか。最後にそれを少しだけお見せしよう。――レオニード、ナイフを」

「は、これでしょうか」


 レオニードの分厚い手に収まったナイフは実物以上に小さく見える。

 ナイフを取り出す動きに兵士たちが過敏に反応し、舞台上に駆け上がってくる準備を見せる。その判断はもう少し早く下すべきだったな。今更動いたとて、一瞬で世界を変えるこのアーティファクトの魔法効果は止められない。


「このコマンドワードと一緒にそのナイフを振り下ろせ。『季節よ巡れ――』」


 言われるがまま、そのコマンドワードを口にするレオニード。


「季節よ巡れ――『とりにてぃ・すらいど』?」


 瞬間、ナイフよりまばゆい閃光――魔法の発動光――が放たれた。

 思わず足を止め視界を手で遮る兵士。閉ざされた兵士の視界の外側で、アーティファクトの持つ強大な魔法効果が会場の全てを包み込む。

 

 恐る恐る瞳を開けた兵士の瞳に飛び込んできたのは、一面の『春の景色』だった。


「「はあああああああああ!!?」」


 会場中から悲鳴のような動揺のような……とにかく驚愕の声が湧き上がった。

 

「な、なんだこれェッ」

「おおおお??」

「花だ、いきなり足元から花が咲いたぞ! どこから、どうやって」

「この花……あああ!? ウチの路地裏とまるで同じじゃねーか!」

「ママ、おはな、きれいなのー!」

「そ、そうね」

「だが確かに綺麗だ。春……これは春の花だ!」


 無味乾燥した赤茶けた土の広場。そこが一面の花畑に変わっていた。否、今まさに変わってゆく。双葉が芽吹き、茎が伸び、蕾が膨らんだかと思えば、パッと花が咲く。その連鎖。

 皆、自分の足元の地面から立ち上がっては咲いてゆくこの花々を避けるべきか踏みつけてもよいものか判断できずにバタバタと不思議なダンスを踊る。


「ふおおおおお。これほどの花を一気に咲かせるとは、なんと美しい魔法じゃ!」

「今のはボーレフ殿の持つナイフが輝いたように見えましたが」

「これもワーズワードさんの魔法でしょうか?」

「多分そうだね。でも……リーナ、トウシャ、レネシスにこっちの赤いのはスィーピアだね。 こんなにいろんな種類の花を一度に咲かせられる魔法なんて聞いたことないかも。くんくん、すっごくいい匂いっ」


 地神ジマ系魔法に【ジマズ・グロウ・シード/地神萌芽】というものがある。植物の種を開花まで一気に成長させる魔法だ。しかしそれも元の種があってこそ。植物の種それ自体を生み出し、広範囲に開花させるこの魔法効果はそれよりも遥かに上位のものであろう。

 

 源素。魔法の源たる素粒子。源素は色ごとに様々な特性を持つが、それ単体ではなんらの効果も発揮しない。源素図形を描くことで初めて一つの魔法として物理世界に干渉しえるのだ。

 図形を描くということは、この源素の持つ魔法特性がつながり、重なり、親和し、合成されるということ。ゆえに源素図形を組み立てる源素数が多いほど魔法効果が強力になるのだ。

 これが動的図形であれば、時系列で図形を見た時、その図形パターンは累乗的に増加する。故に源素数が少なくとも動的図形の魔法効果は強力なのだ。

 そしてもう一つ、動的図形に関するとても重要な考察結果がある。

 それは『動的図形は魔法を特別化スペシャライズする』という発見である。

 七つもの固有の魔法効果を発動する【アンク・サンブルス/孵らぬ卵】はその最たる例で、レオニードに渡したナイフもまた同様の力を持っている。柄にはめ込まれた三つの宝玉中では色の違う三つの平面三角形が連動している。


 一つ目は青源素x二、白源素x一の三角形。

 二つ目は赤源素x二、白源素x一の三角形。

 三つ目は緑源素x二、白源素x一の三角形。


 この不可思議な開花現象を言葉で説明するならば『種子生成』『多種多様化』『成長開花』という複合魔法効果を発動していると考えてよい。強い力だの弱い力だのという源素の基本特性だけでは説明できない複雑さだ。

