Jet-black Juliette 16
不可視の抱擁。柔らかい何かに包まれる感覚。
それは軽い空気のようでありながら、確かな硬度を持っているようだった。
ギィィィ――ンッ!
俺の喉元を狙い横一文字に振られたナイフが不可視の盾に阻まれ、金切り音を奏でる。
必殺の確信をまたもや崩されたジャンジャックが双眸を見開く。
その驚きは俺も同じであるが、そこから次なる行動へと移行する思考の切り替えは俺の方が早い。
身体能力では泥ガメと韋駄天ウサギほどの差があるだろうが、並列思考の演算能力でまで上を行かれているなんてことはさすがにありえない。
絶体絶命の死地を思いがけず切り抜けた今こそが最大のチャンス。同様にジャンジャックにとっては最大のピンチとなる。
詳細は未確認だが、今の俺はナイフを弾くほどの物理的無敵状態になっているようだ。であれば、当然それは攻撃にも転用できるに違いない。俺はその防御効果を信じて、ただジャンジャックにぶつかってゆくだけ。
シャルと同じか、それよりも小さなジャンジャックの身体。見開かれた瞳は俺と同じ色。
見つめ合うつもりは一切ないが、今俺の視界にはジャンジャックしかおらず、彼女の視界にも俺しかいないだろう。
そして、そのまま――
ゴッッッ!!
俺は自分の額を強烈な勢いでジャックジャックの額に叩きつけた。
硬質な何かがぶつかる地味に痛そうな音。自分の身体からは鳴らしたくない。
「かっ、はっ」
さすがのジャンジャックもこの状況から頭突きがくるなど想像もできなかったのだろう。たたらを踏んで大きくのけぞった。
それでいて俺の額に痛みはないのだから、分析した通り俺の全身の十数ミリだが数十ミリの厚さで魔法的シールド効果が発動していて、俺への物理ダメージを遮断してくれているのだろう。
やっと一本を取り返したといったところか。
さすがにそれ以上の追撃の隙まではなく、ジャンジャックが飛燕の動きで距離をあけた。
不意を突かれたとはいえ、いとも簡単に俺への接近を許してしまった不甲斐なさを取り戻すべく、レオニード及び獣人男衆がジャンジャックへ飛びかかっていくのが見える。
それはそれとして――
俺は上空を仰いで、俺を助けた声の主を探した。声は空から降ってきたのだ。
倉庫の屋根にポッカリと空いた穴。その縁に一つの影が立っていた。その影がぴょんと跳躍する。
常人にはありえない動作。平屋二階建てに相当する天井の高さを持つ倉庫である。例えば俺がそんな高さから飛び降りたならば、両足を粉砕骨折してショック死するか、そんな途中経過もなく即死するかの二択しかない。
だが、その人物は自身の体重がないかのような滑らかさでほとんど音もなく、トンと着地した。
日本の巫女が着ていそうなゆったりと胸元の開いた布の衣服。頭にはぴんと伸びたキツネの耳。耳と同じ色の太い尻尾はふさふさの毛並みである。
というような説明を今更付け加える必要があるものか。姿を確認するまでもなく、それは俺のよく見知った人物に違いないのだから。
違いないと表現したのはその顔に木製のキツネの面をつけており、素顔がみえないからである。
「あっ……!」
一番に反応したのはシャルだ。シャルは今、絶対に離さないという強さで俺の腕にしがみついている。
飛び出していきたい。でもそのためには俺の腕を離さなければならない。そんな葛藤が耳のピコピコとなって現れている。
俺はさてどうしよう。まずは助けてもらった感謝か?