 動的図形は単純に魔法を強力にするだけに留まらず、その特性自体を変異させ、他に類を見ない唯一有無の魔法効果を発動する。魔法にはまさしく無限の可能性がある。

 

 多様な花を視界一面に開花させるナイフ型アーティファクト。お値段お得な三ジット。命を断つのではなく、命を生み出す刃。なんでナイフにそんな魔法を込めたのか。これに込められた製作者の意図を俺は知らない。こういう女子供の喜びそうな魔法を込めるなら、ピンクいステッキ、デコったコンパクト、またはカードコミューンなどが適正であろうに。

 

「がおおお……」

「お前が一番驚いてどうする」


 今は皆が足元の花に目を奪われているからいいが、衆人環視の壇上であることを忘れてもらっては困る。

 周囲を林に囲まれたこの街では、風は優しく吹いている。その風に乗ってふわりと湧き立つ、濃厚な花の香り。

 百花繚乱。リゼルはこれを見て、すごい魔法だという感想を口にしたが、実際には花を咲かせるだけのなんの脅威もない魔法だ。俺が花屋なら喜んだかもしれないが、まあその程度だ。そんな魔法効果でも使いようである。

 リゼル。

 そういえば、あいつもこの会場のどこかにいるのだろうか?

 やけに押しの強いお嬢様だったが、なぜか無視する気持ちにもなれず、このアーティファクトの起動実験まで見せてやった。わざとらしい言動がどこかコミカルで女性を感じさせなかったからだろうか。おまけに偽名だしな。

 待てよ。偽名でリゼル? ……いや、考え過ぎだ、そんなわけあるまい。彼女は耳も長く喋りもネイティブな法国語だった。なにより源素の数が一般レベルであり、もし仮に姿形が変えられるとしても、源素の明るさだけは隠し難い。

 そう、隠し難いと思っていた。

 ……だが、かのジャンジャックは、その源素の明るさを最後まで見事に隠し通してみせたではないか。

 俺に向かい、小悪魔なウインクを投げかけるリゼルの姿が幻視される。

 してやられた。そう思う反面、心からの賞賛を送る俺がいる。あれほどの怪しさを隠さず、それゆえにこの俺に全く警戒心を抱かせなかった。アルカンエイクの差し向けた刺客が彼女であったなら、倉庫に到着する前に俺の冒険の書はお気の毒なことになっていた可能性もある。


 『また会いましょう、ワーズワード』


 それが彼女の去り際のセリフだった。確かにまた会うことになるだろう。それがどんな形になるか、今から楽しみにしておこう『リゼル』。


「ワーズワード様?」

「なんでもない」


 おっと、俺の方こそ舞台上に立っていることを忘れてはいけないな。

 会場全体に『春』が届いたことを確認し、俺は結びの言葉を口にした。


「突然目の前に現れたこの春に驚いたことだろう。風に融けて芳醇に香り立つこの香りに困惑しただろう。だが、それは驚きであっても恐怖ではないはずだ。困惑はあっても不快ではないはずだ。確かに急激な『変化』は驚きを伴うが、それは決して恐れるものではない。新しい季節へ一歩を踏み出すことができるものだけが春の暖かさを知ることができる。……さて、話はこれで終わりだ。最後までお聞きいただき、感謝する」


 会場は無音。驚きすぎて、俺の話は抽象的すぎて、誰も反応のしようがない。だが今はそれでいい。いずれ判然る。そう遠くない未来に。


 会場に一礼。サイラス伯に一礼。演説を強制終了すべくもう一歩で槍が届く場所まで到達していた兵士くんには軽く手を振って舞台を降りる。困惑の表情で伯爵に判断を仰ぐが、そもそも俺自身が自分から舞台を降りようというのだから道を開けるしかない。

 舞台の下で一人の男が俺を迎えた。柔らかい笑顔の奥に突き通すような視線。

 

「ほっほう。ワーズワードとやら、貴様が魔法使いであるということは聞いておる。無許可の魔法の行使については一言あるが、今は見逃そう。しかし、これ以上の要求は受け入れぬ。それで良いのであろうな」

「勿論これ以上の要求はしないし、街を出ろと言われれば出ていこう。今日はもう宿をとっているので、明日になるが」

「ふむ。伯爵閣下の民は貴様たちの虚言に惑わされるほど愚かではなかったということである。いかなる魔法の力があろうと、貴様一人の力で獣人解放など成功しようものか。身の程を知るがよかろう」

「残念なことだ。おっと、この会場準備は貴方が動いてくれたのだったな。その感謝を忘れていた。お名前をお聞きしても?」

「……サイラス伯爵家家宰、サリト-・ディ・ロムロスであるな」

「サリト-・ディ・ロムロス殿、貴殿の協力に感謝を。いや本当に俺一人ではなかなか」


 軽く笑う俺に肩透かしを食らったようなサリト-を置いて、舞台を離れる。

 俺一人の力では無理。その通りだ。では、一人でなければ?

 歩きながら、俺は心のなかに言葉を落す。正確には目の前に浮かぶ三角形に。


『状況は以上だ』

『……ふふ。ずいぶんと雅な趣向であったようだな。我も是非見てみたかった。伝え聞く以上に美しかったのであろう』

『こればかりは俺の貧弱な語彙では伝えきれるものではないからな。同じものを俺の方で作っておく。あとで実際に使ってみて、より効果的な利用法を検討してくれ』

『作るか、簡単にいう。そなた以外の誰がそれを言えようか。だが、楽しみにさせてもらおう。……総評する。獅族の力強い精神を表現したよい演説だった。我が国でも獣人の積極的な登用を推奨すべきであると考えさせられた。ん、それは余計であるな。結論を言おう』


 対面では言葉の少ない彼女がここまでの饒舌を見せるのは、【パルミスズ・マインド・ネイ/風神伝声】が心をそのまま伝える魔法だからか、あるいはこの計画に向けられた彼女の熱意故であろうか。

 饒舌もよいが、やはり彼女の最大の美点はその判断の端的さにある。

 

『十分使える。あとは我に任せよ』

『それは良かった』



 ◇◇◇



 先の宣言通り、演説の終わりと同時に酒樽が開放された。我先に駆け出し列もなさず酒樽に群がる姿は、聖国の奴らとなんら変わらぬ民度だな。『ワーズワード魔法道具店』の朝は、誰彼構わず押しのけて殺到するお客様方を香辛料で釣って一列に並ばせるところから始まる。

 はじめの驚きはあっても花は所詮花でしかない。今はもう目を楽しませるだけ。酒が入って花見酒である。

 途中荷運びの兵士から二樽ばかりを脅し取って皆の元に戻った時、真っ先に掴みかかってきたのはニアヴだった。

 

「お主! 最後のアレはなんだったのじゃ!」

「何と言われてもな」

「花を咲かせる魔法道具マジックアイテム、いやアーティファクトかや。あれには驚かされた。じゃが、それでこの国の民の意識が変わったわけではあるまい」

「変わらないだろうな」

「じゃからそれを聞かせよと言っておる。あるのじゃろ、お主にしかわからぬ理由が」

「わたしも聞きたーい」

「あのっ、私もですっ」


 セスリナとシャルも興味津々で詰め寄ってくる。

 

「その前に駄犬に話しておきたいことがあるんだが。シャル、駄犬を知らないか?」

「あ……街に入る前に少しお話をしました。でもすみません、そのあとは見ていません」

「うーん、やっぱりいないのか」

「あの者のことなど後でいいじゃろう!」


 駄犬などどうでもよいと、俺を急かすニアヴ。どうにも相性の悪い二人である。


「いないんじゃ仕方ないな。まあいいだろう、どうせあとで今後の動きについて説明しなければいけなかった話だ」

「うむ、そこじゃ」

「まずあの演説では何も変わらないといった。しかし一つ手に入ったものがある。それはこの街で獣人の主張が行われたという『既成事実』だ」

「既成事実、ですか」

「これは二つの事柄に分解できる。すわなち『法国貴族に獣人に主張の機会を与え』、『獣人自身が民衆へ向けて主張を行なった』という二点だ。サイラス伯がそれを許可した状況や、その主張をサイラスの街の人間がどのように受け取ったかなどは一切どうでもいい。たった一度であろうと、それが国内で許可され、実行されたという『既成』の『事実』が今日作られた。それが重要なのだ」