そんなことを考えていると、面の下から声が聞こえてきた。
「たわけめ。お主今、死を受け入れたであろう」
静かな声だ。表情が読めないので声質だけで判断するしかないが、それは静かな――怒りだろうか。
「……仕方ないだろう。生きている以上、そういう結果もありえる。人間死ぬときは死ぬ。『自分だけは何があっても死なない』なんていう幻想は俺にはない」
「じゃからこそ言っておるじゃ。このたわけめ」
「いや、だからなんで怒るんだ。俺の問題なのだから、お前には関係ないだろう」
「関係はある。お主はいうたな。濬獣自治区は異世界をつなぐ門であり、濬獣にはその門を通り現れる者を『秤る』役目があるのだと。であれば『ニアヴ治林』に現れたお主を秤るのは妾の使命じゃ。妾はまだお主の全てを秤りきれておらぬ。お主はまだ死んではならぬ」
「そうです、わた、私達をおいて、死ぬなんて言わないでくださいっ、うわーんっ」
狐の言葉が、シャルの涙が、俺に言葉を失わせる。
「……言われずとも進んで死ぬ気はないぞ。だから、助けてもらったことには感謝している。最大限に。その上での避けられぬ結果があるだろうという話だ。それに、濬獣に関する考察は持ちえる情報を整理しただけの、あくまで推論でしかない話だぞ」
「なにが推論じゃ。人が苦悩の中におる時に遠慮もなしに、頭のなかでしゃべり続けよって。それもきっかり一時間ごとに! お主と距離をおいた意味なぞ一切なかったわッ」
「頭のなか……そういえば、馬車の中でよくピカピカ光ってたけど、アレってもしかして【パルミスズ・マインド・ネイ/風神伝声】の魔法を使ってたの?」
「一時間ごと……ワーズワードさん、確か馬車の中でニアヴさまのことは放っておけばいいって、そんなこと言っていませんでしたか? それなのに自分だけ……」
「いや、それは。単なる定時確認といいますか業務報告といいますか」
「…………」
目尻にはさっきの涙を残したままでやや恨みがましい視線で俺を見上げてくるシャル。
セスリナめ、普段ボケっとしているくせに、こういう時にだけいらん気付きを。
狐が右手を伸ばし、ひたと女神像に触れる。一度像を見上げ、そして次に倉庫内の獣人たち――今もジャンジャックの相手にしているレオニードを中心にした男性集団と、雪豹子さんを中心にした女性・子供集団――をぐるりと見回し、別のことを口にし始めた。
「……この国での同胞の扱われようについて、妾にも憂慮はあった。それをお主に伝えもしたし、その上でこの問題は同じ国に住まう全ての者の力で解決すべきものじゃと、そうも言った」
頷く。
それはフェルニの村で聞いた話だった。
「人族と獣人族が手を取り合う未来。それは必ずある。妾は信じておる。信じてはおるが、同時にそれにはまだ多くの時間がかかるであろうとも考えておった。
妾の生命は永い。その長い時間を待つことができる。じゃが、それは今を生きる同胞の救いにはならぬ。この場所で……妾自身の目で今を見、助けを求めるたくさんの『聲』を聞きながら、それでもなお、妾は動けなんだ」
ガンと鳴らされた音は、狐の拳が像を叩く音である。
『人の地に干渉してはならない』。それが濬獣の掟だったか。
狐の面が再びこちらを向く。
「じゃというのに、お主は妾の踏み出せぬ先へ、何の躊躇もなく踏み込んで行きよって! お主はまっこと破壊者じゃ!」
「いきなりだな」
まあそう言われても仕方ないのかもしれないが。
狐にあった心の苦しさ、それが叫びとなって体外に排出されているのだろう。
そうすべきだという心の声と、そうすべきではないという心の声。狐だけではない、人はいつも二者択一を迫られて生きている。正解のわからない選択を繰り返している。
それを葛藤という。
仮に本能と理性という言葉に置き換えれば、判然りやすいだろうか。本能のままの行動が全て間違いであるわけではなく、理性的な判断がいつも正解に繋がるわけではない。
そのどちらかの比重が重ければ、そこに葛藤は生まれない。だが等しく価値があり、等しく重いものであれば、そのどちらかを選択することはやはり苦しい。そんな苦しさこそを葛藤と呼ぶのだから。
「面白い話をしてござるな」
「……ジャンジャック」
「向きは違えど、ワーズワードも拙者も同じ穴の狢。世を破壊する悪疫には変わりないでござろうな」
いつの間にか別の柱の上に逃げ延びているジャンジャックである。肩で息をしているところを見れば、いくら人間離れしたニンジャな彼女でも無限の体力があるわけではないらしい。
「ふん、全く違うわ」
狐が鼻を鳴らす。ジャンジャックはやや面を喰らった表情を見せる。
「貴様とこやつは違う。常識を破り、型を破り、ついには枷までも破る。それは確かに破壊であろう。じゃがそれは同時に、悪因を打ち壊す勇気であり、新たな型を作り出す変化であり、絶望を払う光明じゃ――それは、なんと胸のすく破壊であることか!」
力強い狐の宣言。
あれ、もしかして俺、ほめられてる?