「なんで?」

「何故か。それが今後の動きに繋がる。既成事実がある以上、今後は他の都市でも獣人の主張は許可されるのが当然の事柄として理解される。この時ばかりは貴族制度も悪くない。伯爵位の上級貴族が許可したものをそれより下の子爵位・男爵位の貴族が拒否できるだろうか。

 獣人が主張すること、それはこの国ではこれまで許されなかったはずだ。それが許される。これまでの常識にない大きな変化だ。最初は反発もあるだろうし、感情的にもすぐには受け入れられない。だが――」


 ニアヴ、シャル、フェルナ、セスリナ、そしてレオニード。

 俺を見つめる瞳の色は様々だが、その瞳からうかがい知れる感情は一つである。


「一度、二度。繰り返すことで今度は『獣人の主張』それ自体が既成の『常識』に分類される。民衆はそこに違和感を持たなくなる。違和感さえなければ、条件反射の否定ではなく、獣人の主張に耳を貸すこともできる。

 そこがスタートラインだ。

 そもそも民衆のほとんどはただ獣人は奴隸であるという己の『常識』に従っているだけなのだ。変革すべきなのは個人ではなく、皆が漠然と受け入れている常識の側。獣人蔑視の冬から手を携える春へ。それが最終的な狙いだ。もちろんそれは今日明日手に入る成功ではない。だが全員を助けたいというのがセスリナのオーダーだからな。今日のところはこんなものだ。時間がかかるのは許してくれ」


 皆の瞳の中に見える感情。単純には驚きだろう。

 

「それって私がそう言ったから?」

「そうだぞ、責任重大だな」

「……うれしい。私のお願い、本当に聞いてくれたんだ!」

 

 それ以上のものも感じるが、むず痒いのでそういう目で俺を見るのはやめていただきたい。


「がおお……」

「では今日のこれは、未来に続く道筋、冬の終焉と春の始まり」

「その恥ずかしいセリフが許されるのはお前フェルナだけだな」

「この先至る街々で今日と同じことを繰り返すということかや」

「タイミングが合えばやってもいいが、基本それは考えていない。言っていなかったが、この計画は俺の発案だが、ルルシスの承認をうけた上で進めているものだ。今後の詳細については、向こうで練ってもらっている」

「えっ、ルルシスさんにっ?」

「どうやって……と聞くのは阿呆のすることじゃな」

「【風神伝声】の魔法は大変便利であるとだけ言っておこう」

「ねぇねぇ、その話、ミゴット様にも伝わってるの?」

「ルルシスが伝えてなければしらん」

「なんでえぇぇ! そんな大事な話、ちゃんと報告しておかないと怒られるうぅぅぅ!」


 わたわたと【風神伝声】を【プレイル/祈祷】し始めるセスリナだが六芒星の配置が崩れまくっているので、これでは魔法は発動しないだろう。やはり魔法というのは落ち着いた心でないと【コール/詠唱】できないものなんだな。

 この慌てぶりからするに、もう既に何度か怒られているのだろう。俺の知らないところでセスリナもちゃんとラスケイオンの仕事をしていたのか。

 

「そうそう、二三日中には光国アロニア皇国ルーワスにも話を通すと言っていたぞ。皇国の魔皇様とは個人的に知り合いらしい。聖国ウルターヴを軸に三方向から外交圧を加えつつ、内部から情報拡散と獣人主導の内乱、もとい解放運動を呼び起こす。詳しくはルルシスに任せているが工作員でも送り込むのだろうな」

「……一つ伺いたい。そのルルシスというお名前。それは、まさか世に名高いウルターヴの『姫将軍』ルルシス・トリエ・アラフェン様のことなのでは」

「いや別人だ。俺のいうルルシスはルルシス・トリエ・ルアンという人物だ」

「同一人物です……そのルルシス様で間違いありません、ワーズワード様」


 的確なツッコミありがとう、フェルナ。多分そうだと思って言った。

 

「そのような大人物がなぜ!?」

「ルルシスは俺の紗群アルマだからな。ルルシスはそれができる。なので手伝ってもらう。四大紗国だったか、まあ色々巻き込むことになるが、できることをできるやつに頼む。自重はしない」

「がおッ??」

 

 ルルシスの名。そして、全ての大紗国を巻き込むという俺の計画に、レオニードはもはやこれ以上落とせる顎がない。

 勿論獣人のためだけではない。この計画の全てがアルカンエイクへの嫌がらせになる。


「さあ、これから楽しくなるぞ。今日の出来事はただの呼び水。だが――呼ばれてやってくるのは法国の全てを巻き込む大きな『嵐』だ」


 

 ◇◇◇



 北辺衛星都市・サイラス『サイラス平原』のとある一角。


 獣人集団と帰還兵を含むサイラス伯軍がぶつかり、双方に一人の死者も出さなかったは奇跡であろう。

 だが奇跡の安売りはそこまでである。

 双方が引いたサイラス平原にたった一人存在を忘れられたかのように横たわる小さな影があった。


 『エネミーズ10』ジャンジャック。


 忍びという特殊な技能を持つジャンジャックであっても、人間という生物の致死限界までは突破できない。

 体重のたった八%の失血で人は死に至る。小柄なジャンジャックであれば、成人女性であれば耐えられたはずの失血でも致命傷となる。

 何処とも知れぬ大地、突き抜ける青空の下で眠れるように死を待つだけ。

 それは、ジャンジャックにとって、最上の喜びであった。

 幸福の中、薄くまぶたを閉じていたジャンジャックの上に影がかかった。

 

「……きたでござるな」


 ジャンジャックがそれを誰とも確認することはない。ただ瞳を閉じたまま、言葉を発した。


「わー、すっごく痛そう。それでも生きてるなんて、さすがニンジャだわ!」


 まるで場にそぐわない明るい声。降ってきたのは若い女の声だった。


「遅くなってごめんなさい。でも、あなたにも見せたかった、演説台に立つ生身のワーズワードを。こんな何処とも知れない異世界で思いつきの革命をはじめちゃうなんて、誰にできることでもない。でもそう。あれこそワーズワードよ」


 そして、死に瀕したジャンジャックを気遣う様子も見せず、一方的に話し始める。


「やっぱり彼は偉大なことを成し遂げる人だわ。本人にそんなつもりはない。そんなつもりがないのに、成し遂げてしまうからこそやっぱり偉大なの。アルカンエイクすら殺傷してみせたスーパーニンジャすら、ワーズワード相手には傷ひとつつけることができない。『当然』の結果ね」

「貴殿、この結果も予想していたので……ござるか」

「ううん、ちょっと違う。『知っていた』だけ。全力のあなたですら、ワーズワードの相手ではないと」

「言い切られるのはさすがに屈辱にござる。拙者の刃は幾度も心の臓の傍まで届いていたでござるに……それでも生きているのは運もござろう」

「運? 違うわ、これは運命よ」

「…………」

「彼は本気を出していない。ぜ~んぜん出していないの。でもそれじゃダメ。私は見たい――『観察』したい。本気の彼を」


 ジャンジャックの閉じられた瞳の上で影が踊る。実際にくるりくるりと回っているのだろう。


「あなたのお陰で十分に観察できたわ。ワーズワードの強さも弱さも。ちょっと驚いたけれど、やっぱり彼も人間なのね。孤絶主義者アイソレーショニストが本来持ち得ないおおきな弱点。アレを突けば、さすがの彼も本気を見せてくれるかしら? 本気のワーズワード。それを観察すること。それが私がここへきた目的」