「同じ破壊といえど、貴様のごときは相手の死のみを目的とした、まさに暗殺者のたぐいであろう。同列に語ることすらおこがましいわ!」
「……いうでござるなあ」
困惑? いや、苦笑だろうか。狐の言葉には反論できない圧力があった。
知識や技術で圧倒的なアドバンテージをもつジャンジャックにとって、この世界の人間など背景でしかないはず。そんな背景の一人が自分に意見して、さらに言い返せない状況など想定していなかったに違いない。これが知識や技術ではない、生きてきた年月、人生経験の重みというヤツかもしれない。
ジャンジャックを一言で切り捨てた狐面が、俺に向き直る。
「お主は『人族も獣人族も同じ人間』じゃというたな。どうせお主は、その言葉の重みもわからぬまま口にしているのであろう」
「まあ、実際当たり前の認識だしな。俺にとっては」
「責めておるのではない。だから良いと云うておるのじゃ。重みを持って口にすれば、やはり両者の間に壁が存在することを認識させられる。じゃが、お主にはそれがない。元より壁がない位置に立っていて、なおかつ同じだと云う。ゆえに妾は――皆は、お主の元でなら真に求める人族も獣人族の関係が作れると、そう信じることができる。故にここにおる皆はお主を護るために傷つくことを恐れず、行動できるのじゃ」
腕を伸ばし、バッと袖をはためかせて見得を切るような動き。
そして、倉庫中に響き渡る声で宣言した。
「獅族、猫族の勇者よ。安心して進むがよい。妾は汝らを誇りに思う!」
突然現れて、この上から。自分の言動も舞台装置の一つとして計算して行動している俺と違い、これが素なのだろう。身分差のある世界だとはいえ、素でそんなことを言ってしまえる神経は実際すごいわ。
「「おおおおおおーーーー!!」」
だとしても、獣人たちにとってはまんざらでもないお言葉だったようで。波紋が広がるかのように皆の表情に炎が灯ってゆく。コイツが一人いるだけで生まれる絶対の安心感。森の守り神の呼び名は伊達ではない。
「はは……」
俺もまた肩の力の抜けたような大きな吐息を落とした。
なんだかんだで俺もその安心感とやらを感じてしまっているわけだ。
「拙者はまだ健在にござるぞ。お仲間が一人増えたとて、安堵を落すのはちと早かろうに」
「ジャンジャック。これが『トリック・オア・トリート』であるならば、その第一幕はこれで終わりだ。そして、第二幕にお前の出番はない。それもこれも俺を殺せるチャンスを二度も逃したお前の運の無さが原因だがな。やはり忍者という職業柄、運のパラメタ値が低く設定されているのか?」
「戯言」
そう、戯言だ。それを口に出来るだけの余裕が俺にあるということだ。
セスリナの問いかけに是と答えた時から、俺の舞台は始まっている。予期せぬジャンジャックの登場。エネミーズ同士の危機的接触というアドリブ介入で計算を崩され、俺自身の死亡というイレギュラーが発生する寸前まで行くところだったが、もう一つの予期していなかった狐の助けでそれもチャラ。
時間も頃合いとなれば、もはやジャンジャックという単一個人では俺の舞台進行を妨げることはできない。
「ルーキー」
「……パレイドパグ」
ゆらりと立ち上がり、やや俯き気味に立つパレイドパグ。忘れていたわけではないが、突き飛ばした後、特にフォローしてなかったな。
一歩、二歩を歩いてきて、ガッと俺の胸ぐらを掴み上げた。
「――テメェ、もう二度とあんなことすんな!」
「お前、泣いてるのか」
掴み上げると言っても、背丈の関係上パレイドパグが下から俺を見上げるカタチにしかならない。
そのパレイドパグの頬には目尻から続く、一筋の涙の跡があった。
「パレイドパグさん……」
「泣いてなんかねェ、ただ悔しいんだよッ。結局最後はテメェだけで……アタシじゃ、助けにならねーってのかよ! 言ったはずだ、アタシはテメェの……」
それ以上は言葉にならず、再び俯いてしまう駄犬。ただ、俺のシャツを握る手に力が込められる。
俺は俺で、少しの申し訳ない気分となんともいえない気恥ずかしさとで返答に困る。
どいつもこいつも、なんでこうまっすぐな感じなのだろう。俺の脳を揺さぶる、ジャンジャックの刃に勝るとも劣らないパンチ力。これが若さか。
「あの時はあれが最善だった。なによりもあそこでお前に傷ついてもらうわけにはいかなかったからな」
「なっ、それってどういう――!?」
俺の言葉にビクリと身を震わせて反応する駄犬。こういう反応は本当に犬っぽい。
だが、それに答えてやれる時間はほとんどなかった。
ドッ……ゴォンッッッ!!