 あまりの鬱陶しさに、ジャンジャックがまぶたを上げる。


「……いい加減その気持ち悪い口調はやめるでござる、『リズロット』」


 開かれたジャンジャックの瞳の前。そこにはリズロットの姿はない。代わりに――


「まあ。私の名前は『リゼル』よ。そう決めたって言ったじゃない」

「……拙者が見誤っていたのはワーズワードだけではござらん。何者でござる、リズロット……その姿、拙者に初めて恐怖というものを抱かせた貴殿こそ、底知れぬ、真の化け物」


 ジャンジャックがそう呼ぶ以上、この少女――リゼル――があのリズロットなのであろう。だが、その姿は完全にこの世界の女性のものだ。女性らしい肉体の凹凸。セルリアンブルーの髪。モスグリーンの瞳。そしてなによりも長い耳。

 少女の外見の中に、金髪碧眼の三〇台男性であるはずのリズロットの痕跡を見つけることはできない。


「えー。こんなに可愛いリゼルちゃんを捕まえて、化け物なんて失礼しちゃう。ぷんぷん。でもいいわ、まずは戻りましょう。その失血じゃ、さすがのニンジャでも保たないものね。アルカンエイクを生き返らせたあの秘宝なら、その傷も一発で治せるでしょう」


 そして、お姫様抱っこの要領でジャンジャックを抱え上げるリゼル。

 

「なにを……見ておったのであれば、拙者の言葉も聞いたはずでござろう。拙者の望みはこのまま――」


 弱々しい抵抗を見せるジャンジャック。


「あなたの望みなんて私には関係ない。本物のニンジャなんて、すっごいアメージング! もったいないじゃない」

「そのような理由で……ッ」

「痛いでしょうけど、もう少し我慢してね。大丈夫、『ユーは死なせないわ。私が守るもの』。このセリフ、一度言ってみたかったの! やっぱりジャパニメーションは最高ねっ」


 死にかけのジャンジャックに向けた『小悪魔』なウインク。

 死なせない。それは友情や慈悲の言葉ではない。それどころか、ジャンジャックにとっては受け入れがたい悪魔の如きセリフである。しかし、今のジャンジャックにはそれに対抗する生命力はもうない。

 忍びの自分のままで露と消えたいという最大の願望。それを奪われる絶望。

 ワーズワード一行が去ったあと、すぐにリゼルが姿を現さなかったのは、こうしてジャンジャックが最期の抵抗すらできなくなるまで弱るタイミングを待っていたのかもしれない。


「えーい、ものまねニンポー『粉現しの術』っ」


 ジャンジャックを抱えるリゼルの前に、パッと源素の明るさが広がる。そこで多数の緑源素で構成された複雑な図形が組まれてゆく。


 六足天馬・卷躊寧パルミスは六つの蹄で自由に空を駆け、一対の翼でどこへでも瞬時に移動できたという。

 空中を歩行する【パルミスズ・エアライド/風神天駆】と中距離の瞬間移動を可能とする【パルミスズ・エアセイル/風神天翔】の二つの魔法が、その伝承を現在に伝えている。

 その内の一つをジャンジャックが使い、もう一つをリゼルが発動させた。

 共に風神系最難度魔法であるが、それすら地球からの転移者にとって見れば単なる図形遊びの範疇でしかなく、神の存在証明には成り得ない。

 街は外周林の向こう側。ここからは見えない相手に向かい、リゼルが微笑みかけた。

 

「また会いましょう、ワーズワード。次こそあなたの全てを――」


 全てを言い終わらないうち、風に溶けるように二人の姿が掻き消えた。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 北辺衛星都市・サイラス『中央広場』。

 