ほぼ同時のタイミングで倉庫の扉が外側から、大きな音を立てて破壊されたのだ。
◇◇◇
「む?」
「今度は何事にござる」
互いの動きを制するにらみ合いを続けていたニアヴとジャンジャックも状況の変化に視線を動かす。
やっと来たか。
全員が同じ方向を向く中、ただ一人俺だけは静かに心のなかで舞台台本のページを一枚捲っていた。
遅すぎるとは言わない。時はまさに今、待ち望んだタイミングだった。
爆音を奏で吹き飛んだ扉付近に砂埃が舞う。そこにバラバラ人影が沸き立った。
外からの日差しを受け明るさを増した倉庫内に恐ろしく威勢のよい男の声が飛び込んできた。
「聖徳を積むサイラス伯の膝元にて、神聖なる土の市を乱すは、まさしく下賤なる獣人の蛮行。この火神神殿上級神官サリンジ・ダートーンが火神・熙鑈碎に代わり、街に平穏を取り戻さん!」
それは聞き覚えのある声だった。
宣言に続いて、ガシャガシャと硬質な音を立てて、全身装備を固めた騎士、軽装の兵士が倉庫内になだれ込んでくる。破壊された扉から、そして俺も通ってきた側面に開いた穴から。
ここからは見えない倉庫の外周も完全に固められていることだろう。
外壁に沿って展開する兵士たち。砂埃が立ち込める中、更にもう一つ声が聞こえてきた。
「ぬわっはっはっはっ。素晴らしい口上である、ダートーン卿」
「悪を討つは正義の戦い。我らの姿を神々もご照覧あられましょう」
「反乱を手引きする者の中に魔法使いがいたという話であるが……この凱旋行進の良き日、偶さかとはいえ四神殿の上級神官が我が街に訪れていたことまでは計算に入っておらんかったであろうよな。ぬははは、全く運のない奴らよ」
「まさしく」
そうして馬鹿笑いを上げる二人の中年男性の声。
もうひとつ聞こえた声の持ち主が領主のサイラス伯爵か。
というか、サリンジお前……あー、そういえばサイラス伯のところに戦勝労いに行くとか言っていたか。
制圧部隊の突入、それは当然計算していた。しかし、余計なオマケのことまでは想定していなかった。
「な――シャル、それにワーズワード様もッ!?」
「フェルナ兄さんっ」
聞き覚えのある声。雪崩れ込んできた兵士の中にフェルナの姿があった。フェルナ以外にも正規でない格好、武器類を携えた一団が混じっている。
「お、フェルナじゃないか。偶然だな。どうしたんだ、こんなところで」
「こんな……ところで……」
倉庫内に俺たちの姿を見つけ、愕然と青褪めるフェルナ。
「……反乱鎮圧の名目で、街に滞在する冒険者に協力命令があったのです。国の保護を受ける冒険者組合はそれを断ることができません。情報収集のために組合に顔を出していた私も巻き込まれる形でここまで来たのですが……わかりました。情報収集は諦め、今より群兜に助力します」
「正しい判断だ。しかしお前がいるんだったら、もう少し早く来て欲しかったな」
「申し訳ありません」
いや、理由もわからず謝らなくていいんだが。
それはそれとして切り替えが早い。さすがフェルナである。
囲みの列を離れ、俺たちに合流してきた。
なんにせよ、俺の生命の危機はたった今去ったばかりなので、この後フェルナの出番はないだろう。
一方、倉庫内に展開しおわった騎士、兵士たちが大きな声を上げて内部の状況を伝え合っていた。
「奴隸どもの枷が解かれているぞ、油断するな!」
「なるべく生け捕りにしろ、もちろん反抗する者は切り捨ててかまわん!」
「っと、なんだ、あの女性像は?」
「不用意に近づくな、得体がしれん!」