「お姉ちゃん、あのお歌教えてほしいにゃ」

「ボクもっ」

「うん、いいよ~。えっとね、歌い出しはこう。『自由を得る たった一つの方法を教えてあげる』――」

「自由を得る、にゃ! たった一つの方法を教えてあげる、にゃ!」

「レオニード様、倉庫から女神様の像を運び出してきました」

「おお、すまぬな。これは自由解放の象徴だ。ワーズワード様は捨てていけと言われたが、そういうわけにはいかぬ」

「ありがたにゃ、ありがたにゃ」

「リスト様がまだお戻りになっていないんだ! 誰か手の空いたものは一緒に探してくれ!」

「わかった。私が行くわ!」


 空には茜が差し始めているが、広場から人が減る様子はない。広場周辺にかがり火が準備されているところを見ると、今日ばかりは夜まで楽しむことが許されているのだろう。

 土の市で売られたはずの獣人が街の中にいること。演説の内容。そんなあれやこれやを。とことん飲ませてを全て忘れさせてやろうというのだろう。貴族の誇りを保つのも大変である。


「やはり人族の造る酒はうまいの」

「味はともかく、一緒に飲むのがお前ではイマイチ酒の安全性の確認ができないな。おーい、誰か胃腸の弱い奴がいたら一緒に飲まないか?」

「何を言っておるんじゃ、お主は」


 今日ばかりは俺も御相伴に与っている。【マルセイオズ・フローズン・アックス/水神氷斧】。この世界のぬるい酒も氷系の魔法を覚えた今ではオンザロックで飲めるのがありがたい。

 ミゴット最大の魔法をこんな風に使っているところを見られたら、ぶち切られそうだな。ここがユーリカ・ソイルの街でなくてよかった。

 セスリナと一緒に歌っている子供たち。ここでもやっぱりフェルナを囲んでいる猫耳の娘さんたち。

 人族に拉致されてきた恨みがあるはずなのに、一つの出来事で人族全てを憎まない獣人さんの精神性は大変文化的である。

 

「ああそうだ、ニアヴ」

「なんじゃ」

「戻ってきてくれてありがとう。それを言い忘れていた」

「……お主はほんに言葉の遠慮がない。自重せぬというやつかの。妾からお主への話もあったのじゃが、今はその気が失せたわ」

「なんだ、聞くだけなら聞くぞ?」

「よい。今、妾は最高によい気分なのじゃ。今日はこの気持ちのままがよい」

「そうか。お前がそれでいいならいいが」

「そうなのじゃ。くふふふふ」

 

 ニヤニヤと俺の顔を見上げてくるニアヴ。俺の顔なんて酒の肴にもならないだろうに。

 そうして、また暫くの時が進み、空が茜色から夜色に変わる前、どこかに消えていた駄犬がなにやら難しい顔をして戻ってきた。


「よう、やっと戻ってきたか。どこに行っていたんだ?」

「…………」


 俺の呼びかけが聞こえていないわけがなかろうに、まるで反応を返さないままずんずんとこちらへ歩いてくる駄犬。

 ニアヴは特に興味がないようで、一瞥しただけですぐに酒に戻る。

 

 駄犬には早急に伝えておかなければいけない情報があった。それは、リゼル――いや、リズロットのことだ。

 どうやったのかは判然らないが、あの姿はなんらかの魔法的技術による偽装であろう。情報収集のための接触か、ただのおふざけか。あいつの場合はどっちもあり得る。

 『ベータ・ネット』で最若輩だった俺が、最も多く言葉チャットを交わした相手はリズロットだ。ジャンジャックのようにその人格について全く情報がないわけではない。リズロットであれば、俺の敵に回るとしても、直接俺の生命を狙ってくるような攻撃方法は取らないだろうが、それゆえ何を狙ってくるかも判然らない。駄犬にその存在について、教えないわけにはいかなかった。

 

 近づいてくる駄犬特有の三白眼は怒っているようでもあり、なんらかの感情を押さえつけているようでもあり、判断できない。

 そして立ち止まる。

 なんだ? ただ猛烈に嫌な予感がした。

 とはいえ、お互い黙っているのもおかしな構図だ。


「えーと、今日の出来事でお前に話しておくことがあるんだが――」

紗群アルマ群兜マータについて、話を聞いた」


 先に話を切り出した俺に被せるように、喋り出すパレイドパグ。

 アルマ。マータ。

 えっ。

 