「弓隊は魔法使いを優先的に狙え! なに、こちらには上級神官様がいる、これだけ囲んでしまえばたとえ魔法使いといえどもどうすることもできん」
「男が一、女が三、獣人が一……なんだ、ガキばかりではないか」
「それに戦列を離れたあの冒険者も反乱の協力者だ。一緒に捕らえろ」
「ちょっと待て、柱の上にもう一人いるぞ。黒い異様な格好の奴だ」
「慌てるな。一人二人増えようと、逃げられはせん!」
「おい、どいつが首謀者だ?」
「魔法使いだな……あの女だろう、赤いローブを着ている」
「うむ。間違いない」
俺であってもそうとしか考えないであろう客観的分析の元、槍の穂先と弓の鏃がチャキリとセスリナに集中した。
「ひゃわわっ!? それは私じゃないよぅ!」
一斉に自分に向けられた凶器の数に、涙目になったセスリナがわたわたとフェルナの背中に隠れる。
そんなセスリナらしい行動に呆れつつも自然笑みがこぼれてしまう。
『らしさ』という個性、うん、大切だな。
俺が俺であるという『らしさ』――どうせやるならスマートに、そしてシニカルに。それが俺らしさである。
獣人たちの男女二グループも槍に追われ、俺たちのすぐ近く、自由の女神像の周囲にまで追い立てられていた。
ジャンジャックは動いていない。想像するに、一人でこの包囲を脱出するのは容易だが、この混乱の中、隙あらば再度俺を狙ってやろうという腹だろう。
「レオニード。全員をこちらに集めてくれ」
「お言葉ながら、少しでも分散しておいたほうが狙われにくく。囲みを突破するのであれば我らが一本の槍となり――」
「いいんだ」
レオニードはおそらく戦場の経験があるのだろう。敵に囲まれた状況では戦力集中の一点突破が常道であり、追い立てられるまま囲いの中心に集まるなどという下策は考えられない。
「従うがよい。この男のことじゃ。なんぞ、考えがあるのじゃろう」
そこにニアヴが歩み寄ってくる。
こんな状況ではあるが、シャルが俺の腕を離し、その胸に飛び込むように抱きついていった。
「うう、ニアヴさまぁ!」
「……心配をかけたの、シャル」
包み込みようにシャルの背中に手を添える狐。
仲良きことは美しき哉、だな。
それはそれとして、
「で、お前はお前で、その謎仮面をいつまで被ってつもりだ?」
そもそも何のつもりでつけているのかが謎である。
心配をかけたというのなら、まずは無事な顔をシャルに見せてやるのが筋だろうに。
俺はシャルの背中越しに狐の面に手を伸ばし、そのまま頭の方にずらす。
「バ、バカモノ、やめぬか――ッ」
何故か面を取るのを嫌がる狐だがシャルに身体をロックされ動きを封じられている状況では顔を背けるのが精々だ。俺の手から逃れられず、頭の後ろで紐を結んだだけの狐面は軽く外れ、頭の上でキツネ耳と耳に間にちょうど乗っかる形で固定された。
「…………」
「…………」
見慣れた顔。思わず近い距離の中、見開かれた黄金の瞳の中に俺の顔が映る。見つめ合う――というには短すぎる数秒の停止時間。
その僅かな時間の中で、キツネの顔色がカァァァァと紅潮していった。そして、潤みを帯びた瞳の中で、俺の困惑した表情が揺れる。
……………。
「くっ」
キツネは俺をドンと軽く突き飛ばすと、プイと顔を背けた。
「どうしたんですか、ニアヴ様?」
「な、なんでもないのじゃ。……お主も妾の面を気にかけておる暇があるなら、周りの状況を気にかけたらどうじゃ!」
「……ああ。まあそれはそうなんだがな」
いや、お前がそんな反応するから俺も固まってしまっただけで。
さっきのアレはなんだ。いや、こうして戻ってきてくれたわけなので、それでよしとするか。