「アルマってのは、つまり恋人ゲリープテってかフラウのことなんだってな。で、テッ、テメェ、シャルをアルマにしてるんだってなッ」

「そ――」

「あ、その話ですか。えへへ、街に入る前にパレイドパグさんに聞かれたのでお答えしました。はい、私はワーズワードさんの紗群ですっ」


 シャルさん、それ、だめ。中途半端な知識しかもっていない相手に中途半端な情報、だめ。


「それ、ちが」


 慣れない異世界の酒のせいか。いつものようにうまく口が回らない。


「シャルがテメェのアルマって……シャルは、このアタシより全ッ然ガキじゃねーか!」

「いや、ほとんど変わらないだろ。胸とかホラ」


 たとえ、口がまわらない状況でもノーはノーだ。間違いを正す勇気。それが求められている気がした。

 ピキと何かがキレる音がした。

 

「テメェはそっちのが好きだってことを認めンだな――このロ(ヒトトシテ決して呼ばれてはいけない呼び名)ヤローがーーッ!!」


 広場の喧騒の全てをかき消すような大音量の吠え声が周囲の視線を集める。

 遠くにいても声だけは聞こえただろう。なにせ耳だけが長いのだから。勿論聞こえたところで意味はわからないはずだ。それに対応するこの世界の単語を駄犬は知らない。

 唯一理解できる俺自身はとっさに受動型認識系でその『ヒトトシテ決して呼ばれてはいけない単語』を脳内で認識置換したため、精神へのダメージはない。

 ない。ないんだ。だから涙は流れないし、死にたくもなっていない。

 

「ふん。人が良い気分のときに騒がしい娘じゃの」

「『ろり(ヒトトシテ決して呼ばれてはいけない呼び名)』ってなんですか?」

「……いいぜ、シャル、アタシが今から全部教えてやる。コイツの趣味の全部をよ。キャハハハハハハ!!」


 やめて。違うから。群兜制度はお前の思っているような、そんな制度じゃないから。いや、運用次第でそうにもなるのが厄介で。でも俺はそんな運用はしていないわけで。

 こういう誤解が怖かったから、知るべき情報は順番にって……そう言った、言ったんだ!

 頭の上にクエスチョンマークを浮かべたシャルが悪魔に連れ去られてゆく。終わった。


「ニアヴ。なぜ俺を助けた」

「なんじゃ、いきなり」

「あの時ジャンジャックに殺されていれば、俺は今死なずにすんだ」

「意味がわからぬ」

「……酒だ。今日は飲むぞ」

「ほう、お主がそのようなことを言うのは珍しいの。よいじゃろ、今宵は妾もトコトン付き合うのじゃ!」

 

 と、そこでふいに鼻孔をくすぐる芳香が地面より立ち昇ってきた。


「花の香りだな。風の流れがとまったのか」

「……パルミスの休息じゃ」

「パルミスの休息?」

「夕刻の時間帯、昼と夜で風向きが変わる狭間に訪れる風のないひととき、それを『パルミスの休息』と呼ぶのじゃ」


 そうして、一時翼を休めたパルミスが、また力強い羽ばたきで空へと舞い上がるのだと信じられている。

 これまで吹いていたのは南からの風。その向きが変わり、もう少しすれば北からの風が吹き始めるだろう。北――すなわち『北の聖国ラ・ウルターヴ』からの『南の法国イ・ヴァンス』へ向けて吹き寄せる風である。

 


 物語の舞台は法国へと移り変わった。

 かつて同じ空間を共有した『エネミーズ』たち。アルカンエイクに与する者のなかで、その先鋒たるジャンジャックはワーズワードの前に敗れた。

 しかし、これで終わりではない。さらなる難敵がいずれ目の前に立ちふさがるだろう。

 一方のワーズワードは法国の全てを巻き込む大きな嵐を呼び寄せる。戯れのまま混乱を振りまくワーズワード。その性質はまさしく『世界の敵』、なのであろうか。

 

 次なる舞台には一体何が待ちかまえるのか。

 そして、ワーズワードの冒険は続く。

ではまた次章お会いしましょう。

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