「そうそう! どうするの、もう完全に囲まれちゃってるよぅ!」
「群兜、実際によろしくない状況です。村での状況とは違い、周りを全て囲まれ、更には弓兵もいます。逃げる道がありません。どうするのですか」
「それに私たちだけじゃなくて、獣人さん達もいますし」
「あの暗殺者めも、放置しておくのは危険じゃな」
口々に心配の声を上げる皆に、俺はただ一言だけを回答する。
「大丈夫だ、俺たちにはこの駄犬がいるからな」
そして、目の前にある頭にポンと手をおいた。
全員の視線が駄犬に集まる。
「は……アタシぃ!?」
言葉の意味が判然らず俺を見返してくる駄犬。
そう、お前がいるから大丈夫なのだ。
扉の破壊とその後の突入により、倉庫内でもくもくと舞い上がり視界を遮っていた砂埃も既に収まり、倉庫内の状況の全てが視認できるようになっていた。
俺たちを取り囲む兵数はおよそ一〇〇。
数の上では同数。こちらの半数以上は女子供の非戦闘員であることを考えなければだが。もう一つ、倉庫外に待機しているであろう別部隊を数に数えなければ、だな。
扉側、重装近衛騎士の一隊に厚く護られた奥にサリンジとサイラス伯が並び立っている。
『法国神紅騎士隊』の白銀の鎧が見えないが、一緒にはきていないのだろうか。
ふと、俺とサリンジの目が合う。いや、向こうのほうが少し早く俺の存在に気づいていたのだろう。パカリと顎を落とし、大きく口を開いていた。
「!!?」
「どうしたのだ、ダートーン卿?」
脳内で声にならない悲鳴を上げるサリンジは、サイラス伯の呼びかけにも反応できない。
しかし、このような戦場で二度も俺と対峙する羽目になるとは。なんというか、サリンジも運のない奴である。
「よし、行こうか」
「ちょ、オイ! アタシもかよ!」
俺はパレイドパグを連れて、人の輪の中から一歩抜けだし、サイラス伯と対峙する場所に立った。
「そちらにおられるのがサイラス伯爵でよいのだろうか」
「黒い髪……獣人ではないな? 貴様がこの反乱の首謀者か」
「俺はワーズワードという。首謀者かと聞かれれば疑問符を返さねばならないが、まずはそう思ってもらって構わない」
「ぬう、まさか人間が首謀者であったか。となれば、獣人どもの反乱ではなく、我の戦利品を奪わんと企む賊の類か」
「そういうわけではないんだが」
「ふん、だが今更投降しよう言うのも無駄であるぞ。貴様らに逃げ場はない。平民が貴族相手に罪を犯せばどうなるかは、貴様もわかっておろう」
「残念だが、それは知らない。なにせこの国に来るのは初めてなものでな。法国の法制について詳しく聞きたいし、こちらからも話しておかなければいけないことがある。投降の意志はないが、少し話しをできないだろうか」
まずは交渉。いつもの俺のやり方だ。しかし、低レベル文明社会特有の身分制度が邪魔してか、こちらが下である状況で行う交渉がうまく行った試しはあまりない。
「あまり調子に乗るな賊めが。貴様の生命など、我の号令一つで吹き飛ぶのだぞ!」
ホラ、こんな感じで。
俺の提案を挑発と受け取ったサイラス伯が不快感を露わにする。
圧倒的優位な状況にある自分に対し、俺の不敵とも受け取れる態度は、確かにフカイフユカイな気持ちであろう。
「お、おお、お待ちをッ、サイラス伯!」
そこでやっと混乱を飲み込んだサリンジが慌てて隣に立つサイラス伯に声を掛けた。
おっと、俺についてのネタバレはやめてもらおう。
俺は素早く【パルミスズ・マインド・ネイ/風神伝声】の源素図形を作り、心を通してサリンジに話しかけた。
『ナニモ シャベルナ』
「ひぃぃぃぃぃ!」
「先程から一体どうしたというのだ」
上級神官という魔法のスペシャリストがみせる怯え。それはサイラス伯にも理解できないものなのだ。
次のセリフは口に出して話す。
「ダートーン卿、これはあなたの責任でもあるんだぞ。俺の目的はアルカンエイクと連絡をつけること。あなたの役目はその伝令。だというのに何日経っても連絡をつけられない。こんな簡単な仕事一つこなせないから、俺がこうして自分で動くことになったのだ」
「王の名を呼び捨てにした上にダートーン卿を知っている……? あの賊は何者であるのか、ダートーン卿!」
「プひー! プひー! プひー!」
過呼吸で返答できないサリンジに見切りをつけ、俺を睨みつけてくるサイラス伯。
俺はゆっくりと言葉の続きを口にする。
「ゆえに、アルカンエイクに俺の存在を伝える役目は別の人間に頼むことにした。別の人間というのは、まあこの国全ての人間ということだ。俺はこれから彼ら獣人を『奴隷的地位から解放』する運動に助力する。法国における『獣人種族の地位』の是非について、基本的人権は獣人であっても尊重されるべきではないのか。その疑問をこの国に住まう全ての国民に投げかけるになる。そして、サイラス伯爵、俺が疑問を投げかける最初の一人があなただ」
唖然という言葉は今のサイラス伯を表現するために作られた言葉だろう。
獣人種族の解放運動。その仕掛け人の名前は広く人口に膾炙し、必ず王宮の奥にいるアルカンエイクにも届くだろう。
その上で、既存社会制度の破壊をもたらす解放運動は法国に多くの混乱を生むことになる。結果として、解放運動が成功すれば獣人種族は奴隷的身分から解放され、法国は低コストの労働力を失うことになる。失敗してもその途中経過で法国国内に甚大な被害をばらまくであろうし、人心には奴隸制度に対する不信感を植え付けられるだろう。その晴れぬ疑問はどうやっても残り続ける。
俺的にはそのどちらの結果に終わっても別に構わない。どちらであっても、法国の国力は大きく低下する。アルカンエイクはきっと眉をしかめてくれるだろう。
明確な実利と嫌がらせ。アルカンエイクは甘いお菓子と辛いお菓子、そのどちらが好きだろうか。
伝令という意味ではアルカンエイクの協力者であるジャンジャックに仲介を頼むこともできそうだが、何を考えているか判然らないジャンジャックの如き孤絶主義者は仲介役としてこの上なく不適切であり、俺にとっては単なる障害だ。『トリック・オア・トリート』、それにはハッカー同士、互いの被害を楽しめる多様な甘さが必要だ。時にクッキー、時にはケーキ。もちろん全て毒入りだが。
相手の死のみで勝敗を決しようとする彼女の『おかし』は、例えるならば味の変化に乏しい氷砂糖の単結晶。ただ単純に甘すぎる。
互いに楽しんでこそ『トリック・オア・トリート』の価値がある。
気を取り戻したサイラス伯が吠える。
「獣人の地位? 奴隸を解放する? ――バカな、それはもはや『反乱』どころではない、『大逆』ではないかッ!?」
「いいや、違う。いずれ奴隸制度が撤廃に進むことは歴史的見地から見れば、あるべき自然な流れでしかない。世界はそう動いているのだ。故に考えて欲しい。未来に進む一歩を己の意志で踏み出すか、誰かに背中を押されなければ進めないのか。思考を排して盲目のままそれを拒むというならば、貴方の方こそが大きな流れに逆流する目無し魚だ」
「何の話をしている!? 全く話が通じぬわ!」
「結構わかりやすく説明したとおもったんだがな」
それとも語彙の問題か?
法国といえども言葉が変わるわけではないので、単語レベルで通じていないわけではないと思うが。
「たわけ、それこそ『実を見て根を見ず』じゃ。その男はここな同胞を捕らえてきた張本人、お主のいう川の流れを堰き止めてきた側の人間であろう。魚ではなく杭。話し合える余地などはじめからないわ」
「そうはいうが俺はサイラス伯爵の為人をしらないんだ。彼が単純に善人であれば、無用な流血が避けられるかもしれないし、本当の意味でこの国の将来を考えられる人物であるなら、俺の行動に理解を示してもらえるかもしれない。判然らない以上、確認しておかないと。己の行動の理解を求める側が相手の理解を放棄してはいけない」
話し合えないと断定するニアヴの中には怒りがある。
俺的にはそれはどうでもいいところなので、感情論を抜きにして冷静に会話できる。
「かっか。立派な考えでござる。されども、結論はすでに出ているようでござるぞ?」
今の状況をやや楽しんでいたらしい、柱の上の忍者が皮肉を口にした。
サイラス伯の手振りにより騎士たちが槍を構え直したのだ。突撃の構え。
これ以上の問答は無用、そういうことだろう。
「ジャンジャック――今言ったのは限りなく小さい可能性の話であって、それを期待していたわけではない。むしろ改心されていたら、俺の計算が狂っていたところだ」
「どうするのでござる?」
「昔の人がいいことを言っている。ことわざにもあるだろう、『出る杭は打て』と」
というのは意味が違うか。まあジャンジャック以外の誰にも判然らないだろうから別に訂正はしなくていいだろう。
ジャンジャックから視線を戻し、俺は駄犬を前に残すように一歩だけ下がる。
「よし出番だ、パレイドパグ」
「よくわかんねーけど、アタシの助けがいるんだな。キャハハハ! いいゼ、アタシの魔法であのおっさんをぶっ飛ばしてやんよッ」
「いや、そうじゃない。そのまま動かないでいてくれればそれでいい」
「あ?」
疑問符を浮かべて、首だけで振り返る駄犬。俺はその小さい身体を後ろから抱きすくめるような格好で密着する。
「ふぁ!?」
「感情を乱すんじゃない。源素制御が難しくなるだろうが」
「ななな。源素だァ?」
「そう、源素だ」
目の色を白黒と変える駄犬の前面、そこに必要な源素を集めて動的源素図形を構築する。
赤源素x一、
青源素x一、
黄源素x一、
緑源素x一、
白源素x二、
そして、
黒源素x一
駄犬の感情の爆発が生み出す源素の乱流。その中で衝突し、合成された黒い源素。
これは俺の持ち得ないものだ。転移者の従源素はその引力が強いらしく、俺であっても他人の持ち物の源素コントロールが難しいことは確認済みである。
そのため、俺がパレイドパグの持つ黒源素を魔法の中に組み込みたい場合、これくらい密着する必要があった。
パレイドパグの助けが必要というよりは、パレイドパグの持っているこの黒源素の力が必要だということだな。
不可視の盤面に並べられた七つの源素。その座標を制御し十字に並べる。次にはその形を崩して、立方体へと作り替える。立方体を崩し、円環を作り、波打つ潮騒へと変化させる。潮騒は幾何学の軌道で球へと変わり、バラけた後には十字に戻る。その動きを繰り返し、変化の速度を上げてゆく。
やがてその速度が一定に達したとき、七つの光の粒は、互いに銀糸のような手を伸ばして結びあった。
ただの点は線となり、線は奥行きを持つ立体へと変化する。空中に固定された状態で源素は動き続ける。
ふむ、制御が難しいのは図形にするまでだな。俺の念では動きの鈍い黒源素も、一度手を取り合った後は素直に俺の制御を受け入れてくれた。
愕然と俺を見上げてくるパレイドパグ。
「ウソだろ……こんな複雑で繊細な源素制御、ありえンのか……受動型認識系――魔法の使い方を覚えた今だからわかる。これはアタシじゃ絶対できねェ……なんなんだ、てめェは」
俺はそれには答えず、構築した動的図形に魔法発動の念を送った。
無音詠唱。
魔法発動の閃光が迸り、パレイドパグが薄く目を閉じた。
しかし、それっきり何の変化もない。『アンク・サンブルス』の魔法の虹は現れない。そう、倉庫内には。
それでいいのだ。
準備はOK。俺は頭上のジャンジャックに向き直り宣言した。
「場所を変えて第二幕を始めよう。仕切りなおしだ、ジャンジャック――発動、『大脱出』」